home > 本棚 > 『そのまま このまま』


書名: 『そのまま このまま』

書誌:
著者  山田 耕榮
発行  株式会社飛鳥新社(2001年1月6日第1刷発行)
私評:
 わかってしまった方々の表現はどれも似ている。
 そして、同じことを何度も何度も、ああも言い換え、こうも言い換えて、語りづつけて止まない。
 ただ、当然だが、方便として使用されるレトリックはその方その方によって異なる。
 山田耕榮さんは専ら“形=「表現体」”と“形のないもの=「表現者」”の識別にフォーカスする。そして、どうすれば形のないものに焦点を定め、形のないものを信頼し、形のないものに安らぐことができるかを語り続ける。
 ときには“紙飛行機”と「紙」で、ときには“波”と「海」で、ときには“コップ”と「ガラス」で、ときには“氷”と“水”と「空気」の比喩を使って、何が実在なのか、実際にあるのは何なのかを語り続ける。
 聞いている方は、もうそれでわかってもいいような気もするのだが、それでは面白くないのだろうか、“自分”の位置は一向に変わらない。なかなか“自分”を捨てられない。もう少し、わからんちんのままで彷徨いたいのだろう。
 そして、いやいや、まだまだ“自分”は駄目だ、まだまだ悟っていない、などと注文を残しておきたいのだろう。
 だって、「このままでいい」なんてわかっちゃったら、その後どうするのかなぁ……、そうか「そのままでいい」わけか……。
 もう別に、わかっちゃってもいいんだけど……。(2001.4/8)
引用:
 では、どうしたらガラスを見られるか。それはコップが、自分がコップだとわかればいいのです。自分がコップだとわかれば、その人はガラスがわかったことになります。それは天地一体だからです。ガラスは目に見えないものですから、どうしても五感では見えません。でもガラスとコップは離れていませんから、自分がコップだと認めれば、ガラスも一緒に認めることになります。そうすればその人はガラスを見ることができます。ガラスとコップは天地一体ですから、天がわからなければ、地を認めればいいのです。コップが自分を嫌がっているときは、ガラスを見ることはできません。
 地というのは、自分を受け入れればそれですみます。自分から逃げていては、そこからも逃げます。自分を否定することは、天地は離れていませんから、天を否定したことになります。ですからまず自分を認めることです。みなさんは自分を変えようと思っているから、天地一体になれません。それに変えようと思っても自分を変えることはできません。私が違った私になることは絶対にできないのです。
 ほんとうの変わるということはどういうことかというと、私が私を認めたときに変わります。それ以外は逃げです。私が私を認めたときに天地一体になります。ですから、まずこの肉体の表現体を認めることですね。表現者がわからないときは、この表現体をまず認めることです。ガラスとコップの境目はありませんから、コップを認めたときは必然的にガラスも認めています。コップを受け入れていないときは、ガラスも受け入れられません。コップを受け入れるということは、私を受け入れることであり、それができれば必ず天も受け入れることができます。(p248-249)
好み:★★★
(注:独断と偏見によるお薦め度、または記憶による感動度。一押し、二押し、三押し、特薦。)
cover