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書名: 『ひふみ神示(旧「日月神示」)

書誌:
発信  神(ウシトラの金神)
筆録  岡本天明
発行  株式会社コスモ・テン・パブリケーション(平成3年12月3日初版発行)
発売  太陽出版
書名: 『一二三(ひふみ)

書誌:
発信  神(ウシトラの金神)
筆録  岡本天明
発行  株式会社スペースプレゼンツ(平成三年六月十日初版発行)
私評:
 『日月神示』を毎日声を出して読んでいたときがあった。
 声を上げていると全身が連動するので、ありがたさに涙が溢れ出すこともあった。すると今度はそれがひとつの標準になって、読みながら無理にも涙を絞り出そうとするような自分も現れた。
 そんなふうに目一杯やってしまうと、揺り戻しが来るものだ。
 自分の中に<神>というような存在に対する不審の念が兆してきたのだろう。
 いつの間にか、ちゃんとその“不審の念”に対応する現実を自分の宇宙に呼び出していた。
 創造主とは私にとってきわめていかがわしい存在となった。
 要は、最適のバランスを探していたということだろうか。
 『日月神示』は、彼方にある<神>に没入しようとしていた<私>の位置のシンボルとして記憶されている。
引用:
 和合した姿を善と申すのぢゃ。今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃということ合点か。地獄ないこと合点か。悪抱きまいらせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃなぁ。各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって、限りないのであるぞ。裏から申せば、神様の神様は人間様じぢゃ。心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。肉体が心を守ってゐるのであるが、ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。どこまでも下に従うのぢゃ。順乱すと悪となるぞ。生まれ赤児踏み越え、生まれ赤児になって聞いて下されよ。そなた達の本尊は八枚十枚の衣着てゐるのぢゃ。死と云うことはその衣上からぬぐことぢゃ。ぬぐと中から出て来て又八枚十枚の衣つけるやうになってゐるのぢゃ。判るやうに申してゐるのぢゃぞ。取り違いせんやうにせよ。天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が又天に反影するのであるが、まだまだ地には凹凸あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ。(P65-66)
好み:★★★
(注:独断と偏見によるお薦め度、または記憶による感動度。一押し、二押し、三押し、特薦。)
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