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書名: 『I AM THAT 私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話

書誌:
英訳者  モーリス・フリードマン
編集者  スダカール・S・ディクッシット
翻訳者  福間 巌
発行所  株式会社ナチュラルスピリット(2005年6月8日初版発行)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
項目:
 「実在」こそは最強の破壊者……。問いをぶつけて最強の破壊者からの反響を聴いてみてください。
・何が実在の基準ですか? ・何が正しく何が間違いでしょうか? ・どうすれば幸せになれるのですか?
・世界は無価値のものではないはずです。 ・私は世界を助けられるようにたいだけです。 欲望の本性とは何でしょうか?
至高の真我には意識があるのでしょうか? 神とジニャーニ(覚者)はひとつでしょうか? ・ジニャーニが望んでから起こるのでしょうか?
・自分が何もできないとは思えません。 ・手術を受けることを選択したのは私です。 ・私は神であると考えることはできますか?
・私の思考が私を妨害します。 ・人生にはするべき多くのことがあります。 マインドの自然な状態とは?
・なぜ苦しみは避けられないのですか? ・戦争や革命はではありません。 は分かち合うことができません。
・自己にせよ非自己にせよ、事実は現実です。 ・それでもは現実です。 悪の輪を断ち切ることはできるでしょうか?
偉大な人々は何をしてきたのでしょうか? 善と悪の間には、何の壁もないとでも? ・世界の問題の客観的解決法は?
・どうしてが広まらないのでしょうか? ・何が必要なのでしょうか? ・何が最終目的なのでしょうか?
・なぜこんなにも困難があるのでしょう? ・何が私に興味をもたせるのでしょうか? ・何が(智慧への)障害なのでしょう?
・なぜ私が世界を創ったと言えるのですか? 不安はどのようにして現れるのでしょうか? 瞑想とは何でしょうか?
・あなたは私に何をしてほしいのでしょうか? ・いったい出口があるのでしょうか? ・現実の問題もあります。
・どのようにしてマインドを制御すれば? ・私たちの本性は動物性を潜めています。 理解で充分なのでしょうか?
平和はやってはこなかったのです。 ・それには違う社会に生きなければなりません。 ・私が求めるのは真理で、平和ではありません。
・なすべきことが多すぎて、余裕がありません。 ・私の欲望に沿うように変えていくべきです。 ・私がただの光なら、どうして忘れたのですか?
・すべてが起こるだけなら、なぜ心配の必要が? ・注意を背けて、どうして生活できるでしょう? ・どうして無知が現れたのでしょうか?
・なぜ私には自分が生まれ死ぬと映るのですか? ・この世界を無意味と見るとは、何と冷淡な! ・結局のところ、何が私の問題なのでしょう?
・苦しみに囲まれながら、どうやって幸福で? 困難の中で不幸となるのは避けられません。 幸福と快楽との違いは何でしょうか?
・幸福が依存せぬものなら、なぜ私たちは……? ・困難の不在が幸福と言えますか? ・空っぽと無――なんと恐ろしい!
・幸福と意識のつながりは何なのですか? ・マインドを超えても意識は継続しますか? 気づきの中で気づいているのは誰ですか?
・あなたは気づきの中に在り続けるのですか? 存在―意識―至福は絶対ですか相対ですか? 実在と表現はどのような関係にありますか?
・私は運命、カルマに支配されているのです。 ・人生はあるがままに楽しむべきものです。 ・私が知っているのは楽しみだけです。
・変化の体験は記憶と現実の比較によります。 ・現実の真性と記憶の不確実性の違いは? 永遠の自己をどうやって知るのですか?
・どうやってマインドを追い払うのですか? ・どうすれば変われるのでしょうか? ・身体とマインドから自由になるべきでは?
・私は統合されていないので無視できません。 ・自分を統合したいのです。 ・深く変わらなければならないのでは?

引用:


何が実在の基準ですか?

 何であれ依存するものは実在ではない。
 実在は真に独立している。
 個人の存在は世界に依存している。
 そしてそれは世界によって制限され、定義されている。
 それゆえ、それは実在ではありえない。(p78)


何が正しく何が間違いなのでしょうか?

 一般的には、苦しみを生じさせることが間違いで、苦しみを取り除くことが
 正しい。
 身体とマインドには限界があり、それゆえ傷つきやすい。
 それらが保護を必要とすることが恐れを生みだすのだ。
 それらと自己同一化するかぎり、あなたが苦しむのは避けられない。(p??)


どうすれば幸せになれるのですか?

 あなたの非依存性を自覚し、幸せでありなさい。
 あなたに言おう。
 これが幸福の秘密なのだ。
 あなたの幸せがものごとや人びとに依存すると信じることは、自己の真の本
 性に関するあなたの無知によるものなのだ。
 自己知識を除いては、幸せとなるために必要なものは何もないと知ることが
 智慧なのだ。(p??)


