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「湘南名画鑑賞会」会報 No.11

映写窓の後ろからJ

第十三回上映会(上映映画『東京物語』)
1987年5月24日(日)、場所:湘南名画鑑賞会サロン

 前回の『道』はどんなふうにご覧になりましたか。
 不思議な映画でしたね。フェリーニはどんなつもりであの映画を作ったんでしょうね。

 監督のつもりと、出演する役者の出来と、結果として出来上がった作品と、一人一人の観客が受ける印象と、それぞれ別なことなんでしょうね。
 私は二十年以上前にあの映画を観たのですが、今回はまるで初めて観る映画という感じがしました。

 昔はたしか、非常に悲しい暗い映画という感じを受けていたように思うのですが、今回の印象は“夢のような”というか、一種言うに言われない不思議な感じを受けました。
 多分、前回は、これをジェルソミーナの映画として感動したのだろうと思います。というと、今回はザンパノの映画だと思ったのですかね。
 というよりむしろ、男と女の物語だったのでしょうか。

 男はどうしても生の全体を何らかの意味に抽象してしまいたくなる。
 ザンパノにとっては、生は腹一杯食べて、あとはその場その場の享楽があればいいというふうだったのでしょうか。(ジェルソミーナが初めてのレストランで焼き肉と煮た肉の両方を欲しがったとき、楊枝を使いながらその両方を注文してやったザンパノの無関心は非常に印象的でした。)

 ところが、ジェルソミーナにとって生はもっと即時の全体として流れている。
 まだ意味に汚染されていない意味以前、抽象以前の全体の流れのようなのです。
 すると、女にとってはそれしかないそのときそのときの細部の真実に男が対応してくれないのを女(ジェルソミーナ)は感じるし、また自分の抽象した意味の世界に対応して生きてきた男(ザンパノ)は、いつかどうしようもない空しさの中に放り出される。
 そのとき、記憶の中の女の一瞬一瞬のしぐさを思い出すということになるようなのです。

 『雨月物語』の最後の場面、あの田中絹代のナレーションが入る場面でも、男の生と女の生ということを感じました。
 そういえば、この二つの映画はどちらも男の愚かさゆえに女が死に、男が空しさの中に取り残されるというようなところがありましたね。

 ところで『雨月物語』と違って、この映画には男でありながら即時の全体という女の生に対応できるイルマットという男が出てくるんですね。
 しかもイルマットの特別性にはちゃんと仕掛けが施してあって、生を意味として未来に押しやる男の論理を断つために、彼はいつ死ぬか分からない“綱渡り”として登場するわけです。
 女の今ここに対応できる男を創造するためにはこれくらい極端な状況設定がなければ無理なんですかね。

 それにしても、あの眠たげに曇ったザンパノの目と、鏡のようにすべてをそのまま映しそうなジェルソミーナの目は印象的でした。

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