home > 通信 > 『アセンション館通信』 第49号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.049 2005, 1/30(第49号)
☆☆  ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 購読者10,000人:に向けて驀進中、現在 335名 (^^)/
-☆☆---------☆☆----------------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガは“アセンション情報の広告塔メルマガ”です。

つまり、“アセンション”という言葉の流通拡大を手段として、
地球住民の“集合意識”の基盤を“ゆるめ・ひろげ”ることによって、
地球が向かう新しい光り輝く世界への次元移動を、できるだけ自然で、
スムーズなものにすることを目的に週刊で発行されています。(^_-)


◇◇ このメルマガが想定する“アセンション”◇◇

“アセンション”という言葉を聞いたことがない方は、発信サイトで
https://www.ascensionkan.com/demae/ascension.html
このページ↑をご覧ください。

また、特にこのメルマガが想定している“アセンション”という言葉の意味合
いについては
https://www.ascensionkan.com/demae/ascension_m.html
このページ↑をご覧ください。

これまで地球の次元上昇サポートを背後支援に絞ってこられたETの方々が、
ファーストコンタクトに向けて国勢調査を開始されました。
https://www.ascensionkan.com/demae/ET_message.html
ここ↑をご覧ください。

要するに、グレゴリオ歴2012年12月22日をひとつの仕切として、これからわず
か7年ほどの間に、前後のつながりを辿れなくなるほどの大激変を通過して、
われわれは光り輝く圏域に移行するという、なんともはや嬉しいような、恐ろ
しいようなお話に“悪乗り”して行こう、という楽しい話題を振りまいていま
す。(^^)/

----------------------------------------------------------------------
◇◇ もくじ ◇◇

1.「わびしさ」の意味

2.二つの<自己>イメージ:<意識>と<愛>

3.《黄金の未来》コーナー:コミューン連邦――その1

4.いただいたお手紙から:ご意見・ご感想(随時)

5.みなさまからの「ご投稿・情報提供」(随時)

6.編集後記:
----------------------------------------------------------------------

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.「わびしさ」の意味
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

いやー、今日は素晴らしい冬の曇り空です。(^^)/

南側の窓越しに見えている動きのない曇天。

西側の欅の木の枝を見ても風ひとつ感じさせない。

動きのない、わびしげな……、じつに完璧な冬枯れの景色です。

わびしさも、いいですねぇ。(-_-;)

……。

(@_@)

また一週間が巡って、楽しい“アセンション噺”にお付き合いいただく時間が
やってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有のお時間の中で、いかがお過ごしでしょうか?

今日も、“マインド無礼講”で勝手な独り言を楽しもうなぁ。

子供の頃に感じた、ある“完璧な”「わびしさの原風景」のようなものがあり
ます。

北海道で過ごした子供の頃のある初雪の日の光景らしいんですが……。

今は北海道でも、たいてい家は石油暖房みたいですが、わたしが子供の頃は、
石炭ストーブで暖を取っていました。

学校なんかでは、けっこういつまでも塊の大きい石炭を燃やしていましたが、
たいていの家は、じきに“粉炭”を燃やすようになったと思うけど。

でも、その“原風景”の記憶は、どうも学齢よりも前かもしれません。

ある地面の印象なんです。

家の前の地面だと思うんですがね。

でも、その記憶にある場所の雰囲気だと、理屈から言うと、どうも幼稚園より
も前ということになりそうなんだけど……、そんなことを覚えているかなぁ、
という気もするしね。

その地面には、石炭を運んだ後のような黒ずんだ“汚れ”が見えます。

その冷たく湿ったような、あるいは逆に寒々しく乾いたような、その黒く薄汚
れた地面の上を、白い小さな粉雪がひとつふたつと転がっているんです。

そのこぼれた石炭の粉の黒さの上を、今まさに降り始めたばかりの白い粉雪が
転がっていく光景……。

その光景が、そんな言葉は知らなかったでしょうが、まさに「わびしさ」とい
う言葉に対してわたしが付与する“意味”なんだろうと思います。

そういう言い方をよくすると思いますが、寒冷地の粉雪は“乾いて”いるんで
すよね。

地面の上を、コロコロ転がって行くんです。

たぶん、この記憶は、間違いなく一年で最初の「初雪」の光景だろうと思いま
す。

それで、小さな子に鮮烈な印象を与えたんでしょう。

当時は、初雪が十月の末か、十一月の初めだったように思います。

そして、驚いて上を見上げたら、薄明るい灰色の空から、もうもうと何か白い
物が落ちてきたんでしょうね。

ちょっと、まわりを見回したら、ゴミ箱のような物が見える。

思うに、それは石炭入れだったんじゃないかと思います。

何かの確実な「終わり」、何か別なものの始まりの予兆だったのかもしれませ
ん。

言葉は知らないながらも、強烈な「わびしさ」を感じたことを憶えています。

どんな“情緒”も、純粋に味わうことができれば、すばらしい体験なのかもし
れませんね。

考えてみたら、冬の始まりを告知する初雪が「わびしさ」として感じられたな
んて、子供だってすべてを知っているじゃないか、という気もします。

クラーゲスというドイツの詩人、哲学者、科学者がいます。

わたしはとっても好きな人なんですが、あまりたくさんの本は翻訳されていま
せん。

千谷七郎という精神科の先生が翻訳されているんですが。

むかし「全集か選集を出されませんか」と言って、白馬書房の森田編集長と、
東京女子医科大学の千谷七郎先生のところに伺ったことがありましたっけ。

仕事が忙しくて、とてもその時間が取れないとおっしゃってましたが……。

で、そのクラーゲスさんなんですが、山が高い、音が高い、というのは、たま
たま同じ形容詞を“当てて”いるのではなくて、山にも音にも、同じ、高い、
低いという属性があるからだ、って言うんです。

空間的な位置にも音程についても、「高い」「低い」という形容詞を当てるの
は、なにもドイツ語に限ることではなくて、何語でも同じなのだと。

それは“未熟な人間”が「高い」「低い」という勝手な解釈をくっつけている
のではなくて、実際に“高い”から「高い」と言っているのだというわけです。

つまり、森羅万象は、すべて固有の“情緒”を表現しているのだ、というわけ
です。(@_@)

クラーゲスは、“情緒”を表現しているその森羅万象のことを、“形象心情”
って呼んでいるんですけどね。

森羅万象は、心情の形象、言葉を換えれば、“心情の物質化”だということで
す。

ね、これって、何だかとっても、納得できると思いません?

