――「夢の中の夢」――

『秋津温泉』

 ハートの中に開いた穴。そこから流れ出る血が虚空の中に吹き飛ばされて行く。この血は何のために流されるのか? この血には何か果たすべき目的、何か成就すべき使命があったのか? 帰りつくべき故郷まで帰りつけずに、未熟な赤い色のままに流れ出ることがその命なのか?

 開巻冒頭から不安な、怪しげな、しかし妙に人を誘い込むような不思議な音楽が微かに流れ出す。
 焼け跡にたたずむ人影。戦禍の跡の自分の家に戻って来た学生らしい。家族が疎開したと聴いて、男は貨物列車で運ばれて行く。学生帽の下の不安気な顔。すぐ近くにいた女が男におにぎりを勧める。おにぎりを見ている男の虚ろな目。突然の空襲。貨物列車の両わきにバラバラと飛び出す乗客たち。みんなが列車に戻ってみると、男は一人列車の中に座っている。身体を病んでいるらしい。秋津温泉で仲居をしているという、例の親切な女の勧めで、男はその温泉場に降りる。
 布団部屋のようなところに寝かされている男。廊下の外で軍人らしい男の罵声が上がり、突然部屋の障子が開いて、お下げ髪の娘が入って来る。外でなだめられている軍人の声。娘はそこに寝ている坊主頭の男に気が付く。無口な男に対して、あなたがおしげさんが連れて来た人かとか、私はこんな所にいたくはないのだが、母の再婚相手の父が死んだので横浜の女学校から呼び戻されたのだとか、あの父は大嫌いだったとか、あなたとはもしかしたら電車の中ででも会ったことがあるかも知れないなどと、訊かれもしないことを一人で話しかける。一瞬あっけに取られていた男も、すぐにまた自分一人の想いの世界に戻って、柱に頭をぶつけ出す。咳込み始めた背を思わずさすり始める娘を、「一人にしてくれ!」と男はじゃけんに突き飛ばす。その瞬間、男は血を吐く。
 突然宿の玄関から飛び出して、川の方に駆け出す男。川の中で目を血走らせて、うろうろする男。後から追いついて助け出す娘。
 「こんな身体ではお国の役には立たない。自分の力で生きるんだな」と、医者からも見放された男を、娘は自分の力で治してやると、奥の離れに運び込む。
 八月十五日。米の買い出しに出ていて敗戦を知った娘は、一目散に奥の離れに戻り、ただただ泣きに泣く。起き出した男も敗戦を知り、思わず娘と抱き合う。
 早春の一日、新子は周作を外に連れ出す。
 「僕はこの秋津に死ぬために来たのに、あなたに助けられたようなものだ」、「僕は人間があんなに泣けるものだとは、知らなかった。あなたがあんまり泣くものだから、僕はあのとき初めて、少しでも生きたいと思った」、「僕はあなたに生きることを教わったようなものだ」。こんな言葉を言う周作を、新子は誇りやかに眺める。
 だが可哀そうな男のエゴは、周作をそのままにしては置かない。帰った岡山の地で新聞記者でもしているのか、無用な比較と、無用な衒学とに身を苛み、その軽薄な自分の姿から目を逸らすためか、周作は酒浸りの日々を送っている。
 再び秋津荘に身を休める周作。酒場のダンス・ホールで米兵を相手に踊る新子。目的意識に顔は輝いている。何とかしてストレプトマイシンを手に入れたいのだ。
 「何もかも煩わしいんだ。重いんだよ。俺はまた秋津に死にに来たよ」
 夜、周作が下の露天風呂に降りて行くと、新子が入っている。「お願いだから行ってちょうだい」と言う新子の言葉を無視して居残る周作。
 「周作さん、本当に私のこと好き?」、「ああ、好きだよ」、「本当に?」、「本当さ」、「じゃ私、周作さんと一緒に死んで上げる」
 だが、翌朝、川端でいざ心中となって、新子は思わず笑い出してしまう。釣られて笑い出す周作。
 三年ぶりの正月、おしげさんから知らせを受けて新子が大急ぎで駆けつけてみると、周作は芸者を上げて酒を飲んでいる。
 「周作さん、すっかり変わったわね」
 夜、一年前に母親を亡くし、一人で秋津荘を切り盛りしている新子が、今では自分の寝室にしている奥の離れに周作は降りて行く。
 「開けてくれよ!」、怒鳴る周作を外にして、玄関の戸を背に新子は動かない。
 大声に起き出して来たおしげさんに、泥酔した周作は「俺は結婚したよ。もう何もかもお仕舞いだ」と告げる。
 翌朝、新子は般若湯の主人から五万円を借り、帰ろうとする周作に、何のお祝いもしていないから、と渡す。変なことするなよ、と返そうとする周作に、「その代わり、きっと忘れないで、またこの秋津に奥さんと一緒に来て頂戴。だって私はあなたの命の恩人でしょ」と、精一杯の言葉を言う。
 四年後。岡山を引き払って東京に出る直前、周作はおしげさんの手紙を見せられる。
 役場の花見に行っていたという新子は、酔って秋津荘に戻って来る。
 「相変わらず、新子さんは変わらないね」。「相変わらずなんて言葉は、もっとしょっちゅう会っている者同士が使う言葉よ」、酔ってはいるが新子は機嫌がいい。
 「俺は東京に出ることにしたよ」
 「そう‥‥。東京に行ったら、もう会えないわね」
 夜、周作が風呂に降りて行くと、行き違いに新子が階段を駆け上がって行く。長い廊下を走る新子。周作が奥の離れに降りて行くと、玄関の戸に錠は下りていない。鏡台を開けて顔を覗きこむ新子。周作がゆっくりと近づく。
 翌朝風呂を浴びている新子。思わずふくよかな笑みがこぼれる。