あなたは世界を避けるべき、価値のないものだと主張します。しかし世界を忌
み嫌うことは必要な通るべき段階ではあるが、一過性のものであり、じきに普
遍の愛と確固たる意志で神とともに働くことになる、と主張する人々もいます。

 外へ向かう(プラヴリッティ)道にとってはそれは正しい。
 源へ帰還する(ニヴリッティ)道を行くものにとって、自己を無に帰するこ
 とは必要なことなのだ。
 私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。
 マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。
 そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、世界
 を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。
 ひとたび世界が存在のなかに現れたならば、あなたの言ったとおりとなるだ
 ろう。
 目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
 ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
 それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。
 しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもな
 いというのが私の立場だ。
 そこが私の居場所なのだ。
 何が起ころうと私には影響を与えない。
 ものごとがものごとに働きかける。
 ただそれだけだ。
 記憶と期待から自由なため、私はいつも新鮮で、無垢で、トータルだ。
 マインドはたいへんな働き者(マハーカルタ)で、休息が必要だ。
 何も必要ない私には、何の恐れもない。
 誰を恐れるというのだろう?
 そこには分離などない。
 私たちは分離し、孤立した自己ではない。
 ただ個人と非個人がひとつである真我、至高の実在があるだけだ。
 (p104)


私はただ世界を助けられるようになりたいだけなのですが。

 あなたが助けられないと誰が言っただろうか?
 助けるとはどういう意味で、何が必要なのかということをあなたが自分で決
 めておいて、何をすべきで何ができるのかという必要性と能力の間で自分自
 身を葛藤(かっとう)に追いやったのだ。
 そしてそれは、あなたのマインドがある構造を投影し、それと自己同一化す
 るからだ。
 あなたが助けたい人々もまた、欲望を満たすために、それぞれの世界のなか
 にいる。
 彼らの欲望を通して以外、彼らを助けることはできない。
 あなたには、彼らが正しい欲望をもつように教えることができるだけだ。
 そうすれば彼らは現状を超え、快楽と苦痛の住処(すみか)である欲望の世
 界を創造し、再創造しようという衝動から自由になれるかもしれない。(p104-105)


欲望の本性とは何でしょうか?

 欲望の本性とは、それを満たすためにマインドが世界をつくり出すよう促す
 ことだ。
 小さな欲望さえ、長い行動の連鎖を生みだすのだ。
 強い欲望ならばどうだろう?
 欲望は宇宙をも生みだす。
 その力は奇跡的なものだ。
 小さなマッチ棒が巨大な森林に火をつけることができるように、欲望も現象
 の現れに火をつける。
 想像の目的自体が欲望を満たすことなのだ。
 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。
 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ
 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。
 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。(p105)


至高の真我には意識があるのでしょうか?

 彼はマインドが考えることのできるすべてを超えている。
 彼は存在と非存在をも超えている。
 彼はすべてに対してイエスであり、ノーである。
 内側であり、彼方でもある。
 創造し、破壊する想像しがたい実在なのだ。(p105)


神とジニャーニはひとつでしょうか?

 神はすべてを為すものであり、ジニャーニは無為の人だ。
 神自身が「私がすべてを為す」と言いはしない。
 神にとっては、ものごとはそれ自体の本性にしたがって起こるのだ。
 ジニャーニにとっては、すべてが神によって為される。
 彼は神と自然との間に何の違いも見ない。
 神もジニャーニもともに、彼ら自身が変動の中の不動の中心であり、移り変
 わるものの永遠の観照者であることを知っている。
 その中心は空なる点であり、観照者は純粋な気づきの点だ。
 彼らは、彼ら自身が無であることを知っている。
 それゆえ、彼らに抵抗できるものは何ひとつないのだ。(p105-106)


ジニャーニが起こるように望んでからものごとが起こるのでしょうか?
それともそれらが起こってから、ジニャーニはそう起こることを望むのでしょうか?

 それは両方だ。
 私は受け容れ、そして受け容れられるのだ。
 私がすべてであり、すべては私なのだ。
 世界であるゆえに、私は世界を恐れない。
 すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう?
 水は水を恐れず、火は火を恐れない。
 私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。
 私には名前も形もない。
 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
 私には執着がない。
 私は無だ。
 そして無は無を恐れない。
 反対に、すべてが無を恐れている。
 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)


どうしても私には自分が何もできないということは受け入れられません。

 だが、あなたに何ができるというのかね?
 あなたは手術を行う外科医の手にかかり、麻酔薬の影響下にある患者と同じ
 だ。
 目覚めたとき、あなたは手術が終わったことを知るのだ。
 それでもあなたが何かをしたと言えるだろうか?(p256)


しかし、手術を受けることを選択したのは私なのです。

 もちろんそうではない。
 あなたに決定をさせたのは、一方ではあなたの病気であり、もう一方では医
 師と家族からの強要なのだ。
 あなたに選択はない。
 ただ選択権があるという幻想だけだ。(p256)


「私は神である」と考えることはできるでしょうか?

 自分自身を観念と同一化してはならない。
 もし神が未知なるものという意味ならば、あなたは単に、「私は私が何であ
 るか知らない」と言うだけだろう。
 もしあなたがあなた自身を知るように神を知っているならば、言う必要もな
 い。
 もっとも正しいのは「私は在る」という純粋な感覚だ。
 忍耐強くそのなかにとどまりなさい。
 ここにおいては忍耐が智慧なのだ。
 失敗を思ってはならない。
 この仕事に失敗はありえないのだ。(p259)


私の思考が私を妨害します。

 放っておきなさい。
 闘ってはいけない。
 それについて何もしないことだ。
 それが何であれ、あるがままにしておきなさい。
 抗うこと自体がそれに生命を与えるのだ。
 ただ無視しなさい。
 見過ごすのだ。
 「何であれ、私が在るゆえに起こるのだ」ということを思い出すことを覚え
 ていなさい。
 すべてはあなたが在るということを思い起こさせる。
 体験するにはあなたがいなければならないということを充分利用するがいい。
 関心をもたないことが自由をもたらすのだ。
 しがみつかないこと、それだけだ。
 世界は無数の輪(リング)でできている。
 それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
 あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
 そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
 あなたの耽溺を放棄しなさい。
 ほかに何も放棄するものはない。
 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
 そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
 努力せずに在りなさい。(p259)


人生は努力です。そこにはするべき多くのことがあるのです。

 する必要があることはしなさい。
 抵抗してはならない。
 あなたのマインドのバランスは、的確に正しいことをすることを基本に、瞬
 間から瞬間へと活動的でなければならない。
 成長することに反抗する子供のようであってはならない。
 型にはまった身振りや態度は助けにならないだろう。
 完全にあなたの思考の明晰性、動機の純粋さ、行為の高潔さのみを頼りにし
 なさい。
 あなたが道を誤ることは、けっしてありえない。
 超えていきなさい。
 そしてすべてを置き去りにしなさい。(p260)


マインドの自然な状態とはどのようなものでしょうか?