つまり今の話に引き寄せて言うなら、石炭の粉で黒く汚れた土の上を白い粉雪
が転がっていく光景を(言葉を知っていたかどうかは別にして)「わびしい」
と感じたのは、その光景に一人の子供が勝手に「わびしい」という解釈を付与
したのではなくて、その光景(形象)として顕現していた情緒(心情)にその
子が感応しただけだ、というわけです。

別に、誰に教わらなくても、その“形象”が表現している“心情”は、生命世
界の意識生命体には“分かる(=分別する)”のだ、というのです。

……。(-_-;)

その頃は、世の中ではまだ「マルクス主義」とか「唯物論」が流行っていたの
で、わたしはとっても嬉しかったんでしょうね。

当時は、自分でも「マルクス主義」や「唯物論」の方が“正しい”んだろうと
思ってましたから。

黒田寛一とか梯明秀なんて、よく分かりもしないのに何とか読もうとしました
もんね。(*^_^*)

今では少し神経も草臥れてきて、厚かましくもなってきたから、自分の“好み”
は自分で“見繕って”決めることにしましたけど。(^_-)

ちょっと、段落を変えます。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.二つの<自己>イメージ:<意識>と<愛>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

いくら、自分の“真理”は、自分の“好み”で決めるんだって突っ張っても、
やっぱり、普遍的な“真理”ってあるんじゃないの、って気もします。

つまり、何処へ行ってもそれだけは変わらない“不変の真理”みたいなものも
あるんじゃない、というような感じです。

そのとき、“不変”ってことをどう考えるか、だと思うんです。

“地方”が違ったり、“時代”が違ったりしたら、それだけで変化してしまう
ようだと、それは“不変”とは言えないでしょうね

そしたら、(“地方“をちょっと拡張して)“位相”が違ったり“次元”が違
ったりしたら、もうそれだけで通用しなくなるようだと、それは“不変”とは
言えない、ということになるはずです。

また(“時代”をちょっと拡張して)“時間軸”が違ったら、もうそれだけで
通用しないというのだと、それも“不変”とは言えないでしょうね。

というと、こういう場面では、“地方”という空間的イメージと“時代”とい
う時間的イメージに、たいした差はないんだな、という気もします。

要するに、包含関係の問題みたいじゃないですか。

それが、たまたま、日本語だと同じ音の「ふへんてき」という言葉に集約的に
表現されているのかも。

もしかすると、こういう文脈で“不変的真理”を探すということは、宇宙で最
も包含関係の大きい“普遍的真理”は何なんだろう、と探すのと同じことなの
かもしれません。

今、ふと、こんな連想が働きました……。

最近、このメルマガの購読者のA.Oさんという方から、ある情報を提供して
いただきました。

A.Oさんは、必ずしもこのメルマガで情報を紹介してもらうのが目的ではな
い、とおっしゃるものですから、時々個人メールをやりとりして、いろいろ教
わっているところです。

で、たまたま、さっきいただいたご返事にこんなことが書かれていました。

(もちろん、いま急に思いついたことですから、A.Oさんに掲載のご了解も
 得ていないのですが、構いませんよね。>> A.Oさん

 別に、ご迷惑をおかけするようなことでもないので。m(_ _)m)

----------------------------------------------------------------------
 > >いわゆる「瞑想」などの類が、マインドの動きをゆっくりにして、
 > >その隙間に入り込み、「一致」しようとするのは、その持続感、
 > >存在感を断ち切るためだと思います。
 > >ただ、この何々しようとする意思が「脱落」しないと、「一致」は
 > >生じないため、そこに、「ディクシャ」が登場したわけです。
 >
 > この「一致」という言葉はマインドの周波数を“支配する”
 > といったような意味ですか?
 
 これは思考と思考の隙間を見るとか、思考の起こる手前を見る
 とか言われるものです。
 実際には、見ようとして見れるものではありません。
 何しろ、そこでは、マインドが停止していますから、
 いわゆる「見る者」「見られる対象」「見る行為」が
 同一で分離がありません。
 つまり、その隙間と「一致」することでしか体験し得ない
 状態だということです。
 
 「私」が苦しんでいるのではなく、「私」そのものが「苦しみ」だとか、
 「マインド」が葛藤しているのではなく、「マインド」自体が「葛藤」だと
 か言うのと同じ意味です。
 だから、「私」には苦しみを消すことはできませんし、
 「マインド」は、葛藤することを止めることはできません。
 
 ところで、「ラムサ」のことがよく話題に出ますね。
 そのメッセージはとても魅力的です。
 
 しかし、「ラムサ」は苦しみや混乱の根源をどう見ているのでしょう。
 
 和尚など「覚者」は、一切の根源苦を「私」という個別性、分離感に
 見ていると思うのですが。
 
 「ラムサ」は、「マスター・シップ」の見地から、「神」としての本質を
 具えている、私たちの無限の「創造力」が一切を「解決」することに
 つながるような印象を与えているように見えます。
 つまり、「自己信頼」が足りないと。
 多くのチャネリング系の主張ですね。
 
