home > 映画 > 映写窓の後ろからC


「湘南名画鑑賞会」会報 No.4

映写窓の後ろからC

第六回上映会(上映映画『麦秋』)
1986年10月26日(金)、場所:湘南名画鑑賞会サロン

 やっとこんな小さな上映空間を持つことができました。私たちが去年思い立って始めたことがこういう形で地上に現れたのだなと思います。

 私は去年こんなことを思いました。
 もし山寺の禅堂の中で始めも終わりもない悠久の時間が流れている、あるいは時間が止まっているというようなことがあり得るのだとしたら、都会の忘れられたような片隅に、過去に映画として織り出された人間の夢の中からその最も上質の部分だけをアーカーシャの記録をひもとくように引き出し、映し出し続けているような、そんな空間が一つくらいあってもいいのではないかと。

 そこに行けば、時代には関係なく必ず、その質によって“古い”と位置づけられるような映画だけがスクリーンの上に映し出されている、そんな場所があってもいい。
 そこでは、外国人によって織り出された夢も、日本人によって織り出された夢も区別なく、『東京物語』も『恋人たち』も、『灰とダイヤモンド』も『野いちご』も『甘い生活』も、まったく同格に、アーカーシャの記録の中から引き出されて、解き放たれているというような、そんな夢のような空間があったらと思ったのです。

 そこでは理想的には、映画フィルムに焼きつけられたあらゆる人間の夢から、歴史が決める最上の部分のみがいつも解き放たれている。
 “熱いトタン屋根の上の猫”のようにますます加速されていく都市空間の中で、そこだけが一つの空気穴のようになって、せわしなさの中に埋もれた人間の経験を解き放って、目に見えぬ都市という一種の悪夢のバランスを保っているというような、そんな場所が必要なのではないかと思ったのです。

 そこに行けば時間はたちまち減速され、都市の表層を覆っている時間の下に底流としてあるいつに変わらぬ悠久の時間の中で、あるいは“濃密”な、あるいは“端正”な、あるいは“哀切”な“人生”という経験が流れている。そんな一隅が身近にあったら……。

 こんな大層な夢からすれば、この空間はいかにもささやかな出発ですが、すべてのことは“想い”から始まるのですから何も問題はありません。

 大層な言い方は別として、何となく昔を懐かしむ人たちが人生の変わらぬ姿を眺めに来てくれるような場所であってくれたらと思うのですが。
 これからは、月に一度くらいの割合で上映を続けていきたいと思っています。

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