 いかなる特定の思考もマインドの自然な状態ではない。
 ただ、沈黙だけが自然な状態だ。
 沈黙という概念ではなく、沈黙そのものだ。
 マインドが自然な状態にあるとき、すべての体験の後に、自発的にそれは沈
 黙へと立ち返る。
 あるいはむしろ、沈黙の背景に対してすべての体験が起こるのだ。(p260)


もし原因が想像上のものならば、なぜ苦しみは避けられないのでしょうか?

 あなたを苦しめるものは、つねに偽物だ。
 偽りの欲望と恐れ、偽りの価値と観念、偽りの人間関係だ。
 偽りを放棄しなさい。
 そうすれば、苦痛から自由になれる。
 真実は幸せをもたらす。
 真実は解放するのだ。(p271)


戦争や革命は間違いなく夢ではありません。病気の母親と飢えた子どもたちは
夢ではありません。不正な富とその誤用は夢ではないのです。

 それ以外の何だというのかね?(p300)


夢は分かち合うことができません。

 目覚めの状態もまた、分かち合うことができないのだ。
 目覚め、夢見、眠りの三つの状態はすべて主観的で、個人的な私事(わたく
 しごと)だ。
 それらはみな意識の中の「私」と呼ばれる小さな泡の中に包まれ、そこで起
 こることなのだ。
 真実の世界は自己を超えた彼方にある。(p300)


自己であろうと、非自己であろうと、事実は現実です。

 もちろん、事実は現実だ。
 私はそれらの中に生きている。
 しかし、あなたは事実ではなく、想像の中に生きているのだ。
 事実はけっして衝突しない。
 だが、あなたの人生と世界は矛盾で満ちている。
 矛盾は偽物の証拠なのだ。
 本物がそれ自体で矛盾することはない。
 たとえば、あなたは人々が極端な貧困の中にいると苦情を訴えている。
 それにもかかわらず、あなたの富を彼らに分け与えはしない。
 あなたは近隣で起こっている戦争にはかまうが、どこか遠くの国で起こって
 いる戦争のことは考えもしない。
 あなたの気まぐれな自我が価値を決定し、「私は考える」「私は欲しい」
 「私はしなければならない」といった移ろいやすい想念を絶対的なものにし
 てしまうのだ。(p300)


それでも悪は現実です。

 あなたの存在以上の現実ではないのだ。
 悪は誤解や誤用による問題への誤った対処法にある。
 それは悪循環なのだ。(p300)


その(悪の)循環の輪を断ち切ることはできるでしょうか?

 偽物の輪を壊す必要はない。
 それをあるがままに、非存在として見るだけで充分なのだ。(p300)


遙かなる昔から、人々は真理を実現してきました。それにもかかわらず、何と
わずかばかりの影響しか私たちの生活に与えてこなかったのでしょう! ラー
マたちやクリシュナたち、仏陀たちやキリストたちは来ては去っていきました。
そして、私たちは相変わらず汗と涙の中でもがいているのです。私たちがその
人生を見守ってきた偉大な人々は何をしてきたのでしょうか? 世界の束縛を
和らげるために、あなたは何をしたのでしょうか?

 あなたのつくり出した悪を取り消すことができるのは、あなただけだ。
 あなたの無神経な利己主義がその根本なのだ。
 まず、自分の家に秩序をもたらすことだ。
 そうすれば、あなたはあなたの仕事を終えたことを知るだろう。(p301)


つまり、あなたは善と悪の間には、何の壁もないと言われるのでしょうか?

 そこに壁はない。
 なぜなら、善も悪もありはしないからだ。
 あらゆる実際の状況のなかで、あるのはただ必要なことと不必要なことだけ
 だ。
 必要なことは正しく、不必要なことは正しくないのだ。(p301)


世界の問題の客観的な解決法はないのでしょうか?

 世界の問題は、それぞれが自分の欲望や恐れでいっぱいの、無数のあなたの
 ような人々によってつくり出されているのだ。
 あなたの個人的、社会的な過去から、誰があなたを解放できるというのだろ
 うか?
 そしてあなた自身が、幻想から生まれた欲望から自由になることへの切迫し
 た必要性を見ないかぎり、どうやって世界の問題を解決するというのだろう
 か?
 あなた自身が助けを必要としているかぎり、どうしてあなたに本当の助けが
 できるだろうか?(p301)


どうして善が広まらないのでしょうか?

 私の真実の世界では、それは広まっている。
 私の世界では、あなたの呼ぶ悪も善の召使いであって、それゆえ必要なもの
 なのだ。
 それは吹き出物や熱が身体の不純物を取り除くようなものなのだ。
 病気は苦しく危険でさえあるが、正しく対処すれば治るものだ。(p302)


何が必要なのでしょうか?