 私には、ポジティヴ・シンキングの極致、超人願望による極限的自我の拡大
 のように思えるのですが。
 
 「ラムサ」は「分離感」からの脱却については、どう考えているのでしょう。
 絶対的な「自己信頼」が、「私」というものを消し去ってくれるのでしょう
 か。
 
 pariさんの見解はどうですか。
 
 「個別性」から脱却しないまま、無限の「創造力」を確信したり
 発揮できるのでしょうか。
 また、そんなことができたら、ますます世界は混乱するのではないでしょう
 か。
 
 全体の調和を生み出す「創造力」はどこから生まれるのでしょう。
 
 pariさんは、なぜ「ラムサ」に惹かれますか。
----------------------------------------------------------------------

あーあ、思わず、飛んでもない、わたしなどには“身分不相応の難題”を呼び
出してしまいました。(>_<)

しかし、“困る”というのも、“難題”というのも、わたしのマインドが創り
出している意味、幻想であることだけは間違いないでしょうから、まあ、その
まま、突っ走るより仕方ないですよね。^^;

“マインド無礼講”を唱いながら、“間違うことを”恐れていたんじゃ、冗談
にもなりません。

A.Oさん、「一致」の意味についてはよく分かりました。m(_ _)m

なるほど、綺麗な言葉、綺麗な使い方ですね。

さて、それで、ラムサです……。(-_-;)

A.Oさん、わたしは“精神世界オタク”なものだから、何かユニークなメッ
セージを発信している方には、どなたに限らず惹かれてしまうところがありま
す。

そして、「この人、わたしも知ってるよー」というわけで、誰でも彼でも自分
のサイトに掲載したがります。(*^_^*)

なにか、強引に“食わず嫌い”を突破してしまいたい、みたいな関心もありま
す。

まあ“精神世界好き”の方には、多少なりとも、どなたにも“その気(け)”
はあると思いますが。

でも、それはそれとして、わたしも、A.Oさんが感じられたと同じようなこ
とを感じましたよ。

 しかし、「ラムサ」は苦しみや混乱の根源をどう見ているのでしょう。
 
 和尚など「覚者」は、一切の根源苦を「私」という個別性、分離感に
 見ていると思うのですが。
 
 「ラムサ」は、「マスター・シップ」の見地から、「神」としての本質を
 具えている、私たちの無限の「創造力」が一切を「解決」することに
 つながるような印象を与えているように見えます。
 つまり、「自己信頼」が足りないと。
 多くのチャネリング系の主張ですね。
 
 私には、ポジティヴ・シンキングの極致、超人願望による極限的自我の拡大
 のように思えるのですが。

たしかに、“ニューエイジ系”というか“チャネリング系”の主張と、仏陀や
和尚などの観点は違いますよね。

そして、じつは、その“違い”の感じは、日本の“古神道系”にも通底という
か、連動しているような気がするんです。

つまり、“古神道系”のメッセージは、ある意味で、“ニューエイジ系”、
“チャネリング系”に親近、といった感じがあるように思うんです。

また、“古神道系”のメッセージの場合は、お伝え人の口から漏れてくるメッ
セージでは、仏陀のような存在や、さらには「瞑想」といったものにすら、そ
れを“弾く”ような印象がありました。

人生が「苦」であるという、仏教で言えば根幹的な認識の「苦諦(くたい)」
そのものが、古神道では“穢れ”とも言えるわけです。

“仏魔”という言い方をします。

大宇宙は「歓喜弥栄(いやさか)」そのものである大神様の中にあるわけです
から。

それが“仏魔”が入ってきたばかりに、人生は「苦であるのが当たり前」にな
ってしまったと。

おそらく、古神道系は、どこまでも“準親子関係”みたいな感じで行きたいの
かな、という気もします。

そういえば、たしかに、和尚も「瞑想」を“刺(とげ)抜き”の針に喩えてい
ますしね。

まあ、古神道系が“天界(=上位次元)”の言い分、瞑想系は“下界(=人間
界)”の言い分、といったようなことかもしれません。^^;

それと、たとえば、これもこのメルマガでよく引用する『無条件の愛』のよう
な系統、いわば“真のイエス”とでもいうべき系統があります。

これは、「自力・他力」というような文脈で言うと「他力」系の感じで、そこ
は「自力」系のラムサとは違うのですが、それでも、やはり、仏陀や和尚とは
ずいぶん違う感じがあります。

地上の宗教伝統の区別で言うと、和尚はジャイナ教徒の家の生まれですから、
その意味でもまさにディヤンディヤンしていて瞑想そのものですが、霊統的に
も和尚が再興しようとした「タントラ」は仏陀の系統なんだろうと思います。

そういう地上の宗教伝統という文脈では、ラムサはヒンドゥ教に繋がっている
ということになるんでしょうか。

でも、一言でヒンドゥ伝統と言っても、ラーマクリシュナと、ラマナ・マハリ
シでは、エライ違いでしょうし。

……で、なんで、こんな単に聞いたことがあるというにすぎない、取り留めも
ない話をぐだぐだ言っているのかなんですが……。

和尚は「愛と瞑想」ということを言っていますよね。

「宗教性」とか「霊性」といったものに、この「愛」と「瞑想」というふたつ
の“入口”というか“経路”というか、そういうものがあるんじゃないか、と
何となく思っているんです。

