――「夢の中の夢」――

『さようなら、子どもたち』

 何故なのだろう? どうしてなのだろう? しかし、それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう?

 夢はさりげなく始まる。
 1944年、フランス。短い休暇を終えたらしいまだ幼顔の残る少年は、出発間近の列車の前で、いつまでも母親に抱かれていたい。
 「甘ったれてるな」
 仲間と一緒に、二人の傍らを通り過ぎる高学年の兄。みんなは集団列車で、何時間か離れた田舎にある寄宿学校へ帰るところらしい。動き出した列車の窓の中の少年の目。車窓の向こうを流れていく朝靄の田園風景。少年はいつまでも、じっと窓に鼻を押しつけたままだ。
 整列したみんなが帰り着いたのはカトリック修道会付属の寄宿制男子校だった。どうやらかなり裕福な階級の子弟の学校らしい。それにしても西欧社会の学校というのは、どうしてあんなにも憂鬱に見えるのか?
 どの国の学校がましというのでもないだろうが、西欧社会におけるキリスト教文化の根深さが思われる。
 この寄宿学校が特に陰湿だというわけでは決してない。厳格とか、規律正しいとかいった、むしろ肯定的なニュアンスさえ伴うことのある言葉で形容できそうな学校なのだが……。
 夜、少年たちがベッドに入ろうとする頃、縮れた黒髪の一人の長身の少年が、ジュリアン・カンタン(例の少年)の隣のベッドに連れてこられる。転校生だという。名前は、ジャン・ボネと紹介される。自分のベッドへ入ろうとするところで早速周りの少年たちから枕をぶつけられたりの歓迎を受けるが、特に驚いたという様子も見せない。一種憂いをおびた雰囲気はあるものの、落ち着いた彼の対応で、彼はそれなりに周りの生徒たちに受け入れられていく。
 幾何の時間、手を挙げて指名された転校生のボネは、その明晰な解答で優秀な少年としての印象を確立する。クラスの優秀性であるらしいジュリアンは、自然ジャンを意識するようになるが、告解のとき、修道院長に新しい転校生に親切にするように言われる。
 「お前が親切にすれば、他の子も見習うだろう」
 「ボネ? ボネは何か病気なの?」
 「そうじゃない。いいから、行きなさい」
 プロテスタントだから間もなく行われる予定の聖体拝領は受けないとというジャンに、ちょっと不自然な感じを抱いていたジュリアンは、たまたま寝室に一人になったとき、何という気もなくジャンの持ち物を覗いてみる。大事そうにしまわれている一冊の豪華本の裏表紙に『計算一等賞、ジャン・キベルシュタイン』と書かれてある。
 夜、ジュリアンがふとある気配に目を開けると、隣のジャンはベッドの脇に立ち、ささやくように長く敬虔な祈りを捧げている。神秘的に美しいジャンの顔。
 遊び時間。二人だけ教室に残ってしつこくジャンに母親の所在地を問いつめていたジュリアンは、ついに「お前は、本当はジャン・キベルシュタインだろう」と言う。血相を変えるジャン。そのときの喧嘩の後でその秘密は二人の共同の秘密となり、二人の中は急速に親密化する。
 そして宝探しの日。森の中で迷子になった二人が暗くなってから出た自動車道で、手を振って止めた車はドイツ兵の軍用車だった。思わず逃げ出しているジャン。まったく理屈抜きの動物的反応だ。しかし二人は、親切なドイツ兵に軍用トラックで修道院まで送り届けてもらう。
 森での長い彷徨のために風邪を引き、ベッドに横になっている二人。ジュリアンは美味しそうにパテを食べている。ジャンにパテを差し出すジュリアン。
 「いらない」
 「どうして?」
 「好きじゃないんだ」
 「豚肉だからだろ」
 「違うよ!」ジャンはジュリアンに飛びかかる。
 聖体拝領の日だ。この日は寄宿生たちの父母参観日でもある。厳しい戦時の状況を反映してか、教会堂に参集した父母に対する修道院長の説教は、一人の父親の退席を引き起こしたほどに、むしろ儀礼を逸脱して峻厳だ。「金持ちが天国の門を通るのは、駱駝が針の穴を通り抜けるより難しい、と言われます……」。厳しい言葉を挟みながら、「この時期に虐げられ、苦しみを受けている人々のために祈りましょう」と締めくくられたその説教に、しかしジャンは感動する。