 成長することが必要なことだ。
 より成長することが必要なのだ。
 良いことをより良いことのために放棄することは必要なことだ。(p302)


何が最終目的なのでしょうか?

 最終目的ははじまりのなかにある。
 あなたはあなたがはじめたところで終えるのだ――絶対なるもののなかで。(p302)


では、なぜこんなにも困難があるのでしょう? 私がはじめたところに帰り着
くためなのですか?

 誰の困難だろうか?
 どの困難だろうか?
 あなたは生長し、繁茂し、巨大な森林とまでなった種子を憐れむだろうか?
 あなたは人生の厄介ごとから救うために幼児を殺してしまうだろうか?
 人生の何が間違っているというのだろう、永遠の人生が?
 成長のための障害物を取り除きなさい。
 そうすれば、あなたの個人的、社会的、政治的、経済的問題はみな、ただ消
 え去るだろう。
 宇宙はその全体性において完全であり、部分が完成に向かうための努力は喜
 びの道なのだ。
 未完成を完成のために進んで犠牲にしなさい。
 そうすれば善と悪についての話はもうなくなるだろう。(p302)


何が私に興味をもたせるのでしょうか?

 苦痛への恐れと快楽への欲望だ。
 快楽は苦痛の終焉(しゅうえん)であり、苦痛は快楽の終焉だ。
 それらは果てしない連続性のなかで交代しているだけなのだ。
 あなたがそれを超えたあなた自身を見いだすまで、その悪循環を調べてみる
 がいい。(p396)


何が(智慧への)障害なのでしょう?

 誤った観念と欲望がマインドと身体の気を消散させ、誤った行為へと導いて
 いく。
 偽りの発見と放棄は、真実がマインドのなかに入ることを妨げるものを取り
 除くのだ。(p397)


どうして私が世界をつくったと言えるのでしょうか? 私はそれを知りもしな
のです。

 あなたがあなた自身を知るとき、世界の中であなたに知ることができないも
 のは何ひとつなくなるのだ。
 あなた自身を身体と考えることで、あなたは世界を物質的なものの集合だと
 見なしてしまう。
 あなた自身を意識の中心として知るとき、世界はマインドの大海として現れ
 る。
 実在のなかのあるがままの自分自身を知るとき、あなたは世界をあなた自身
 として知るのだ。(p398)


不安はどのようにして現れるのでしょうか?

 それは「私は身体だ」という観念によって生じた精神的状態だ。
 それは「私は身体ではない」という反対の観念によって取り除くことができ
 る。
 どちらも観念であり偽りだ。
 しかし、ひとつがもうひとつを取り除く。
 どの観念もあなた自身のものではないということを認識しなさい。
 それらはみな、外側からあなたにやってくるのだ。
 あなたは全力をあげて考えなければならない。
 あなた自身があなたの瞑想の対象になりなさい。
 あなた自身を理解しようと努力することがヨーガなのだ。
 ヨーギになりなさい。
 あなたの人生をそれに捧げなさい。
 熟考し、驚き、探求しなさい。
 あなたが誤りの根本と誤りを超えた彼方の真理にたどり着くまで。(p430)


瞑想とは何でしょうか?

 瞑想とは意識の高次の状態を貫き、最終的にそれを超えていこうとする意図
 的な試みなのだ。
 瞑想の技法とは、後に残してきたレベルの理解を失わないままつねにより精
 妙なレベルへと注意の焦点を移行する技だ。
 ある意味では、それは制御しながら死を迎えるようなものだ。
 人は最低の段階からはじめる。
 社会環境、習慣と慣例。
 身体的環境、姿勢と身体の呼吸。
 感覚器官、それらの感覚と知覚。
 マインド、その思考と感情。
 人格の構造全体が把握され、確実に捕らえられるまでだ。
 瞑想の最終段階は、アイデンティティの感覚が「私はこれだ」を超え、「そ
 こに在る」を超え、すべての観念を超えて、非人格的な、純粋な存在へと到
 達されることだ。
 だが、あなたが瞑想するときは精力的でなければならない。
 それは間違いなくパートタイムの仕事ではない。
 あなたの興味と活動を、あなたに必要なこととあなたの家族にとって最低限
 の必要に制限しなさい。
 あなたのエネルギーと時間を、あなたのまわりにマインドが築いてきた壁を
 破壊するために確保しなさい。
 私を信じるがいい。
 けっして後悔しないだろう。(p430)


正確には、あなたは私に何をしてほしいのでしょうか?

 あなたのハートとマインドを「私は在る」について熟考させなさい。
 それが何なのか、どのようなものなのか、その源は何なのか、その意味とは
 何かを熟考しなさい。
 それは井戸を掘り下げていくことにとても似ている。
 生命の泉に達するまで、あなたは水でないものをすべて拒絶していくのだ。
 必要なことはすべてあなたの内側にある。
 ただ、あなたは敬虔さと愛情を抱いてあなた自身に接近しなければならない。
 自己非難や自己不信は悲惨な過ちだ。
 あなたの絶え間ない苦痛への闘いと快楽の追求は、あなたがあなた自身に抱
 く愛のしるしなのだ。
 私があなたに願うことは、あなた自身への愛を完全なものにしなさい、とい
 うことだ。
 あなた自身のなかの何ひとつ、否定してはならない。
 あなた自身に無限性と永遠性を与えなさい。
 そして、あなたはそれらを必要としないことを発見しなさい。
 あなたはその彼方にあるのだ。(p431-432)


私たちはまるで動物のように、果てしなく無益な追求のために走りまわってい
るようです。いったい出口があるのでしょうか?

