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書名: 『正法眼蔵 生死』

書誌:
著者  道元禅師
発行  岩波文庫版『正法眼蔵』など
私評:
 こんな文章を入れたくなってしまった。
 意味がわかかるわけでもない。
 といって、わからないと決め付けるわけにもいかない。
 わかるような、わからないような、何とも言えない、うつくしいことばだ。
 そして、これが本当だろうということだけは、はじめからわかっている。
 日本に生を享けた者の一人として、こういう言葉を入れておきたくなるのは、ある意味では当然ともいえる。
 どうも二元性の世界に入ってきた人間の性は、昔から同じもののようだ。
 嫌悪することで逃れようとする者と、執着することで掴もうとする者と……。
 だが、どちらの道も、どこにも辿り着くことはできないらしい。
 いたずらに己が妄想を増幅拡大して創造し続けることしかできないようだ。
 千変万化する世界を止めることもできなければ、自分の世界を遠く置き去りにすることもかなわないらしい。ありがたいことに……。
 永遠に変化し続ける<今>を止めることはできない。
 永遠に変化し続ける龍の頭の上で、何ひとつ願わずに安らぐことができれば、宇宙は“自分”がいなくても展開していくことがわかるのだという。
 <ただし心もてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ……>(2001.4/13)
引用:
 生死(しょうじ)のなかに佛あれば、生死なし。またいはく、生死の中に佛なければ、生死にまどはず。こころは夾山定山(かっさん・じょうざん)といはれし、ふたりの禪師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはむ人、まさにこのむねをあきらむべし。
 もし人生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし、いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし、このとき、はじめて生死をはなるる分あり。
 生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり、かるがゆへに佛法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。生といふときには生よりほかにものなく、滅といふときには滅よりほかにものなし、かるがゆへに生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひて、つかふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ。
 この生死は、すなはち佛の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなふなり。佛のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このとき、はじめて佛のこころにいる。
 ただし心もてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ、ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず。こころをも、つひやさずして、生死をはなれ佛となる、たれの人かこころにとどこほるべき。
 佛となるにいとやすきみちあり、もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふこころなくて、心におもふことなくうれふることなき、これを佛となづく、またほかにたづぬることなかれ。
好み:★★★★
(注:独断と偏見によるお薦め度、または記憶による感動度。一押し、二押し、三押し、特薦。)
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