第十五回上映会(上映映画『大人は判ってくれない』) 1987年7月19日(日)、場所:湘南名画鑑賞会サロン |
前回の『市民ケーン』、随分テンポの速い映画でしたね。 特に最初の陰鬱な廃墟の光景から急にニュース映画に切り替わり、あれよあれよと畳みかけるような急調子のナレーションでケーンの業績が語り進められるときは、一体どういうことになるのか、自分はこの映画はさっぱり分からないで終わってしまうのではないか、と思われたかもしれません。(いや、これは人ごとのように言うべきことではなく、一回目を観ていたときの私の感じでした。) いつも思うことですが、この映画の場合は特に二回、三回観て初めて納得できるということが多かったように思います。 たとえば、最後の場面で燃えていくあれ、何だかお分かりになりましたか。 これは三回観た私が、一回しか観ていない皆様にお知らせすることですが、あれは、自分を連れに来た銀行家に紹介されるべく、母親に呼び出される少年ケーンがコロラドの雪の中で遊んでいた橇です。少年ケーンが敵意を持って銀行家に打ちかかる場面でその模様をはっきりと確認できました。 つまり『薔薇の蕾(ローズバッド)』印の橇は、少年が失った両親の無条件の愛と、その愛に育まれた幼年の日々のシンボルになっていたのだと思います。 その橇は、第二の妻になる女性と初めてあった日、若干感傷的になっていたケーンが倉庫に取りに行くつもりになっていた田舎の家財の中にあったはずのものでした。 しかしまた、何という単純な人生の姿を、何とまた複雑華麗に描いた映画か、ということになるのでしょうか。 人の一生は、実際七歳までの条件付けによる楽園回復のための補償行為であるのかもしれません。 そう分かったところで、この人生が生きやすくなるわけでもないでしょうが。 しかしあのケーンという人は実にアメリカ的な人格という気がしました。 私たち日本人が彼の人生とその苦闘に同感できる以上に、アメリカ人はあの人物に自分の似姿を見るのかもしれませんね。 とにかく、アメリカの映画的知性の代表者たちがあの映画を史上の最高傑作として認めたのですから。 それがどんなに映画技法上の粋を極めたものであっても、作者の人間観そのものに同感できなければ、言い換えれば、主人公ケーンの人物に感情移入できなければ、時代の検証を経て史上のベストワンとして認知されることなどあり得ないでしょうから。 それにしても天才というものはいるものですね。 二五歳であの映画を製作・監督し、しかも主役の一生を演じきったオーソン・ウエルズという人、あれだけのことが分かっていたら、その先はどんなふうに生きるのでしょうかね。 |