 多くの道があなたに差しだされてきた。
 それらはあなたをひと回りさせ、出発点に連れ戻すものだ。
 まずあなたの問題が、目覚めの状態にしか存在しないことを認識しなさい。
 それがいかに苦痛に満ちたものであっても、眠りについたとき、あなたはす
 べて忘れることができるということを認識しなさい。
 目覚めているとき、あなたは意識している。
 眠っているとき、あなたはただ生きているだけだ。
 意識と生命。
 その両方をあなたは神と呼ぶかもしれない。
 だがあなたはその両方を超えているのだ。
 神を超え、存在と非存在を超えている。
 あなた自身がすべてであり、すべてを超えていると知ることを妨げているの
 は、記憶に基づいたマインドなのだ。
 あなたがマインドを信頼するかぎり、それはあなたを支配しつづけるだろう。
 それと闘ってはいけない。
 ただ無視しなさい。
 注目を奪われて、それは速度を落とし、その働きの機構を露わにする。
 ひとたびその本性と目的を知れば、マインドが想像上の問題をつくり出すこ
 とをあなたは許さないだろう。(p494)


すべての問題が想像上のものでないことは確かです。そこには現実の問題もあ
ります。

 マインドがつくり出さなかった問題などというものがありうるだろうか?
 生と死は問題を作らない。
 苦痛と快楽は来ては去っていく。
 体験されたことは忘れられる。
 達成と逃避の問題をつくり出すのは、好きと嫌いに色づけされた記憶と期待
 だ。
 真理と愛が人の真の本性であり、マインドとハートはその表現の手段なのだ。(p494)


どのようにして何を欲しているのか知らないマインドを制御すればよいのでし
ょう?

 制御しようとする努力はすべて、マインドを記憶の命令の支配下に置くこと
 になる。
 記憶は良き召使いだが、悪い主人だ。
 それは発見を巧妙に妨害するのだ。
 実在の中に努力の場はない。
 主要な問題と、その他すべての問題の原因は、身体との自己同一化による利
 己主義にあるのだ。
 努力によって利己主義を取り除くことはできない。
 ただ、原因と結果への明晰な洞察によってのみ為されるのだ。
 努力は互いに相容れない欲望の間に起こる葛藤の徴候だ。
 それらはあるがままに見なければならない。
 そのときにだけ、それらは消え去るのだ。(p494)


私たちの本性は、その内奥に動物性を潜めているのです。それが克服されるま
では、実在が現れることをどうして期待できるでしょうか?

 動物性のことは放っておきなさい。
 それをそのままにしておくがいい。
 ただあなたが何なのかを覚えておきなさい。
 観照者としてのあなたなしには神も動物もありえないということを、日々の
 あらゆる出来事をきっかけにして思い起こしなさい。
 あなたは存在するすべての本質と実体の両方なのだと理解しなさい。
 そしてあなたの理解の中に確固として止まりなさい。(p495)


理解で充分なのでしょうか? もっと明確な証拠が必要なのではないでしょう
か?

 証拠の妥当性について決定するのはあなたの理解なのだ。
 だが、あなた自身の存在以上にどのような確実な証拠が必要だというのかね?
 あなたがどこへ行こうと、あなたはあなた自身を見いだすのだ。
 あなたがどれほど遠くに辿り着いたとしても、あなたはそこにいるのだ。(p495)


私は人生のはじめのころから、不完全さという感覚につきまとわれてきました。
高校から大学、就職、結婚、そして裕福になっていき、つぎに起こることこそ
私に平和を与えてくれるはずだと想像するのですが、平和はやってはこなかっ
たのです。

 そこに身体と、身体との同一化との感覚があるかぎり、欲求不満は避けられ
 ないものだ。
 あなたが身体とは完全に異なり、相容れないものだと知ったときにだけ、
 「私は身体だ」という観念に不可避の恐れと欲望の入り交じった状態から休
 息を見いだすのだ。
 単に恐れをなだめたり欲望を満たしたりすることでは、あなたが逃避したが
 っている空虚な感覚を取り除くことはできない。
 ただ自己知識だけがあなたを助けることができるのだ。
 自己知識ということで、私はあなたが何ではないのかということの完全な知
 識を意味している。
 そのような知識は到達可能であり、最終的なものだ。
 だが、あなたが何であるかを発見していくことに終焉はありえない。
 発見していけばいくほど、より多く発見することが残るのだ。(p499)


そのためには、私たちは異なった親と学校をもち、違う社会に生きなければな
りません。

 あなたに環境を変えることはできない。
 だが、あなたの態度を変えることはできる。
 非本質的なことに執着する必要はないのだ。
 ただ本質的なことだけが正しい。
 本質的なことのなかにのみ平和は在るのだ。(p499)


私の求めているものは真理であり、平和ではありません。

 あなたが平和でないかぎり、真実を見いだすことはできない。
 静かなマインドは正しい知覚にとって欠かせないものだ。
 それはまた、真我の実現にとっても要求されるのだ。(p499)


私はあまりにも多くのなすべきことがあり、マインドを静かに保つだけの余裕
がありません。

 それはあなたが行為者だという幻想によるのだ。
 実際には、ものごとはあなたに対してなされるのであって、あなたによって
 なされるのではない。(p499)


もし私がただものごとをあるがままに起こらせたなら、どうしてそれが私の思
うように起こると確信できるのでしょうか? もちろん、私はそれを私の欲望
に沿うように変えていくべきです。

 あなたの欲望はそれを満たすこと、あるいは満たされないこととともに、あ
 なたに起こるのだ。
 どちらにせよ、あなたに変えることはできない。
 あなたは努力し、闘い、力を尽くしていると信じるかもしれない。
 それもまた、その仕事の結果とともにすべては単に起こるだけなのだ。
 何ひとつあなたによるものではなく、あなたのためのものでもない。
 すべては映画のスクリーン上の画像の中に顕わにされる。
 光のなかには何もない、あなたがあなただと思っている個人も含めて。
 あなたはただの光なのだ。(p499-500)


もし私がただの光なら、どうしてそれを忘れてしまったのでしょうか?

