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書名: 『神とひとつになること』

書誌:
原題  Communion with God (c)2000
発信  神
著者  ニール・ドナルド・ウォルシュ
訳者  吉田利子
発行  株式会社サンマーク(2001年5月1日初版発行)
私評:
 この奇跡的な本は、まったくもって例外的だ。
 はじめて『神との対話』を読んだときも、そのあまりの雄弁と論理性に圧倒されたものだった。
 しかし、この一冊ではその論理性が整然と展開され、ついには動かし難いリアリティとして見事に結晶化している。
 なるほど、神の雄弁とはこのようなものか……。
 “私”の魂がこの雄弁を自分の現実の中に呼び出したのだと、この本の中で神は保証しているのだが……。
 そう知らされてみれば、この見事な論理性なら“私の本音”も納得する。
 すべては、「自分」に返ってくる。
 このような本音に共振して、このような<私>を引き出してくれたニールさん、ありがとう。
 これまでの生涯で和尚の言葉と出会い、EOさんの言葉にも出会った。また、いわゆる“高位次元”の方々の言葉にも耳を傾けてきた。
 しかもなお、かすかに残る“被害者意識”の片鱗を払拭し切ることができなかった。
 「愛」という言葉にも、「感謝」という言葉にも、本当に共振することはできなかった。
 そして、そのような“自分”に不満が残った。
 だが、その“不満”ごと、それでいいのだと思う。
 この本が引き出してくれた<私>の本音のありがたさは、まことに筆舌に尽くしがたい。
 次元も何もなかったのだ。次元も何も含めて、存在するすべてを含めて、どんな権威も根拠もなかったのだ。
 おずおずと、戸惑い、遠慮し、怯え、右顧左眄する入神の芝居に入れ込んだ“私”と、高らかに哄笑する<私>がいるだけだった。
 わたしたちはすべて一体である。(2001.4/30)
引用:
 永遠への旅を続け、<マスター>への道を歩いているとき、あなたは人生のさまざまな環境や状況、展開に出会う。そのなかには歓迎したくないものもあるだろう。
 そういうとき、ほとんどのひとはいちばんしてはならないこと、つまり、これはどういう意味なのかを知ろうとする。
 何かが起こるには理由があるはずだと考え、理由を探ろうとするひとがいる。ものごとは何かの「しるし」だと言うひともいる。そこで、何のしるしだろうかと知りたがる。
 いずれにしても、ひとは人生で起こる出来事とや経験の意味を知ろうとする。だが、じつはどんなものにもまったく意味はない。人生の出会いや経験に隠された本質的な真実などない。
 誰が事実を隠すというのか? なぜ隠すのか?
 もし、あなたがたに真実を見つけさせたいのなら、隠すより明らかにしておいたほうが効果的ではないか? もし、神に言いたいことがあるなら、あなたがたに謎解きをさせるより、はっきり言うほうがずっと簡単ではないか?(それに、ずっと親切ではないか?)
 じつは、どんなものにも意味はない。あなたが与える意味以外には。
 人生には(life:生命には)意味はない。
 多くの人間は受け入れがたいと思うだろうが、これはわたしの最大の贈り物だ。人生(life:生命)が無意味だから、あなたがどんな意味でも決定することができる。その決定によって、あなたがたは人生のさまざまなもの、あらゆるものとの関係を自分で定義する。
 じつはこれが、どんな存在であるかを自分で選ぶという経験の意味(means:手段)だ。
 これが自分についていだく最も偉大なヴィジョンの、そのまた最も壮大なヴァージョンにしたがって新たに自己を創造し、再創造するという行為だ。
 だから、何かが起こったとき、どうしてかと問うのはやめなさい。どうして起こったかを自分で決めなさい。選んだり決定することができなければ、でっちあげなさい。どうせそうするのだから。(P193-195)
好み:★★★★★(これは特別例外、座布団五枚!!)
(注:独断と偏見によるお薦め度、または記憶による感動度/ショック度。一押し、二押し、三押し、特薦。)
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