-
書名:
『星からの帰還』
書誌:
-
原 題 POWROT Z GWIAZG (c)1961
著 者 スタニスワフ・レム
訳 者 吉川昭三
編 集 株式会社 綜合社
発行所 株式会社 集英社(昭和43年10月1日初版発行)
出版社URL:http://www.shueisha.co.jp/index_f.html
-
私評:
-
随分前のことなので、どんなふうにこの本と出会ったものか、もう憶えていない。
当然、この著者など知らなかったろうし、翻訳者を知っていたはずもないから……。
あ、そういえば、思い出した。
昔ちょっとSFに凝っていたことがあって、早川書房の「SF全集」というのを読んだことがあった。
その全集の中に『ソラリスの陽の下に/無敵』というのがあって、これがとても面白かったことを憶えている。もしかしたら、あのときポーランドのSF作家スタニスワフ・レムという名前を覚えて、それでこの本を見つけたのかもしれない。ああ、多分、それに間違いないだろう。
しかし「SF全集」はとおの昔に手元にはなくなっている。
……しかし、この本だけは、手放さなかったわけだ。
今となっては、この本を何回読んだかもわからないほどになってしまった。
五、六回までは憶えていたのだが、その後はもうわからなくなった。
ときどき、なぜか、ふっとこの本を読みたくなる。
その頻度は、最初は随分間遠だったような気がするが、その間隔が段々詰まってきて、この頃では二年に一度くらいは読んでいるかもしれない。
別に新しい知見があるわけではない。
ただ、ときどきふと思い出して、無性にこの本の世界に浸りたくなる。
どうも、なにか余程、相性がいい本らしい。
この本の裏表紙の折り込みに“ポーランドでは、レムほど広い読者層を持つ現代作家はほかにいない。ソ連、西ヨーロッパで広く読まれ、国際級のSF作家とみなされている”と書かれているから、非常に有名な方なのだろう。
回数でいうなら、今となっては多分、ドストエフスキーの『白痴』よりも、宮沢賢治の『風の又三郎』よりも読んだかもしれない。
すっかり読まなくなってしまったドストエフスキーや宮沢賢治や夏目漱石と比べると、いつの間にかこの本は、山本周五郎以外にわたしが読む唯一のフィクションになってしまっていた。
この本の何に惹かれて繰り返して読むのかは、自分でもあまり詮索したくない。
山本周五郎のある種の作品に手を出すときと同種の気分であることは間違いない。
……とにかく、この本は、わたしにとって、ある意味で完璧な本なのだろう。
ただ、なぜ、この本をこのサイトの本棚に並べるのかは、あまりはっきりしない。
ここに並べるには、自分にとってあまりにも私的な本のような気もするのだが。
まあ、しいてそういう言い方をするなら、このスタニスワフ・レムという作家は、きっと、スターピープルということになるのだろう。
わたしはただ、フィクションの読者としてときどき無性にこの本が読みたくなるだけだが、そういう意味での引用などできることでもないので、ここでは、まったく、別なことを引用しておこう。
別にこんな内容を読みたくて取り出す本ではないのだが、ここで引用するにはこんな内容が適当だろう。(2004,6/9)
-
引用:
-
そんなわけで、現在では、子どもを持つ権利の獲得は、万人に認められるわけではない特別の報償になっていた。さらに、子どもができても両親は、自分の子どもたちを同年齢のほかの子どもたちと切りはなして育てることはできない。特別に選び出された男女の混成グループがつくられていて、そこでは、それこそ多様な気質が発揮されるようになっていた。そして、うわゆる問題児はヒプナゴーグによる特別治療を受けるのである。また普通教育は異常に早くからはじめられていた。といっても、読み書きの勉強ではない。読み書きを教えるのはずっとあとのことだった。ごく幼い子どもたちの教育は、特殊な遊戯をとおして、世界と地球の機能、社会生活のゆたかで多様な形式になじませることにあった。こうした自然なかたちで、子どもたちは四、五歳のうちにもう寛容さ、共同生活、他人の意見や考えにたいする敬意を身につけ、さまざまな種族の子どもたち(つまり人間)の外向的・肉体的特長を本質的だとみなさない精神がたたきこまれた。これらすべては、きわめてりっぱなことのように私には思えた。ただし、ひとつだけ根本的な保留条件があった。つまりそれは、この世界の動かしがたい基礎、その最高の法則がベトリゼーションだという点である。まさに教育は、このベトリゼーションを生と死のようにとうぜんのこととして受けいれさせるのがねらいだったのだ。エリの口から学校での歴史教育の話を聞いたときには、あやうく怒りを爆発させそうになった。過去は動物性の時代、とめどのない動物的生殖の時代、激しい経済的軍事的変動の時代とみなされていたのである。さらに、黙殺できない文明の達成は、時代の暗黒と残忍さに人々を打ちかたせた力と熱望の表れだと規定されていた。したがって、これらの達成は、いってみれば、当時支配的だった他の犠牲のうえに立つ生活傾向にさからうことによって生まれたものだというわけである。彼らの説では、昔非常な困難をへて達成されたもの、以前はわずかな者しか達成できなかったもの――そこへ到達する道にはさまざまな危険が、断念と妥協が、物質的成功を手に入れる代償としての道徳的敗北が待ち受けていた――でも、現在ではその達成はごくあたりまえであり、容易かつ確実なことであった。(p253-254)
|
-
好み:★★★★
-
(注:独断と偏見によるお薦め度、または記憶による感動度。一押し、二押し、三押し、特薦。)
|