 忘れてはいない。
 あなたが忘れ、そして思い出すのはスクリーン上の画像のなかだけだ。
 あなたがトラになった夢を見たからといって、人であることをやめたわけで
 はない。
 同じように、あなたはスクリーン上の画像として現れた純粋な光であり、ま
 たそれとひとつになったものでもあるのだ。(p500)


すべてが起こるだけなら、どうして心配しなければならないのでしょうか?

 まさしくそのとおりだ。
 自由とは心配からの自由なのだ。
 あなたが結果に影響を与えることはできないと自覚したからには、欲望と恐
 れに注意を払うことはやめなさい。
 それらを来ては去っていかせなさい。
 それらに興味や注意といった栄養を与えて助長してはならない。(p500)


もし私が起こっていることから注意を背けたなら、何によって私は生活してい
けばいいのでしょうか?

 またしてもそれは「もし私が夢を見るのを止めたら、どうすればいいのでし
 ょう?」と尋ねるようなものだ。
 止まりなさい。
 そして見るのだ。
 「次は何か?」と心配する必要はないのだ。
 つねに次はやってくる。
 生命ははじまりも終わりもしない。
 不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく
 のだ。
 数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
 ない。
 生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
 の源に戻っていくのだ。(p500)


もし人生がそれほど素晴らしいものなら、どうして無知が現れたのでしょうか?

 無知について尋ねる前に、まず誰が無知なのかを調べなさい。
 あなたが無知だと言うとき、感情と思考の現状に無知という観念を押しつけ
 たことをあなたは知らないのだ。
 それが起こるときを調べてみなさい。
 完全な注意を払いなさい。
 すると、あなたは無知といったものはまったく存在せず、ただ不注意があっ
 ただけだということを知るだろう。
 あなたが心配することに注意を払いなさい。
 ただそれだけだ。
 結局のところ、心配とは精神的な苦痛であり、苦痛とはつねに注意を呼び起
 こしていることなのだ。
 あなたが注意を払う瞬間、苦痛はやむ。
 そして無知という問題は消え去る。
 質問の答えを待つ代わりに、誰が尋ねているのか、何がそれを尋ねさせるの
 かを見いだしなさい。
 あなたはすぐに、それが恐れと苦痛に駆りたてられたマインドが尋ねるのだ
 と知るだろう。
 そして恐れのなかには記憶と期待、過去と未来がある。
 注意はあなたを現在に連れ戻す。
 今、そして今のなかにある存在はつねに手に入る状態だ。
 だが、気づかれることはまれなのだ。(p500-501)


あなたは、私がけっして生まれてこなかったし、死ぬこともないと言いつづけ
ています。もしそうならば、どうして私の目には、世界は誕生し、間違いなく
死にゆくものとして映るのでしょうか?

 そう信じるのは、明らかにあなたが生まれ、そして死んでいく身体だという
 考えを一度も疑ったことがないからだ。
 生きている間、身体は注意を引き、完全にあなたを魅了する。
 それゆえ、自己の真の本性を知覚する人は本当にまれなのだ。
 それは大海の表面を眺め、その下にある広大さを忘れるようなものだ。
 世界とはマインドの表面だ。
 そしてマインドは無限なのだ。
 私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。
 マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
 マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残る
 のだ。
 この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的な
 ものだ。
 それに比べればダイヤモンドさえもバターのように柔らかい。
 この圧倒的な実在の現実性が、世界を夢のように霧のかかった無意味なもの
 にするのだ。(p503)


あまりにも多くの苦しみを抱えたこの世界を、どうして無意味なものとして見
ることができるのでしょう。なんと冷淡な!

 冷淡なのはあなたであって、私ではない。
 もしあなたの世界がそれほどにも苦しみに満ちているのなら、何とかするが
 いい。
 強欲や怠惰をそれに加えてはならない。
 私はあなたの夢のような世界に束縛されてはいない。
 私の世界では、苦しみ、欲望、恐れの種子はまかれてはいない。
 それゆえ、苦しみは育たないのだ。
 私の世界は対極から自由であり、相互に破壊的な不一致がなく、調和が遍在
 しているのだ。
 その平和は岩のように堅固であり、この平和と沈黙が私の身体なのだ。(p503)


結局のところ、何が私の問題なのでしょう?

 結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に
 自己同一化することなのだ。
 この習慣を捨てなさい。
 あなたはあなたが知覚するものではないのだ。
 注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。
 あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。
 そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。
 ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あ
 なたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見
 る。
 賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。
 あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空
 間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、
 あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。
 だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうで
 なければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅
 なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。
 あるがままのあなたを知りなさい。
 ほかに恐れに対する治療法はない。(p503)


こんなにも多くの苦しみに囲まれながら、どうやって幸福でありつづけること
ができるのでしょうか?

