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「湘南名画鑑賞会」会報 No.5

映写窓の後ろからD

第七回上映会(上映映画『第三の男』)
1986年11月30日(日)、場所:湘南名画鑑賞会サロン

 こんな上映会場になって映写室もなく、従って映写窓もないのですから、「映写窓の後ろから」という会報のタイトルも少し変なものなのですが、映写窓という言葉をフィルムが通る映写機のアパーチュア部の窓とでも拡大解釈すれば、映画の中の世界にも入って行けそうです。

 前回の『麦秋』はいい映画でしたね。
 私は今度初めて観ました。映写機の横で2回観たのですが、観ているときはただいいテンポだなあという一種の雰囲気を感じていただけでした。

 上映会が終わってからも何度かふっとあの世界が甦ってきました。
 そんなとき、あの世界の方が今の自分の世界よりもリアルなような変な感じがしたのです。

 あの人たちは当時の時代背景の中では生活水準の上でかなりのエリートといって言いように思います。しかし、その生活的豊かさ(今の消費水準からいって豊かと言うわけではありませんが)、その中で持っている人間としての落ち着きと品、その組み合わせがあの映画の中では何とも当たり前なのですが、ちょっと信じがたいほどの組み合わせだという気がするのです。

 最近の若い人たちの言葉に「アセッター」というのがありますね。
 「びっくりしたなー」ぐらいの意味で言うらしいのですが、何となくびっくりすることにまで焦っている感じが表現されているような感じもします。

 『麦秋』の世界は、その焦った感じが全くないのだと思います。
 あそこには“慌ただしさ”とか“とりあえず”という感じはないのです。
 人生の断片がちょうどそれに相応しいようなテンポの中で、その意味と重みを充分に表現しながら流れていく、言ってみればまあそんなような具合にすべてが進行していくようなのです。

 あの時代の人が皆そうだったとも思えません。
 今よりももっとぎすぎすした世相だったかもしれません。そして『麦秋』の世界の登場人物が特に賢い人たちとして設定されているわけでもないようです。(「自分一人で大きくなったような気になって」という東山千枝子の言葉が実にリアリティがありました。)

 “慌ただしさ”と“せわしなさ”の中には、どこか“疚しさ”が醸し出される素地があるような気がするのですが、今の日本に生きている私たちの多少なりとも必然的な運命のような気がします。
 もしかすると、それであの『麦秋』の世界の方が、何だか今の現実よりももっとリアルな気がしたのかもしれません。

 映写会の後、下の二歳の娘が「オ大仏様見タイネ」というものですから、家族で鎌倉の長谷に行ってみたのですが、大仏様もやはり『麦秋』の世界と今の日本のように違っていました。

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