足立育朗さんがお書きになった『波動の法則』(1995年、PHP研究所刊)と
いう有名な本があります。

もちろん、ご存知だと思いますが、日本ではこの本で初めて知らされたチャネ
リング系の精神世界情報に、

       中性子=意識      陽子=愛 or 意志

というのがあります。

だいたい、「意識」というと、「自己」とか「瞑想」とか「観照」といった言
葉と親和性の高い言葉です。

「愛」とか「意志」となったら、これはもう、「神」「全能」「創造」「奇跡」
「宥(ゆる)し」といった言葉と親和性の高い言葉だろうと思います。

前にも書きましたが、以前(1993年のことですが)、「大歓喜自在童子」とい
う“お伽噺”を書いたことがあります。

そのとき、<自己>というものの定義にとても迷ったことがあるんです。

なにしろ、疑問の出発が、「何故にすべては始まってしまったか?」ですから、
そして、そう問うているのが「自分」ですから、この大宇宙の誕生に「自分」
が責任を負わなくてはならないわけです。(^_-)

だから、「自分」が“すべて(=大宇宙)”を誕生させた“お伽噺”を創らな
くてはならない、というわけです。

今のこの“自分”は、いかにもちっぽけな存在になっているけれども、でも、
その“自分”にも連綿と連なり流れている<自己>が、今、この問いを問うて
いる、という前提です。

宇宙が“誕生”する前なら、<自己>は、なんとなく<存在>と言っておけば
それでよさそうです。

でも、それでは<無>と言っても同じようなものす。

じゃ、それは“何もない”とか“虚無”というのとどう違うのか?

(あるいは、EOさんふうに言う「絶対無」というのとどう違うのか?)

そうしたら、まあ、言うなれば

   <自己> − “虚無(=絶対無)” = <意識>(=真空)

みたいな感じがあったんですよね。

明確に、そう言語化していたわけでもありませんが。

要するに、宇宙誕生の前にあった<自己>は、そのままにしておけば、それで
何も問題のないようなものですが、宇宙誕生後の視点から言うなら、それは、
<意識>みたいなものかな、と。

しかし、語感から言って、<意識>だけでは、宇宙は誕生できないような感じ
もある。

<意識>だけでは、宇宙を誕生させようとする“何か”にならない感じがする
わけです。

つまり、<意識>という語感というか言葉の包含には、宇宙を誕生させようと
する<意志>が入らないんですよね。

だから、<自己>という言葉の包含には、大宇宙が存在しているという前提か
らすると、<意識>という側面と、<意志>という側面が含まれるような気が
するんです。

で、大宇宙の存在まで疑う必要はない、と思ったんです。

“自分”は現に“いる”し、“自分”の回りに現象は存在するわけだから。

たとえ、賢者たちが言うように、この世が幻影であるにせよ、とにかく、それ
は存在するし、現にその“幻影”の中で藻掻いているわけですから。

ただ、大宇宙が“誕生”したのかどうかは分かりません。

こういうもの(この現象宇宙)は、永遠の昔からあったし、永遠の未来にも存
在する、と言って別に矛盾はないようです。

ただ、これだけは言えると思いました。

<意識>は誕生できない、と。

それで、<存在>の“本丸”は<意識>だな、みたいな感じはありましたね。

<意識>がないのに<存在>だけがある、ということはありえないな、と。

つまり、現象だけが存在して、その現象に気がついている<意識>が存在しな
いということはありえないな、ということです。

それこそ、『ニュー・メタフィジックス』でいう
----------------------------------------------------------------------
「もし存在のない状態を体験できたとしても、その体験を知る由がない」とも
言えます。……
                  『ニュー・メタフィジックス』(p21)
----------------------------------------------------------------------
というやつです。

だから、<意識>抜きの<存在>、<意識>抜きの<自己>というのはありえ
ないと思います。

でも、「意識」という言葉の包含にもよりますが、ここでイメージした意味で
の<意識>、つまり“気づいている”という意味の<意識>だけでは、大宇宙
は誕生させられない、と思ったということです。

ずいぶん、持って回ったような言い方になりましたが、要するに何が言いたい
のかと言うと、「何故にすべては始まってしまったのか?」という問いに答え
る<自己>としては、<意識>は“必要条件”ではあるけれども“十分条件”
ではない、ということです。

“すべて”を誕生させた<自己>は、<意識>であると同時に、<意志>でも
なくてはならない。

つまり、“すべて”を誕生させた<自己>には二つの側面があって、
ひとつは、<自己>であるための“必要条件”としての

         パッシブな<自己>(=<意識>)

それと、もうひとつ、大宇宙を誕生させるための“十分条件”としての

         アクティブな<自己>(=<意志>)

という二つの側面が必要だと思ったんです。

この宇宙創造の<意志>を、<神>の「自己愛」と言い換えてもいいかもしれ
ないけれど、キリスト教が採用しているような創造主としての「神」を想定す
るのだったら、当然、<愛>、または<無条件の愛>ということになるだろう
と思います。

で、足立育朗さんや半田広宣さんがチャネリングしたように

       中性子=意識      陽子=愛 or 意志

というのが宇宙的な理解だとするなら、まさに、物理次元の構成要素そのもの
が、<自己>の“物質化”そのもの、といった形をしていることになります。

どうも、あまりにも“割り切れた話”で、なんともはや、といったところです
が……。(*^_^*)

で、やっと、最初の話に戻れます。

----------------------------------------------------------------------
 しかし、「ラムサ」は苦しみや混乱の根源をどう見ているのでしょう。
 
 和尚など「覚者」は、一切の根源苦を「私」という個別性、分離感に
 見ていると思うのですが。
 
 「ラムサ」は、「マスター・シップ」の見地から、「神」としての本質を
 具えている、私たちの無限の「創造力」が一切を「解決」することに
 つながるような印象を与えているように見えます。
 つまり、「自己信頼」が足りないと。
 多くのチャネリング系の主張ですね。
 