 それはどうすることもできないのだ。
 内なる幸福は圧倒的に現実のものだ。
 空の太陽のように、その現れが雲に隠れたとしても、けっして不在ではない
 のだ。(p505)


私たちが困難に在るとき、不幸となるのは避けられないことです。

 問題はただ恐れだけだ。
 あなた自身を何にも依存しないものとして知りなさい。
 そうすれば、あなたは恐れとその影から自由になるだろう。(p505)


幸福と快楽との違いは何でしょうか?

 快楽はものに依存している。
 幸福は依存しない。(p505)


もし幸福が依存しないものなら、なぜ私たちはつねに幸福ではないのでしょう
か?

 幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不
 幸になるに違いないと信じることだろう。
 マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。
 それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信するこ
 とが重要なのだ。
 その反対に、快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何か
 をしなければならないという偽りの確信を、単に増長するだけなのだ。
 
 しかし、なぜ幸福について話さなければならないのか?
 不幸であるとき以外、幸福について話したりはしない。
 「私は今幸せです」と言う人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるの
 だ。
 この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。
 真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。
 それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったとこ
 ろはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。
 結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、
 実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。(p505)


もし幸福であることが恐れと心配からの解放であるなら、困難の不在が幸福で
あると言えるのではないでしょうか?

 不在、非存在の状態は原因とはなりえない。
 ある原因が前もって存在するということは、それが観念のなかに暗黙のうち
 に含まれていたことを意味するのだ。
 何も存在しないあなたの自然な状態のなかに、成ることの原因はありえない。
 原因は偉大で神秘的な記憶の力のなかに秘められている。
 しかし、あなたの真の住処はすべての内容物が空っぽの、無のなかにあるの
 だ。(p506)


空っぽと無――なんと恐ろしい!

 あなたは眠るとき、喜んでそれにであうのだ!
 目覚めた眠りの状態をあなた自身で見いだすがいい。
 そうすれば、それがあなたの真の本性と完全に調和していることを知るだろ
 う。
 言葉はあなたに概念しか与えられない。
 そして概念は体験ではないのだ。
 私に言えることはただ、幸福には何の原因もなく、原因のないものは不動だ
 ということだ。
 それは快楽のように知覚可能なものではない。
 知覚可能なものは苦痛と快楽なのだ。
 不幸から解放された状態は否定を通してしか描写できない。
 それを直接知るには、因果律に耽溺したマインドと時間の支配を超えていか
 なければならないのだ。(p506)


もし幸福が意識ではなく、意識が幸福ではないのなら、それら二つの間のつな
がりは何なのでしょうか?

 意識的存在は条件と環境の産物であり、それらに依存し、それらとともに変
 化する。
 独立し、創造されたものではなく、永遠で不変のもの、しかもつねに新しく
 新鮮なものはマインドを超えている。
 それについて考えるとき、マインドは消え去り、ただ幸福だけが残るのだ。(p506)


どうか教えてください。マインドを超えても意識は継続するのでしょうか、そ
れともマインドとともに終焉するのでしょうか?

 意識は来ては去っていく。
 気づきは永遠不変に輝くのだ。(p506-507)


気づきの中で気づいているのは誰でしょうか?

 個人がそこにいるとき、意識もまたそこにある。
 「私は在る」、マインド、意識はどれも同じ状態を表している。
 もしあなたが「私は気づいている」というなら、それは「私は気づいている
 ことについて考えていることを意識している」という意味だ。
 気づきの中に「私は在る」はない。(p507)


あなたはどうなのでしょうか? あなたは気づきのなかに在りつづけるのでし
ょうか?

 個人、「私は身体だ」、このマインド、この記憶の連鎖、この一束の欲望と
 恐れは消え去る。
 だが、アイデンティティと呼ばれる何かはそのまま残る。
 それは必要とされるとき、私が個人となることを可能にするのだ。
 愛はそれ自身の必要性をつくり出すのだ。
 ひとりの個人と成ることさえも。(p507)


実在はそれ自体を存在―意識―至福として現すと言われています。それらは絶
対的なものでしょうか、それとも相対的なものでしょうか?

 それらは互いにとって相対的であり、相互に依存している。
 実在はその表現とは別なのだ。(p507)


実在とその表現はどのような関係にあるのでしょうか?

 何の関係もない。
 実在のなかではすべてが真正で同一なのだ。
 それは、私たちが「サグナ(顕現)とニルグナ(非顕現)はパラブラフマン
 (至高の実在)のなかでひとつだ」と表現するのと同じだ。
 ただ至高なるものだけが存在するのだ。
 運動のなかでは、それはサグナであり、不動においては、それはニルグナな
 のだ。
 だが、動いているのは、あるいは動かないのはマインドだけだ。
 実在は彼方にあり、あなたも彼方にあるのだ。
 ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと
 理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。
 すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠な
 のだ。
 私たちは注意の欠如から実在を失い、過剰な想像から偽りを生みだすのだ。
 
 あなたはこれらのことにマインドとハートを捧げ、繰り返し熟考しなければ
 ならない。
 それは食べ物を料理するようなものだ。
 用意ができるまでは、それを火にかけておかなければならないのだ。(p507)


私は運命、カルマに支配されているのではないでしょうか? それに対して何
ができるのでしょうか? 私が何であるのか、何をするのかは前もって決めら
れているのです。私のいわゆる自由選択さえも先決されているのです。ただ私
が気づかず、自分は自由だと想像しているだけなのです。

