第十七回上映会(上映映画『灰とダイヤモンド』) 1987年9月27日(日)、場所:湘南名画鑑賞会サロン |
『無法松の一生』、どんなふうにご覧になりましたか。 大上段に振りかぶった言い方をするなら、映画芸術の面白さというのは、映像と音声という形に封じ込められた“時間の缶詰”の面白さだと思うのですが、実はその時間を封じ込めるときに、図らずも二種類の時間が同時に封じ込められているようです。 一つは無論、監督、役者など、制作に携わった人たちによって意図的に創造された時間、そしてもう一つは、その創造過程でその人たちが暗黙の前提としている“時代”という時間、ということになるだろうと思います。 映画という“時間の缶詰”を開けるとこの二種類の時間が同時に流れ出すわけでしょうが、ところで、この私たちの会のようにもっぱら古い映画を観ているところでは、自分たちがこのどちらの時間を楽しんでいるのか、ひとことでは言えないようなところがあります。 邦画の場合に特にこの感が深いような気もしますが、それも小津作品のようにどちらかというと壊れていく古き良き日本を懐かしみたいというような傾向が強い場合と、黒沢作品のように徹底的に演出された時間を楽しみたいという傾向が強い場合とがあるような気がします。 前回の『無法松』の場合、流れ出す“時代”という時間の方を感ぜざるを得ませんでした。 言ってみれば、阪妻演ずるところの松五郎の表情を見ているのか、日本人はこんなとき、こんな表情で、こんなふうに応対していたのかと思ってみているのか、自分でも分からないようなところがあったのです。 無論そんなことをいちいち意識して観ているわけではないのですが、ただこんなふうな映画を観ていると、日本人の情動とその表現(表情、言葉、イントネーション)が戦後わずかな間に驚くほど変化してしまったような気もするのです。 たとえば、今回の場合、継母の折檻に耐えかねた少年松五郎が、小倉の街から四里ほど離れたところにある飯場のような所に父親を求めていく非常に印象的な挿話があります。 夜道を駆けてやっと辿り着いた少年松五郎を迎える父親の表情。 その一種懐かしいような、記憶の堆積の底にほのかに埃を舞い立てて浮かび上がってきたようなその顔立ち、骨相。 何とも言えず、昔という“時間”を感じたのです。 黒沢作品の『七人の侍』の野武士の住処を襲う場面でのあの島崎雪子の顔が徹底的に演出された時間であるのと、妙に対照的に思い合わせられたのでした。 |