 私には、ポジティヴ・シンキングの極致、超人願望による極限的自我の拡大
 のように思えるのですが。
----------------------------------------------------------------------

つまり、わたしがぼんやり描いていた感じは、個々人が抱懐している<自己>
イメージに、<意識>寄りのイメージと、<愛>とか<意志>寄りのイメージ
というのがあるのではないか、という仮説のようなものです。

<自己>というものを、どうしても“静的に”、“受動的に”、“不動の者”
としてイメージしてしまうタイプと、どうしても“動的に”、“能動的に”、
“創造者”みたいにイメージしてしまうタイプがあるのかもしれない。

で、<自己>を“不動の根拠”としてイメージするタイプの方が持つ<自己>
イメージは、当然、<意識>というパッシブな原型イメージになると思うんで
すね。

それは、いわば植物的自己イメージとも言えるもので、(じっさいは、いわゆ
る「エゴ」という“変性自我”であるわけですが)、その<自己>がどこかに
“置かれる”ことが「苦」である、という感じになるかもしれません。

すると、意識生命体が存在することは、大なり小なり、現象世界の何処かに
“置かれる”こととも言えるし、現象世界とは変化の相そのものですから、絶
えざる変化に晒されながら存在すること自体が「苦」(「苦諦」)という世界
認識が生じるかもしれません。

その場合は、<自己>(すなわち<意識>)の“変化の相”への「自己同化」
が「苦」の原因ですから、その「苦」からの脱出方法は、その「自己同化」を
外す、ということになると思います。

必然的に、「瞑想」の道、というわけです。

それに対して、<自己>を“動的に”、“能動的に”イメージするタイプの方
が持つ<自己>イメージは、当然、<意志>とか<愛>とかいうアクティブな
原型イメージになりますよね。

いわば動物的自己イメージとも言えるもので、そういう<自己>イメージは、
自分の能動的“思い”と、結果として自分が直面している世界の不一致が苦し
みの原因、という感じに至るのかもしれません。

意識生命体として存在することは、大なり小なり、まわりの現象世界に“働き
かける”こととも言えますから、それによって現象世界に意図に反する変化を
起動してしまったり、意図した世界を実現できないことが「苦」という世界認
識に導かれそうです。

また、<意志>と<愛>という言葉の違いも、見かけほどの大きな違いではな
くて、創造主である「神」のイメージの違いで吸収できる程度のものかもしれ
ません。

つまり、あくまでも<自己>が創造したという立場を貫くなら、それは創造の
<意志>ということになるだろうし、<神>がその“全能”を放棄することに
よって、われわれ<神の分身>が誕生したとか、あるいは現在も創造を担い続
けているという立場を取るなら、その<神>の<意志>は、まさに<愛>とか
<無条件の愛>という言葉で表されることになるだろうと思います。

その場合は、その能動的<自己>(すなわち<愛>とか<意志>)の働きかけ
が「苦」の原因ですから、その「苦」からの脱出方法は、意図した世界を実現
できるようになるか、あるいは実現できない現在の「自己」そのもので、じつ
は愛されているのだ、という認識に至るかの、どちらかだと思います。

必然的に、「実現」(<意志>)か、「愛の実践」と「宥し」(<愛>)の道、
ということになるだろうと思います。

まあ、こんなふうに、分かったような、割り切れたようなことを言ってみても
仕方がないのですが、ただ、

       中性子=意識      陽子=愛 or 意志

という話を聞いて、物理次元の構成要素そのものに組み込まれている「原型」
なのだとしたら、根源的な<自己>イメージに、いわば“西と東”みたいな違
いがある、ということもありうるかもしれない、と思いました。

まあ、そう思ってみれば

 しかし、「ラムサ」は苦しみや混乱の根源をどう見ているのでしょう。
 
 和尚など「覚者」は、一切の根源苦を「私」という個別性、分離感に
 見ていると思うのですが。

「ラムサ」にとっての苦しみの根源は、われわれが<意志>が自分の「全能」
を“忘れている”ことか、あるいはその知識から“切り離されている”ことに
あるでしょうし、和尚など覚者にとっての苦しみの根源は、われわれという
<意識>が分離している(かのごとき)個別の現象に“自己同化している”こ
と、ということになるのだろうと思います。

同様に、イエスにとっての苦しみの根源は、自分が<愛>に値しないと思いこ
むことであり、その根本治療は、自分が<神>の愛に値し、<神>に愛されて
いることを知ること、<神>という<無条件の愛>に気づくこと、ということ
になりそうです。

そう思ってみれば、覚者(仏陀)系の理解も、ラムサ系の理解も、バシャール
などチャネリング系の理解も、イエス系の理解も、それぞれ了解可能なものに
なるような気がするのですが。

すると、

 私には、ポジティヴ・シンキングの極致、超人願望による極限的自我の拡大
 のように思えるのですが。

とおっしゃる“ポジティヴ・シンキングの極致”も“超人願望による極限的自
我の拡大”も、それが機能して<自己>が自由に、幸せになれるのであれば、
何も問題はないような気もするのですが。

わたしは、どんな理解も“正しく”て、“間違った理解”というものは、存在
しないのではないか、と思っています。

ただ<自己>が不幸になり不自由になる理解と、幸福になり自由になる理解が
あるだけだと思います。

で、その理解の妥当性を決めているのは<自己>であり、それを<神>とも言
うのではないかと思っています。

で、それが万人にとって“同一人”なのだろうと。

さて、長々と書きましたが、何か言ったことになるかどうか……。(^^;)

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 3.《黄金の未来》コーナー:コミューン連邦――その1
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