 風呂から上がると、周作は既に出発していた。新子はタクシーで後を追う。
 花見客の中を歩く二人。周りを気にする周作に比べ、新子はただただ周作と一緒にいられるのが嬉しい。
 「私、夕べから何も考えられなくなってしまったの」
 「あなたに済まない」
 「私、怒ってる? 私、泣いてる?」。ただただ嬉しく、明るく、恥じらいを含んだ新子の顔。
 夜の駅。しかし、最終の上り列車の改札を前に、新子は周作の手を引いて駅を飛び出してしまう。旅館の一室。「もうこれで、あなたが死んだという風の便りだけで、私死ねるわ」
 翌朝、二度と会えない思いで、新子は周作の列車を見送る。
 十年後、また花の季節。髪を長くたらしたままの風呂上がりの新子が、ゆっくりと坂道を降りて行く。秋津荘を手放し温泉を止めた新子が、般若湯でのもらい湯から帰るところだ。
 坂の下で花を見上げている周作を認め、ぎくりとする新子。新子は脇を駆け抜けようとするが、周作に呼び止められる。新子は、取り壊しを待って僅かに残されている離れに入り、「入っていいかい?」と問う周作に、堅い表情でうなずく。
 女の一人住まいの火鉢を囲んで座る二人。新子が煙草を取り出すと、周作がライターをつけるが、新子は何時ものように鉄瓶を少し上げて、炭火で火をつけ、言葉は崩さない。周作と初めて会ったとき新子は十七、それからまた十七年経っていた。
 「秋津も、随分変わったでしょう」
 「そうだってね。下で聞いたよ。しかし、新子さんだけは変わらないよ」
 離れの引き払いを頼みに来た大工が去ると、周作は何気ない素振りで、「今日泊めてもらっていいね? 泊めてもらうよ」と言う。
 夜、般若湯の風呂に案内された周作は、湯船の中から外に、「どお? お新さんも入らないか?」と声をかける。ガラス戸の外で、引き締まる新子の顔。
 夜、床の中で新子は「周作さんが死んでくれと言ったとき、私どうしても本気になれなかった。でも、今なら本当に静かな気持ちで死ねるわ。周作さん、私と一緒に死んで」と、語りかける。だが周作は聴いていない。「死ぬの生きるのなんてのは、昔の話だ。もうそんな年でもない」と。
 翌朝、「ああ、送らなくていいよ。お新さんは送るのが嫌いだったろ」と遮る周作の言葉を無視して、新子は先を歩き始める。花の季節のバス道を、新子は何処までも歩く。  「さあ、もういい。気持ち良く送ってくれるね?」
 ゆっくりと振り返る新子。
 「私と一緒に死んで! ねえ、周作さん、ここで私と一緒に死んで!」
 だが、女の思いは男には通じない。何を言うんだ。あんなことはね、昔の話だ。俺も今まで何度も死ぬ死ぬと言ってきたけど、あれはね、みんな嘘なんだよ。人間そんなに簡単に死ねるもんじゃない‥‥。女の握る剃刀の刃を見て、男はさらに懸命になだめる。それはね、新子さんの気持ちは分かるよ。良く分かる。だけどね、こういうものなんだよ、俺はやっとそう思えるようになったんだ。
 「どうして、一緒に死んでくれないの!」。くず折れ、男の脚に縋りつく女。
 男の話は、軽薄な男の現在そのものだったが、今の新子にもう言葉は役に立たない。しかし、自分の待つその深みに決して応えようしない男に、それ以上縋ることに意味はなかった。新子はゆっくりと立ち上がる。説得が効をそうし、相手が気を取り直したと思った男は、女を気遣いながら一人遠ざかって行く。
 キッと、自分一人の世界に向かう新子。桜の木にもたれ掛かり、意を決して刃物を左の手首に当てる。滴り落ちる赤い血。新子はゆっくりと岩の間を河原の方に降りて行く。
 この先、生きることに何の意味もなかった。自分は真っ直ぐに生き、真っ直ぐに愛した。自分にできるだけのことはした。でも、私の人生はこれだけのものだった。私は周作さんと、本当の深みで出会いたかった。でも周作さんが望まないのなら、それもいいことなのかも知れない。これから先にある周作さんとの関係は、私はもう望まない。
 河原に達し、水際にくず折れ、水の中を覗き込んで、一瞬女は鋭い叫び声を上げる。
 遠くから異変を察し駆け戻って来た男が、水際に女を見つけたときは、女は既にこと切れていた。「どうして、死ななければならないんだ!」。女の身体を抱えて岩場を登り、バス道の桜の木の下で、女を抱きしめ号泣する男。
 伸びゆく者を、慈しみ、手を貸し、育まずにはいられない大地的、女性的なるもの。彼方を求めて不安定に揺れ、大地によって支えられずには生きられない男性的なるもの。意味を求めて比較に堕ち、自らを苛む男性原理と、自ら命を与えた者の自滅によって、深く傷つく女性原理。超越という男性的垂直原理と、維持という女性的水平原理の間に切り裂かれた人間が、一瞬その統合を夢見る愛は、しかし、束の間奇跡のように二つ実存の深みに窓を開け得るだけだ。かえって、失われて行く命の取り返し難さと、痛みと苦さを詠うかのように。白く泡立って奔騰する川の色が、突然の断絶によって取り返しようもなく失われた生命を謳い上げる。

 いつか仲間と離れたピノキオは、金魚の水槽越しの喫茶店に入って行く。そこでは人々が何やら意味ありげな、個人的な会話をしていた。

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