第十六回上映会(上映映画『無法松の一生』) 1987年8月30日(日)、場所:湘南名画鑑賞会サロン |
前回の『大人は判ってくれない』を、どんなふうにご覧になりましたか? 中学校の授業風景が出てきましたが、フランスの学校はあんなものなのでしょうかね。毎回上映会に来てくれているイギリス人の友人に訊くと(彼はイギリスの有名私立校の一つに行っていたのですが)、「イギリスの学校もだいたいあんなものだ。あれはヨーロッパの学校のごく平均的な姿だと思う」と言っていました。 ああいう映画の場合、同感できる度合いは人によってずいぶん差があるかもしれませんね。 私が初めてあの映画を観たのは高校生くらいのときだったと思いますが、当時いちばん親しくしていた友人は、この映画を自分のベストワンだと言っていました。観ているあいだ涙が止まらなかったということです。家庭環境に似たところがあったのだと思います。 今度の上映会で映画が終わったとたんに、思わず「あんな親がいるわけない」と言った中学生の方がいたようですが、それもまた本当のことだろうと思います。 しかし、あの主人公のアントワーヌといい、彼の親友といい、実にいい子たちですね。悪い所などどこにもないという感じがしました。 たとえば、最初の授業の場面で、彼は先生に罰として大量の宿題を出されます。 彼が家に帰ってから母親が帰るまでのあいだ、彼には宿題を仕上げるような時間はとてもありません。そしてこれだけのことを最初のきっかけとして必然的に継起する彼の転落をカメラは淡々と、そしてときには歌うように追っていきます。 レオー少年の演技は、上手いとか下手だとかということをほとんど感じさせない。ただ自然なだけという感じです。 その演技のせいか、監督の狙いなのか、あの護送車の格子窓からの夜景あたりを境にして、それまで観客が容易にその内面を伺い得るように思われていた少年は、急速に気安く忖度することを許さないような一人の尊厳を備えた不透明な人格へと移行していくような印象を持ちました。 言ってみたら、ドラマという約束事の枠の中に安定していた世界が、いつの間にか現実のドキュメンタリーに移っているといったような案配でした。 少年院を逃げ出して走るアントワーヌ。 その心情は判るようでもあり、気安く判ったりしてはいけないようでもある。 カメラはただ不透明な実存となった少年を横から撮します。 そして海、振り返る少年。 ――俺はどこから来て、何処へ行くのか?――と。 |