このコーナーを考えたときは、未来ヴィジョンなんていくらでもあるだろうと
思っていたのに、いざ、引用してみようと思うと、なかなかそう簡単に適当な
記述というのは見当たらないものですね。

いやー、意外でした。(@_@)

で、今回から、和尚のヴィジョンをちょっと引用してみることにします。

ここで語られている世界は、前回までの「優良星界人の暮らし」のような、わ
れわれ地球人類の現状とは隔絶した“別世界”というのではなくて、じきに手
が届きそうなというか、じきにそうならざるをえないのではないかとも思われ
る、いわば至近未来用のヴィジョンとも言えそうです。

そして、その世界に住んでいる住人たちも、別に“悟っている”人たちを想定
しなければならないというのではなくて、ほとんど今のわれわれの現状と変わ
らない至近未来の人類が普通に移行できそうな世界です。

もっとも、移行する前に、多少の天変地異とか災害などは、われわれのための
ショック療法として必要かもしれませんが。

で、これもとっても好きな風景なんです。(*^_^*)

----------------------------------------------------------------------
 コミューンについての私のヴィジョンは、国家は消え失せ、大都市は消え失
せるというものだ。
 なぜなら大都市は、あらゆる人間に対して充分な空間を許さないからだ。
 だがすべての人間は、ほかの動物たちとまさに同じく、どうしても一定の領
域を必要とするような心理的要請を持っている。
 大都市では、人間は絶えず人混みの中を動いている。
 それが大いなる不安、緊張、苦悶を生み出し、いかなるときにも人がくつろ
ぐことを許さない。
 いついかなるときにも自分自身であること、独りであることを許さない。
 生命の源泉である樹々とともにいること、生命の源泉である海とともにいる
ことを許さない。
 
 新しい世界についての、コミューンの世界についての私のヴィジョンは、国
家もなく、大都市もなく、家族もなく、地球上のあらゆるところ、深い森のな
か、青々と繁る森のなか、山のなか、島のなかに、広がり点在する無数の小さ
なコミューンの世界だ。
 運営できる最小のコミューンは五千人の規模だろうし、最大の規模でも五万
人の規模だろう。
 五千人から五万人だ――それ以上は運営できなくなるだろう。
 そうなれば、再び秩序と法律の問題が起きて、警察と裁判所と、すべての旧
来の犯罪者たちを連れ戻さざるをえなくなる。
 
 小さなコミューン……五千人というのはどうやら完璧な数のようだ。
 なにしろ私たちが試みたことがあるからね。
 誰もが、他の誰もを知っており、みんなが友達だ。
 結婚はない。
 子どもたちはコミューンに属している。
 コミューンには病院、学校、大学があり、コミューンが子どもたちの面倒を
見る。
 両親は子どもたちを訪問することができる。
 彼等が――つまり両親のことだが――いっしょに住んでいようと、あるいは
別れてしまっていようと、それはまったく重要なことではない。
 その子どもにとっては両親のどちらにも触れあうことができる。
 子どもが両親を訪ねてもいいし、両親が子どもを訪ねてもいい。

 すべてのコミューンが相互に依存しあっているべきだ。
 だがそれらのコミューンは、金銭を介して交換し合うのではない。
 通貨は解体すべきだ。
 それは人類に対して途方もない害をなした。
 今やそれに別れを告げてもいいときだ。
 これらのコミューンは物を交換し合うべきだ。
 自分の所の牛乳の生産量が高く、かつもう少し衣料品が必要なのであれば、
その衣料品を提供できる別のコミューンにその牛乳を与えればいい。
 単純な物々交換だ。
 だから、どこのコミューンが儲けるということもない。
                         『新人類』(p71-72)
----------------------------------------------------------------------

ここで和尚が語っている世界と、われわれ地球人類の現状と何がいちばん違う
かと言ったら、たぶん「家族」というものの機能に対する評価でしょうか。

「家族」というシステムの“賞味期限”が、(少なくともこの地球では)どう
やら完全に尽きかけているらしいことをわれわれが認知するには、もう少し、
時間と経験が必要なのかもしれません。

あるいは、それほどの時間をかけずとも、間もなく、ちょっとしたショックと
きっかけで、それは自明になるのかもしれません。

もっとも、それは、ドグマでもなんでもないので、そのときの状況で、また、
個々人の判断で、決めればいいことですが……。

おそらく、「私有財産」というものの崩壊と共に、なんの手間暇をかけること
もなく、自然に明らかになっていくことかもしれません。

でも、こんなふうに、至近未来の話となると、前回までの
「優良星界人の暮らし」のようには、心穏やかに受け入れることはできないか
もしれませんよね。

でも、変化は起こり続けていきますよね。^^;


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 4.哲学話:「意識」は<全体>である――その9
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は、久しぶりに、懐かしいクラーゲスなんていう人を思いだしてしまいま
した。

一頃、とっても入れ込んでいたんです。

それで、以前、クラーゲスのことに触れて書いた文章を載せたくなりました。

あんまり読みやすくないだろうと思います。

哲学話が好きでない方はやめておいてね。(言うまでもないけど。(*^_^*))

物質化現象の“傍証”みたいなものを求めている方なら、かつ、理屈っぽい話
が好きな方なら、面白いかもしれない。

----------------------------------------------------------------------
“万象”と“心情”

 月光を浴び、希薄な空気に息を喘がせながら、やっと開けた峰まで辿り着い
たとき、ほとんど漆黒とも見える遠い夜空を背景に、万年雪を戴いた壮大なヒ
マラヤの頂上が姿を現したとすれば、私たちはそこで何を感じるだろうか。

