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「湘南名画鑑賞会」会報 No.1

映写窓の後ろから@

第三回上映会(上映映画『自転車泥棒』)
1986年2月27日(土)、場所:藤沢市民会館小ホール

 昔あった“当たり前の映画”がどうして今はないんだろう、というのが最初の思いでした。
 “超大作”でも“問題作”でも“話題作”でもない、びっくりするためでも、情報を増やすためでもない普通の映画。あるゆっくりした固有の時間の流れに身を浸して一時間余、観終わると、ああ、ひとつの経験をしたなと思えるような映画、昔、映画とはそういうものだったような気がするのです。
 少なくとも私が子供の頃、親に連れられて観に行った映画はそういうものでした。

 「湘南名画鑑賞会」の田所でございます。
 といっても「湘南名画鑑賞会」という何か実体のある研究会のようなものが存在するわけではなくて、今のところこの上映会が「湘南名画鑑賞会」の唯一の実体です。
 自分で始めておきながらこんな言い方も変なのですが、私自身必ずしも、こういうことをやる人間として最も適切な人間とは言いかねるようです。
 しかしまた考えてみれば、暗い映画館の孤独な座席の中で、ひたすら映画という人工の夢を観続けることが好きだったような人間は、大なり小なり同じようなタイプの人間かもしれませんが……。

 中学生の頃からあれほど観ていた映画を、気が付いたらいつの間にか観なくなっていました。
 むろんそれは今の映画の責任ではなくて、私の個人的な生活環境の変化が原因だったのですが、いつの間にか映画館に行くという習慣を全くなくしていました。
 そしてこの頃になって、久しぶりに映画でも観てみようかと思っても、どんな映画を観たらいいのか、その感覚すら持ち合わせなくなっている自分に気が付いたのです。頭にあるのは昔の映画ばかりです。食わず嫌いかもしれませんが、今の映画のタイトルやポスターには不思議なくらい反応しなくなっています。

 「昔あったような“当たり前の映画”が今はどうしてないんだろう」という思いが来たのです。
 そのとき、何となく私の頭の中にあったのは小津安二郎の諸作品でした。
 今思えば、小津作品は決してありふれているという意味での当たり前ではありませんでしたが、ただ私にとって映画というのは、特別に変わったことも起こらない端正な時間の中に身を置いていれば、観終わって、ある経験をしたという確かな満足を味わえるものだというような感じがあったのだと思います。

 今の“超大作”にも“話題作”にも反応しなくなっているけれども、自分はいい映画を観たことがある、どちらかと言えば映画好きだったという思いを持っている人はたくさんいるのではないか、誰かが豆腐の中のにがりの役を買って出れば、豆腐になるべき人たちが析出してくるのではないか、というのが古い映画をかけてみることを思い立ったときの私の考えでした。

 その先は特に何も考えてはいません。
 そういう人たちは結構たくさんいるかもしれませんし、あるいはそれほどはいないかもしれません。そこから何かが始まるかもしれませんし、何も始まらないかもしれません。どちらの場合にせよ、それはそれで良いと思っています。
 とにかく、しばらく、この上映会を一、二ヶ月に一回の割りで続けてみようと思っています。

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