――「夢の中の夢」――

『パリテキサス』

 夢の中の遊園地に、お化け屋敷ならぬ「映画館」がある。

 肝試しではない、ここでのゲームは“覚えていられるか”どうか、だという。ここでは、観客が一旦自分が映画を観ていることを忘れてしまえば、映画は映画ではなく現実になる、夢は夢ではなく本物になる、という。何千年もの間、この「映画館」に入ったまま、外に出られない者もいるのだなどという、まことしやかな宣伝まがいの噂もあって、ピノキオは、何人かの友達と連れだって、面白がって中に入って行く‥‥。

 出し物は、『パリ、テキサス』。

 何という大きな風景なのだろう。宏大な空の下、無人の荒野を赤い野球帽をかぶった男が、一種独特の大股で歩いて行く。服は汚れ、髭は伸び、日に焼け痩せこけた顔の中で、大きな目だけが虚ろに見開かれて、荒野の彼方を見つめている‥‥。
 彼は何を求めているのか? それとも何かから逃れようとしているのだろうか? 彼が何かの夢を見ていることだけは確かなようだ。彼が見ている夢を象徴するように、ギターの弦の唸りのような音楽が鳴り響く。
 行き着く果てもないかと思われた荒野の中で、しかし男は壊れた水道の蛇口を見つけ、それをひねる。水は出ない。男はゆっくりと、地面に倒れる‥‥。
 男が意識を取り戻したのは、医者のベッドの上だった。だが、医者の質問に男は一言の返答もしない。
 しかし医者は、男の服のポケットから見つけた電話番号で、そこから遠いロサンゼルスにいる彼の弟に連絡を取ることができた。人の良さそうなその弟の出現から、この失語症の男の物語がほどけ出す。
 以前観た『バグダット・カフェ』にしろ、この『パリ、テキサス』にしろ、アメリカの荒涼とした風景の中に、霊的な成長の物語が直接的に露出している感じだ。
 この映画を観ている間、その不思議に重厚な音楽とともに、アメリカの宏大な空を何時も意識させられているような気がした。
 これが時代というものなのだろうか、何かが、誰かの意欲を通じて露出しようとしている、というようなことがあるのかも知れない。何者かが地球に語り掛けて来る仕掛としては、アメリカの広大な大地は実に打ってつけの舞台だった。
 その音楽も、夢にうなされる男の呻きのようでもあり、また醒めようとして醒められない、もどかしさのようでもあった。(夢の中で、遠い呼び声を聞くような『バグダット・カフェ』の音楽と違い、夢そのもののモノトーン)。
 そう言えば、この二つの映画には、風景だけでなく、音楽にも共通する所があるようだ。例えば、『バグダット・カフェ』では、上(夢の外)からの遠い呼び声、『パリ、テキサス』の方は、下(夢の中)からの鈍く重い共振音、という風に。
 失語症の兄の前に現れた弟は、口を開こうとしない兄貴に腹を立てながらも、実に優しい。彼はアメリカ社会に充分適応している苦労人だが、不適応を起こしている兄貴を必ずしも責めてはいない。再度逃げ出そうとした兄貴を、また見つけ出し、その理不尽な言い分を聴いてやって、遠いロサンゼルスまで車で旅をすることにする。
 その車の中で、男が初めて見せた自己表現が、自分のポケットから一枚の写真を出すことだった。それは無人の空き地に、土地番号を書いた立て札が写っているだけの、古い写真だった。
 初めて自分から表現し始めた兄の変化を喜び、弟はさりげなく何の写真かと尋ねる。男は一言「パリ」と、答える。「俺の土地なんだ」と。
 一体、何の冗談かと不審がる弟に、彼は、それはテキサスのパリなのだと説明する。そこは、お袋と親父が初めて出会った場所なんだ。俺の出発点を確かめるために、以前通信販売で買ったんだ、と。
 彼は自分の生存の根拠を、確認しようとしていたのだった。
 弟の語り口から、彼ら夫婦はこの兄の子供を引き取って、今では自分の子供のように育てていることが明かされる。子供は、その母親によって、弟の家の前に置き去りにされていたのだった。
 「分かって欲しいんだけど、あの子は俺たちのことを本当の親みたいに思っているんだ。無論兄貴のことは言ってあるけど、何しろ四年は子供にとっては長い時間だからね」
 ロサンゼルスの弟の家に着いて、子供とのぎこちない出会いも終わり、一向に父親に懐こうとしない子供を見て、以前自分が撮った兄弟二家族の8ミリ映画を観ようと弟が提案するところから、兄の失踪の真の原因が明かされ始める。
 その8ミリに出て来て子供を抱き上げている、若く美しいらしい母親の存在が、だんだんにその場の空気を圧倒してくるからだ。
 芸術は、“その芸術表現”によってしか表現できないものを表現するところに、その本領があることは間違いない。
 無論、映画も芸術であり、その意味でこの映画も、それを観ている間の不思議なリアリティに、表現としてのこの映画のすべてがあることは確かだ。言葉にすれば結局、それは「切ない」とか、「不思議な」とかいった、月並みな言葉でしかない。人の顔を言葉で説明できないのと同じく、それは結局、その作品のヴァイブといったようなことでしかないのだろうから。
 弟の家に落ち着き始め、いわば傲慢とも言えたその失語症的無口がほどけて来るに連れて、世間的な意味ではいかにも無能であるらしい男の姿は、だんだんと小さくまとまって行くかのようにも見えた。既に小学生になっている自分の子供に対して、男は決して冷ややかなのではなかった。男は子供に近づく努力をする。
 荒野を彷徨していたときには、人を寄せ付けないほどの隔絶した孤独を表現しているかとも見えた、あの一種独特の歩き方も、今ではかえって、男の気の弱さと愚かしさを表現しているようでもあった。だがそういう事すべてを含めて、この男の存在が許されているような風通しの良さが、この映画にはある。だから観ている者も、この男の子供っぽさ、愚かしさには優しい気持ちを向けられるのだった。
 男は、どうしても、もう一度妻に会う必要がある自分に気づく。弟に金を借り、車を買い、毎月子供名義の口座に金を振り込んで来るという、遠い地の銀行の名を頼りに、妻を探しに出かける決心をする。小学校まで行って子供にその意志を伝えると、子供は、自分も一緒に母親を探しに行くと言う‥‥。
 映画も文学と同じく、見る者のsympathy(共感、同情)を呼ばなければならないのだろうか?
 commpasion(慈悲、慈愛)を呼んだのでは、作品の負けだ、という風なのだろうか?
 解釈を嫌う類のきわめて映像的な作品として、映画『パリ、テキサス』も無論、男が観ている“夢”の固有性を主張する。言葉による普遍化は拒否したい感じだ。しかし男を見る目は、何とも優しい。(あるいはこの印象は、一度挫折を経験した男の目が、虚ろに優しいこととも関係があるのかも知れないが)。結果として、この映画には、見ている者の慈愛の目を呼ぶような所もあった。  だがこの映画に、見晴らしはない。(その点、より見晴らしに比重の掛かった『バグダット・カフェ』とは逆の感じだ。言ってみれば、より思想的な『バグダット・カフェ』に対して、より文学的と言った所か)。
 すると、その“夢(作品世界)”は「切なく」なり、その作品世界は重厚に、また独自になるが、その分、見通しはなく、出口もなくなるのかも知れない。
 見る者は必然的に、作者が意図する同じ“夢”を、見ると言うよりはむしろ感じることを求められているのだろう。
 だが本当は、この男の歩き方(作品世界に凝らされた工夫)がユニークであると見えるほどには、その背後の物語がユニークであり得るわけではないのだ。
 アメリカ文明の発明品であるらしい妻と夫の再会の場は、言ってみれば、新宿か何処かにでもありそうな覗き小屋と、精神分析医の診療室を、足して二で割ったような仕掛だった。(鏡を通して、他者という自分と対面するというこの不思議な仕掛は、何やら不気味なほどに洞察的だ)。
 十七歳の美しい娘との嬉しすぎる結婚。若い妻に対する男の過剰な愛着と嫉妬。迎える準備の無い出産と、家と子供に縛り付けられることから起こった、若い妻の挫折感と怒り。男の絶望と出奔。家庭の崩壊と捨子‥‥。
 男たちの窃視願望と、ただ無条件に自分の話を聴いて受け入れて貰いたいそのやり場の無い孤独との、見事な商業的アセンブルとも言えるそのグロテスクな舞台は、しかし、そこでしか聴かれないような、人間の魂の言葉の器にもなり得た。

