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「湘南名画鑑賞会」会報 No.16

映写窓の後ろからO

第十八回上映会(上映映画『巴里祭』)
1987年10月25日(日)、場所:湘南名画鑑賞会サロン

 フィルムが回り出すと、あの同じマチェックが、同じように芝生から身を起こし、銃を手にし、あの同じ脚運びで動き出す。同じようにブランデーに火を点け、昔を回想し、そして同じように恋をし、同じように死んでいく。

 前回、『灰とダイヤモンド』を観ながら、私は何か、映画というものの不思議さを象徴的に味わわされたような気がしたのです。

 フィルムという物質に固定されたある時間の経験が、映写機という解読器にかけられることでその記憶を紡ぎ出す。
 何回となく観たあの世界がたしかに存在し、その中であの同じ若さのマチェックが動き出す。恋の爆発を経験し、人を殺し、不可避の死まで登りつめていく。しかもそれが確かに、あの殺す者も殺される者も美しい、切ないような世界なのです。

 経験―記憶―発見―成長、それらがその順序を違えながら、不思議な、切なくも懐かしい、内面という味わいの世界を繰り広げ、駆け抜けていく。
 それが人生というものなのでしょうか。

 無論、制作者のワイダが彼なりの意図に突き動かされてあの映画を作ったことは間違いないでしょう。
 しかし、まったく異なる歴史的文脈の中に生きている私たち観客が、それぞれ固有の経験世界(=状態)を伴ってスクリーンに向かったとき、そこに繰り広げられる世界に触発されて、制作者の意図も制御も超えた化学変化が私たちの脳の中で起きる。
 それが脳という物質によって支えられた内面(=経験)世界ということになるのでしょうし、そしてそれが確かにあの映画と映像に彩られた重厚・哀切な世界だというのが、芸術というものの不思議さなのでしょう。

 私は以前、この『灰とダイヤモンド』の世界を夢に見たことがあります。
 後で考えてみて、それがどの場面だというようなことはまったくないのですが、本人には確かにそれが『灰とダイヤモンド』の世界だということが分かっているのです。

 人生というものが、あってよかったもの、なかった方がよかったもの、といった価値観の世界を突き抜け、ある懐かしさという情感の世界も突き抜けて、空無の中に消えていけるような、そんな感じを味わったような気がしたのかもしれません。

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