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書名:
『どういきたらいいの?』
書誌:
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著者 詠人不知
発行者 山岸道弘
発行 メディアサンゴハチ(平成14年2月22日第一刷発行)
〒920-1161 金沢市鈴見台5丁目10番21号
電話:(078)222-2245
FAX :(078)222-2245 & 020-4669-3694
MAIL:michi22@ddn.ne.jp
関連HP:http://www.yasuraginomura.net/
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私評:
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久しぶりに追加する。
親しい知人に贈っていただいた本だ。
この本を読んで、まだお会いしたことのないこの“隠身の「ありがとうおじさん」”という方は、(語り口や、古神道の言霊を中心としたその内容などは随分違うけれど、私心のなさとか何となくの波動の高さという感じでは)、明治時代に浄土門から出て「光明主義」の一宗を興された山崎弁栄聖人のような方なのかも、などと思った。
これからは、これほどの方がたくさん現れてこられるのだろうか。
“この「ありがとうございます」の言霊で神様の働きの全部を現している”のだという。
「隠身の神・かくりみ」=絶対
「仮凝身の神・かごりみ」=創造
「耀身の神・かがりみ」=統一
「駈身の神・かけりみ」=神通自在の姿
「限身の神・かぎりみ」=現実化させる
この五つの働きがすべて揃って、「神」なのだという。
“だから、神様の表現を放送番組に例えると、まず無限のチャンネルが生まれるわけね。マイナス無限大からプラス無限大まで、無限のチャンネルが、完璧にまず生み出されるのね。
プラス無限大の表現というのは、最高のこれ以上のものは絶対ない、というだけの素晴らしい表現になっているのね。そうしたらマイナス無限大の最低表現はどうかというと、これもマイナスがいっぱいのこれも最高傑作の表現。
この一つ一つのチャンネルの中に、またそれが無限に分かれるの、細かく分けるとね。……”
たくさんの、たくさんの、いろいろ内容の異なる言葉を聞いて、その時々に、それがすべて“本当”だと思われるわたしの頭が“馬鹿”なのか、それともマインドとは元々そういうものなのか、それとも“それ”が事実そうだからなのか、わたしには判断がつかない。ただ、こういう言葉を聞くと、それはそうなのだろうと思ってしまう……。
と、同時に、それを「そうだ」と思ったところで、そうマインドが“思う”ことに大した意味はないらしい、という体験はしたようだ。(2003,10/2)
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引用:
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何も思わなかったら、小さい自分をつかまずに済むからね。いつも神様だけが、「さらさら」流れている感じね。だから、神様が自分なのね。
だから「悟りを開く」というのでも、邪魔をしているものが消えたらいいだけなのね。元々みんな神様と一体でしかないのね。切り離すことなんか絶対不可能。元々悟ってる自分しかないのに、神なる自分しかないのに、何か他にあるように錯覚したり、思い込んだりしようとしているだけなのね。
それを邪魔するものをなくせばいいだけよね。だから、いろんな詰まらん思いを思わなくなればいいんでしょう。一回思ったものは溜まっているかも知れないからね。それを神様に預けて消してもらうだけよね。
だから、思いを起こさないためにも「ありがとうございます」と感謝の心を起こせば、絶対思いは起こらないね。感謝は光だからね。思いは起こらないね、消えるだけね。
感謝することによって過去の思いも消してもらえる、自然に消えていくのね。
だから「ありがとうございます」というのは、もう神様の働きの全部を現しているの。もう光り輝いた働きを全部現しているの、その中にあるの。「ありがとうございます」を唱えた途端に、その光を与えてもらって受けて、結果がそのまま出てくる。
ただ、この神様は無限に無限に謙虚というね。だから、でしゃばってくれないのが、一番問題なんですけどね。思いを出した途端に、この神様は引っ込むのね。ちょっと我を出すだけで、神様は引っ込んでしまうから。「どうぞどうぞ、好きにしなさい」となる。
絶対に、人の自由を縛ってこないところが困るのね。だから、いろんなことを人はそれぞれにある程度体験してみて、それで最後に戻るところが「ありがとうございます」よね。早く戻ってしまう方がいいですけどね。早く戻った方が心が安らぐんですけど。(p32-33)
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好み:★★★★
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(注:独断と偏見によるお薦め度、または記憶による感動度。一押し、二押し、三押し、特薦。)
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