    この宇宙には、あなたと同じ臆病者しかいないのです
                        ――『なまけ者のさとり方』タデウス・ゴラス――

 「私には、あなたのいなくなった家を守ることはできなかったわ。でも、この部屋でたくさんの男たちの話を聴きながら、私は何時もあなたに逢っていた」

 人はどうして、傷つかなければ優しくはなれないのだろう? そしてどうして、傷つくことを恐れるばかりに、こんなにも用心してしまうのだろうか?
 無論、文学としての映画『パリ、テキサス』の志しは、背後の物語を解き明かすことでも、子供を含めた三人の家庭の再出発の道を模索することでもない。おしなべて文学の志しは、解決への展望を探ることではないからだ。
 文学の志しとは、取り返しようもなく現出してしまったこの固有の時間、他の何物とも取り替えようのない独自の“夢”を、ただ差し出して、これを味わってみてくれ、と言うことなのだから。
 そして、それは充分に成功している。映像によってしか表現し得ない、哀切とも言える、ある独自な文学的時間が流れた。

 だが、男のあのユニークな歩き方の背後の物語が、それ程ユニークではあり得ないのだとしたら、もしかして、男の歩き方そのもの−−装飾された“夢”そのもの−−も、それ程ユニークではないのかも知れない、と思い付いてみるのはいいことだ。なぜなら、あらゆる解決は、文学にとってはあまりにも浅薄であり、ついには解決へのヴィジョンそのものが、文学にとっては浅薄なものに思われる可能性だってあるのだから。
 “夢”とは、醒めたくないということだ。
 すると、文学的イメージの志しとは、読み解かれたくはない、神秘として留まりたい、ということであるのかも知れない。(だが、読み解かれ“たくはない”ものが、読み解かれずにいることはあり得ない。神秘として留まり“たい”ものが、神秘として留まることはあり得ない)。
 もしそうだとして、その「読み解かれたくはない」志しとは、誰の志しなのか?
 それは、作者の志し、作者の欲望、虚構のエゴの志しに過ぎないのかも知れない。
 だから実は、“夢”を自ら演じている、あの男の物語は残っているのだ。
 あの男は、本当は“夢”から醒めたいのかも知れない。あの男に託された、作者の中の深い憧れは、本当は“夢”から醒めたいのかも知れない。
 だが、そこからは別の物語が始まる。“テキサスのパリ”は、月を指す指だ。“テキサスのパリ”が指していた、本当の“月”の物語は、あり得るのだろうか?

 ピノキオたちが「映画館」を出ると、既に陽は落ち、遊園地の上には夜の賑やかさが始まる前の、黄昏時の静かな蒼い空が広がっていた。中天を覆う大きさで「二老人」がチェスをしており、西の空には何やら陽気な「OSHO」のメッセージが瞬いている。


home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