 またしても、それはあなたがどう見るかにかかっている。
 無知とは熱のようなものだ。
 それはあなたにそこにはないものを見させる。
 カルマとは神の力によって処方された治療法なのだ。
 それを歓迎し、その指導に信頼をもって従うがいい。
 そうすればあなたは良くなるだろう。
 回復すれば患者は病院を去っていく。
 選択と行為の即座の自由をせがむことは、単に回復を延長させるだけだ。
 運命を受け入れ、それを満たすがいい。
 これが運命からの自由への近道なのだ。
 だが、愛とその欲求からの自由ではない。
 欲望と恐れから行為することは束縛だ。
 愛から行為することが自由なのだ。(p508)


さまざまなヨーガの探求の結果、私は真実を見いだそうという考えに疲れてし
まいました。私にとって、それは無用な、困難なものと見えるのです。人生は
あるがままに楽しむべきものであって、それを改善することはまったく無駄に
見えます。

 その満足のなかにとどまりたいのならば、そうすればいい。
 だが、あなたにできるだろうか?
 青春、活力、金銭――それらはすべて、あなたが予期したよりも足早に過ぎ
 去っていくだろう。
 そして、それまで避けてきた悲しみがあなたにつきまとうだろう。
 もしあなたが苦しみを超えたければ、自らそれを出迎えに行き、抱きしめな
 ければならないのだ。(p534)


実を言えば、私は楽しむ者も楽しまれるものも知りません。私の知っているの
は楽しみだけです。

 まったくそのとおりだ。
 しかし、楽しみとはマインドの状態だ――それは来ては去っていくものだ。
 そのはかなさそのものが、それを知覚可能にする。
 変化しないものを意識することはできない。
 意識とはすべて、変化の意識なのだ。
 だが、変化を知覚すること自体、不変の背景の存在を前提しているのだ。(p535)


変化の体験を与えるのは、以前の状態の記憶と現在の状態である現実との比較
です。

 記憶されたことと実際に起こっていることの間には、一瞬一瞬において観察
 することのできる基本的な相違がある。
 現実が思い出されるといった瞬間はありえないのだ。
 その二つの間には、単に強烈さだけではない異なった性質がある。
 現実とは紛れもないものだ。
 意志による努力や想像では、その二つを入れ換えることはできない。(p535)


現実の真性と、記憶されたことの多分の不確実性は何によるのですか?

 ほんの一瞬前、記憶されたことは現実であったし、一瞬のうちに現実は記憶
 となるだろう。
 何が現実を独特のものにするのだろうか?
 明らかに、それはあなたの存在の感覚だ。
 記憶と期待の中には観察されている精神的状態という明かな感覚がある。
 一方、現実の中には根元的な現在の存在、そして気づきがそこにあるのだ。
 あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。
 それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。
 時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかにあるのではない。
 時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与え
 るのだ。
 実際には、あなたは無限で永遠なのだ。(p535)


この無限で永遠の自己を、どのようにして知るのでしょうか?

 あなたが知りたがっている自己、それは何か二番目の自己のようなものだろ
 うか?
 もちろん、そこにはひとつの自己があるだけだ。
 そしてあなたがその自己なのだ。
 あなたである自己、それが唯一存在する自己だ。
 あなた自身に関する誤った観念を取り除き、放棄しなさい。
 するとすべての荘厳さとともに、それはそこにある。
 自己知識を妨げるのはあなたのマインドだけなのだ。(p536)


どうやってマインドを追い払うのでしょうか? そしていったい人間のレベル
で、マインドなしの人生が可能なのでしょうか?

 マインドというようなものはないのだ。
 そこには観念があって、それらのなかのいくつかは間違ったものなのだ。
 誤った観念を放棄しなさい。
 なぜならそれらは偽りであり、あなた自身に関するあなたの見解を妨げるか
 らだ。(p536)


どうすれば変われるのでしょうか?

 何をしようとあなたが変わることはないだろう。
 なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
 あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
 だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
 いったいどうして変わることを気にするのか?
 身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
 しなさい。
 そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
 明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
 う。
 あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。
 ただそれだけだ。
 そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。
 なぜなら、何も失われてはいないからだ。
 リラックスしなさい。
 そして「私は在る」を見守りなさい。
 実在はその背後にあるのだ。
 静かにしなさい。
 沈黙しなさい。
 それは現れるだろう。
 あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。(p540)


私は身体とマインドから自由になるべきではないのでしょうか?

 あなたにはできない。
 なぜなら、その考え自体があなたを身体とマインドに拘束させるからだ。
 ただ理解し、無視すればいい。(p540)


私には無視することができません。私は統合されていないのです。

 あなたが完全に統合され、思考と行動が完全に協調されていると想像してみ
 たところで、それがどのようにあなたを助けるというのだろうか?
 それがあなたは身体とマインドだという誤解を解くことはないだろう。
 身体とマインドを「あなたではないもの」として正しく見なさい。
 ただそれだけだ。(p540)


自分を統合したいのです。

 あなた自身を改善しようと試みてはならない。
 ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
 変化するものは変化しつづける。
 その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。
 変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと、期待してはならな
 い。
 それはけっして起こらない。
 変化という観念自体が偽りとして見られ、放棄されたときにのみ、不変なる
 ものがおのずと現れるのだ。(p541)


実在を見ることができる前に、私は深く変わらなければならないと言われてきました。

 すべての変化はただマインドに影響を与えるだけだ。
 あなたであるもので在るには、マインドを超え、自己の存在のなかへと行か
 なければならない。
 マインドが何なのかということは重要でない。
 もしあなたがマインドを永遠に捨て去るならばだが。
 これもまた、真我の実現なしには不可能だ。(p541)
好み:(-||-)