 その荘厳な姿が自分の眼前に現れる前にもそこにあったことを、私たちは疑
いはしないだろう。
けれども私たちは、その姿を目の当たりにすることによって、一瞬前とはまっ
たく違ったある心情、情緒が自分の<意識>の中に浮かび上がっていることに
気づく。
 その恐ろしいほどの荘厳さに打たれた自分を、無機的対象に対する誤った感
情移入とか、恣意的な心情投影とかいったふうに解釈する道がないわけではな
い。
 実際私たちは近代世界に入ってから、あらゆる物質的現象に対する心情的な
対応をすべて感情移入とか主観的解釈という言葉で、実体のない虚妄の幻想で
でもあるかのようにみなす習慣を身につけてきた。
 そして代わりに、「労働者は労働を売って自らの生活必需品を購入する」と
いった類の表現だけを、真実のものとして受け入れる習慣を身につけてきた。

 けれども、身を切るような寒さが気温の上で“寒い”というだけではなく、
それが身を引き締めるようなある“凛烈な”感覚を与えるとき、その感覚は寒
暖計で計測できるような“寒い”という指標だけが「客観的真実」、すなわち
唯一の「真実」で、“凛烈と”いうようなある種の感覚は主観的な解釈、感情
移入、すなわち幻想の一種でしかないということになるのだろうか。
 ある時のある寒さが、単に“寒い”だけではなく、ある“凛烈”とでもいっ
たような一種すがすがしく身の引き締まる感じを与えることがあるのを、私た
ちは知っている。
 それが情緒的ではあってもけっして幻想ではない、ある内面的「真実」と理
解できる者なら、暗黒の夜空を背景に頂上に微かに雪煙をなびかせながら聳え
立つヒマラヤの雄姿が、“荘厳”というしかないある種の感動の直接的表現で
あることが理解できるはずだ。

 万象が諸物の合成物ではなく心情の形象であると喝破したのは、ルートヴィ
ッヒ・クラーゲスだった。
クラーゲスが述べたことこそ、<意識>の海の中での「心情」と「物質」の分
化の物語だった。
 クラーゲスは、私たちが“荘厳な”山を見るとき、それは私たちが眼前に展
開する山に勝手に恣意的な“荘厳”という解釈を付与しているのではなく、そ
こに“荘厳な”山が形象しているからだという。
 荒れ狂う海が“荒々しい”のは、私たちがその海を見て“荒々しい”と解釈
しているのでも類推しているのでもなく、そこに“荒々しさ”が現象している
からだというのだ。
 山が“高い”といい、笛の音が“高い”というとき、その高低を諸民族が間
違えることがないのはけっして偶然ではない。
そこに同じ、ある“高い”と表現されるような心情が形象しているからだ、と。

 私たちのこれまでの「真空」に即してこのことをいい直してみるなら、
「形象心情」とは、次のようにも言えるかもしれない。
 真空の中である物質現象が発生するとき、ミクロの世界ではその物質発生と
同時に反物質と呼ばれるものが発生している、というのが現代物理学の認める
ところだという。
 とすれば、その“反物質”というものが私たちの内面がキャッチするいわゆ
る「情緒」とか「思い」とかいった心的内実の媒体を指す現代物理学での名称
だと考えることもできる。
 すべてが生命であるこの濃密な<意識>の海の中で、一瞬一瞬、物理次元に
何らかの物質現象が現れては消え、それと同時に、それを鏡に映すかのように
反物質が生滅しているのだとすれば、それこそが物理次元には現象しない意識
内実、心情的側面なのかもしれない。

 もしそんなふうに言えるなら、ある物質現象が顕現しているときには必ず、
ある生命的な意味(=心情)が同時発生しているはずだろう。
 それが何らかの波動となって、「真空」と繋がるチャンネルを持つ者に、あ
る心的な内実を伝えて来るのだとも考えられる。
 暗黒の空を背景に微かに頂上に雪煙をなびかせているヒマラヤは、そのよう
な姿で物質界に現れることによって、同時に心情の世界にも“荘厳さ”という
意識内実として現象しているのかもしれない。私たち人間はその生命的意味を、
あるいは五感を通して、あるいは第六感を通して感受するのではないだろうか。

 物質現象と同時に、想念の世界は絶えず変移する。
 いわゆる現象という一瞬の間も留まらない生起の姿は、けっして動くことの
ない一点、いわば不動の“鏡”を前提せずには現象しえない。その鏡に当たる
ものを、私たちは<意識>と呼んできたのだった。
 生命現象とは、物質現象と心的現象という変転極まりない一対の現象世界を
乗せた永遠不動の一点によって支えられて存在しているのだった。
 そしてその永遠に動くことのない一点が、従来の物理学の言葉でいう最も純
粋な意味での絶対的「真空」なのだとしたら、この大宇宙にはたったひとつの
「真空」しか存在していないことも確かだろう。
 私たちが<主体>、すなわち“自分”として体験しているものこそまさに宇
宙にたったひとつしかないこの純粋な「真空」であり、私たちはその「真空」
に繋がることによってひとりの「個」でありえているのではないだろうか。

 走る電車の実体が、目に見える車両という構造物にはなく、むしろパンタグ
ラフを通じて繋がっている電気現象にあるように、そしてあらゆる電車が繋が
っているのがたったひとつの電気現象であるように、私たちは実在の世界にた
ったひとつしか存在しない「真空」という“不動”の一点に繋がることによっ
て、<意識>する生命でありえているのではないのか。
 単に物理次元に動力を取り込むことを目的としたパンタグラフとは違って、
<意識>を物理次元に実現するには、現在の地球の科学段階では想像も及ばな
いような精緻な工夫が必要だったに違いない。
 それが、脳下垂体、松果腺、甲状腺、胸腺、副腎腺、ライデン腺、性腺とか、
七つのチャクラとかいわれるものなのではないのだろうか。 (p259-262)
----------------------------------------------------------------------

m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 5.みなさまからの「ご投稿・情報提供」(随時)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