 自分でも思いがけず、ジャンはジュリアンと並んで、聖体を受けようとする最前列の生徒の列に割り込む。次々に舌の上に白い聖体を置いていく修道院長の顔が、聖体を受けようと舌を出しているのがジャンであることに気づいて凝固する一瞬。だが次の一瞬、修道院長の手は、つとジャンを素通りし、隣のジュリアンの舌の上に聖体を運んでいる。組織宗教の本質が、余すところなく暴露される一瞬だ。
 華やかなデビューのとき、あれほど新しい手法を駆使したこの大監督は、この作品では何の懸念もなく、記憶にある限りの細部を忠実に積み上げて行こうとするかのように、ただただ最後の一瞬に向かって、真っ直ぐにレンズの焦点を絞り込んでいく。
 その日の朝、行程を散歩しながら卒業後の計画について話していたジュリアンは、ジャンの計画を訊く。
 「アメリカ軍が来てくれたらいいな」と言って、思わず身震いするジャン。
 「恐いかい?」
 「いつもなんだ」、ジャンは震えが止まらない。
 約束を果たしに来たというかのように、破局は訪れる。
 黒板の横の地図で最近の戦況を説明していた数学の教師が、さて授業を始めようとすると、それを待っていたかのように教室を出ようとした給食当番の生徒が外から押し戻されて戻ってくる。
 たちまち武器を持った二人のドイツ兵に制圧された教室に、後ろの扉から一人ゆっくりと入ってくるゲシュタポの男。
 「この教室にジャン・キベルシュタインという生徒はいるか?」
 そういう者はいない、という教師の言葉を無視して、凍りついた教室の中を男はゆっくりと一人一人の生徒の顔を見定めながら歩いていく。教室を一巡して、前面のヨーロッパ地図の上の戦況説明の画鋲を抜き取る男。一瞬、教室の広報に座っているジャンを見てしまうジュリアン。その視線を捕らえるゲシュタポ。ゆっくりとジャンに近づいていく男。一瞬のためらいがあった後、静かに机の上を片づけ始めるジャン。時間が止まった教室の中で、ジャンの動きは美しい。カバンを肩に背負って立ち上がったジャンは、近くの子から一人ずつ握手をしていく。
 二人のドイツ兵に連れられてジャンが去った後、男は教卓に肩肘をかけてこう言う。
 「フランス人ではない。彼らはユダヤ人だ。皆さんは我々に協力していただかなくては困る」
 校庭に並ばされた生徒たちの前を、ユダヤ人をかくまった修道院長と三人のユダヤ人生徒が連行されていく。自然に生徒たちの中から沸き起こる別れの挨拶。足を止めて振り返った修道院長は、ひとこと生徒たちに応える。
 「さよなら、子どもたち」
 門から出るとき、最後に一瞬振り返って手を上げたようなジャン。
 紛れもない正確さで、必要なことが必要な順番で語られていくだけだ。誇張もなく、歪曲もなく、目に付くような工夫もなく、透けて見えるような作家の感想など一切ない。作家の工夫はただひたすら、可能な限り作者は背景に退き、起こったことがそのまま定着されることだけに焦点が合わされているようだ。あたかも、これは作者の作品などではなく、死んでいった人に、これで良かっただろうか、と問いかける祈りであるとでもいうかのように。
 この映画のすごさは、あのゲシュタポの男が少年たちの日常の時間そのものを襲いうるほどに、ジュリアンの目を通した二人の少年の現実がすでに作品世界の日常として確立しているところにある。甘えの残るこの年齢の少年たちの柔らかい現実を、硬直し金縛りにかかった大人たちの現実が直撃する。
 「フランス人ではない。彼らはユダヤ人だ」
 これを言うときのこの大人の真面目さ、深刻さ、冷たさが少年たちの軽くて柔らかい日常を凍らせる。(本気なんだ!)
 もちろん、この言葉を笑い飛ばせるようなリアリティが、少年たちの側にあるはずもない(大人にさえないというのに)。大人たちの日常の中で練り上げられたこの男の“夢”が否応もなく少年たちの甘やかな“夢”をうち砕く。こう言って全体から自分を切り離したこの男が住む恐怖の世界が、少年たちの日常に襲いかかる。
 本当にたった一人の男の劣等感がこれほどの悪夢を糾合できたのだろうか? 彼は人間の集合無意識の中に存在する何か特別の弱点でも突いたのだろうか?

      <この世は最大の恐怖映画なのです>
               ――『怠け者のさとりかた』、タデウス・ゴラス――
 

 遊園地の賑わいの中を歩いていくピノキオたちの上を、夜空を覆う大きさで「大ルーレット」が回ってくる。東の一角から座長の「女王」がしずしずと姿を現し始めていた。

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