『アセンション館通信』への「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

「ご投稿・情報提供」フォームをご用意しましたので、
http://www.formzu.com/formgen.cgi?ID=872925
よろしければ、ここ↑からご投稿なさってみてください。

[名前(ハンドル名可)*]の枠内にご記入になったお名前を、
ここでの名前とさせていただきますので、よろしくご了承ください。


        …………○…………○…………○…………


前号に続いて、ハイアーセルフ33さんからの連続投稿です。

----------------------------------------------------------------------
 みなさんこんにちは。ハイアーセルフ33です。
   
 新書版BASHAR6巻(旧版3巻)の中に「1−3−5 リスクなしの成功法」
 というのがあります。それの補強版としてヴォイスで販売しているテープ
 「創造する舞台1−3−5−7の実現法則」というのがあります。本の内容
 の1,3,5に、心理面のサポートとして「7」を加えたものです。成功の
 ためこれは大切!
   
 前回まで3回続けて「思考が現実を創造するからくり・構造」についての情
 報を発信しましたが、それと合わせて貴重な情報と思います。参考にしてい
 ただければ幸いです。下記はテープからバシャールの言っていることを「そ
 のままに」ポイントだけを記したものです。
  
 *************************************************
   
 「創造する舞台1−3−5−7の実現法則」のポイント
 http://www.voice-inc.co.jp/goods2.aspx?GD1CD=2&GD2CD=12&ORD=20
   
   *発信者…バシャール(エササニ星宇宙人 男性)
   *チャネラー(受信者)…ダリルアンカ(1956年生まれ 米国人)
   
 1…すべては「一つ」である。
   
 3…(1)見る(2)感じる(3)成りきる。
   
 5…
   (1)ビジョン  ・一番ワクワクするものを選ぶ。
 
 (2)タイミング ・社会とシンクロ(共時性)しているかを見る。
                     自分がやりたい事を全てやっていても事が起こら 
                     なければ、それはタイミングの問題である。
 
 (3)知  識  ・やりたい事に関連する知識、ワクワクする知識、惹 
                     かれる知識を得る。
 
 (4)資  源  ・ビジョン達成に必要な人たちとネットワークをつく
                    る。
 
 (5)コミットメント(意志)
                  ・最後までやる。時々自分がしたい事を確かめ、そ  
                     うであればやる。一番やりたい事と「ずれている」 
                     かの確認も。
 
 7… 自分を一つにそろえるもの。1−3−5をやっていてズレたと思っ 
       た時、これで元に戻すことができる。
 
 (1)ただリラックス ・止まり、深い呼吸をして。
 (2)古い観念を体から出す。
 (3)自分の内に目を向ける。
 (4)1−3−5でやったことを思い出す。
 (5)自分の反応を見る。
 (6)自分のバランスをとる。
 (7)ただ単に喜びの中にいればよい。
 
 ・これだけできれば、再び1−3−5にもどることができる。
 
 
 Love and Peace ハイアーセルフ33
 ******************************************
 〜日常に精神世界の情報を生かしてゆくための〜
   スピリチュアル・メッセージ活用研究会
  H P :http://homepage2.nifty.com/haruhi33/
 Eメール:haruhi33@nifty.com
 *******************************************
----------------------------------------------------------------------

ハイアーセルフ33さん、ありがとうございました。m(_ _)m


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 6.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

たいてい、毎回、何を書こうというつもりもなく書き始めてしまうんだけど、
今回もこんなことを書こうとは、思ってもいなかった。

でも、A.Oさんのお陰で、わたしは楽しかったな。(*^_^*)

これまで、なんとなく感じていたことを形にすることができた。

ありがとうございました。m(_ _)m

というわけで今回も……。

前号に続いて、著者のご了解を得ている「祈願文」という内容の文章を掲載さ
せていただきます。

------------------------------------------------------------------
17.2001.7.7 地球さんへ

            【 祈 願 文 】 

56億年の永きにわたり、多くの魂に学舎を提供されてきた、地球さん、
本当にありがとうございました。
満身創痍でボロボロになりながらも、一言の愚痴も言わず、ただひたすら
大いなる愛で耐えてこられたあなたに、深く感謝いたします。
もうすぐ光の次元へ戻られるとのことですが、一日も早く傷を癒され、
元気な姿で光に還られますよう心よりお祈りいたします。
天の父よ、天の母よ、どうか私達の祈りを聞き入れ、地球さんにたくさんの
癒しの光をお送り下さい。

           海よ山よ空よ森よ川よ    よみがえれ

         生きとし生けるもの全て  よみがえれ

            地球よ         よみがえれ
------------------------------------------------------------------

<(_ _)>

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作 者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  → メール: paritosho@dream.email.ne.jp
----------------------------------------------------------------------
『アセンション館通信』の既刊号を毎日連続で配信いたします。
連続配信をご希望の方は“『アセンション館通信』連続配信依頼フォーム”
https://www.ascensionkan.com/mm/deliver.html
↑より、空メールをお送りください。翌日より毎日配信されます。
ただし、これからの号の購読にはメルマガ登録が必要です。(無料)
----------------------------------------------------------------------
このメールマガジンは二つの配信スタンド
『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/ と『melma』 http://www.melma.com/
を利用させていただいて発行しています。
「まぐまぐ」からの配信中止は:http://www.mag2.com/m/0000126287.htm
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2005 paritosho 
コピーレフト↑の概念についてはこちら↓をご覧ください。
http://now.ohah.net/commune/?license/copyleft.html
----------------------------------------------------------------------