home > 通信 >存在は永遠であり無限である(R.S):『アセンション館通信』第1000号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/06/11(第1000号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.存在は永遠であり無限である(R.S)

2.編集後記
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■1.存在は永遠であり無限である(R.S)
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今日は暑かったですね。

ちょっと思うところがあって

以前に作ったコンポストを作り替えたのですが、

暑い中で作業して汗だくになりました。

午後はアルバムの大幅整理を手伝いしました。

昔の写真って妙な気分になるものですね。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

わたしはいつも

“自分”がいまどんな気分なのかを気にしています。

まるで……

それがとても大切なことでもあるかのように。

まるで……

“自分”がその気分でもあるかのように。

でも実際は、わたしはいつも

その気分に「気づいている」のです。

つまり、わたしはいつも

その気分に「気づいているもの」なのです。

その気分に「気づいている」のですから、

わたしはその「気分そのもの」ではありえません。

その「気分そのもの」は

その気分には気づくことはできませんから。

そして、その「気分そのもの」は、

その気分に「気づいているもの」に依拠して

存在することができています。

その気分に「気づいているもの」が存在しなければ、

その「気分そのもの」は存在することができません。

でも、その気分に「気づいているもの」は

その「気分そのもの」が存在してもしなくても

存在しているのです。

だから厳密な言い方をするなら

実際は、存在しているのは

その気分に「気づいているもの」だけだとも言えます。

それは「映画」における「スクリーン」のようなものです。

われわれが「スクリーン」上に投影される

「映画」の物語のなかで夢中になっていても、

実際にその物語の構成「場面」を確認しようと

「スクリーン」に触れたら、

そこには「スクリーン」しか実在しないのですから。

厳密にもなにも、実際は

「スクリーン」しか存在していないのは明らかです。

物語も、物語のなかの「気分」も

実在してはいない。

実際に存在しているのは、

その気分に「気づいているもの」、

つまり、

われわれ「気づいている現存」だけなのです。

その「気づいている現存」は、

どんな定義も、どんな属性も、

どんな制限ももちえない。

いかなる制限からも自由なのです。

このところルパート・スパイラの渾身の一冊

『プレゼンス―第1巻』を読み続けています。

今回はルパート・スパイラの導きに従って

【存在は永遠であり無限である】ということを

再確認してゆきたいと思います。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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  【存在は永遠であり無限である】
 
 
 私たちの自己、
 気づいている現存には位置や限界はない
 ということを体験的に理解することは、
 特別な知識ではなく、
 それに勉強や訓練は一切必要ありません。
 心(マインド)が知っていたりいなかったりする
 いかなることよりも先に、
 このことは私たちすべてによく知られており、
 明らかで、
 私たちと親密です。
 知性もしくは心(マインド)がどうであろうと、
 老いていようと若かろうと、
 健康であろうと病んでいようと、
 このことはそれらから独立した
 ひとつの体験的な知識です。
 
 実際、
 私たちが何か他のことについて知る前に、
 つまり、
 己がそれ以外の何か、
 たとえば、
 体、心(マインド)、世界などについて
 知るように思われるその前に、
 私たちは私たち自身の存在を知っています。
 心(マインド)がもたらす、
 これに続くいかなる知識も、
 私たちをこの体験的理解に近づけたり
 遠ざけたりすることはできません。
 
 しかしやがて、
 体のレベルにおいて感情を伴って実体化する思考が、
 この体験的理解を覆い隠し、
 時に私たちから奪い去るように見えるのです。
 私たちの多くが思考を重視し、
 それを真実と見なすため、
 私たちの存在を純粋に知ることは
 重要とは見なされなくなってしまうのです。
 
 けれど、
 思考や記憶に頼らずに見てみると、
 私たちの自己には、
 限界も、輪郭も、形も、境界線も、
 サイズも、人種も、年齢も、経歴も、
 未来も、過去も、運命も、体重も、
 国籍も、性別もないのだとわかります。
 思考、感情、イメージ、
 感覚、記憶、知覚といった対象物は
 こうした属性をもつことができます。
 気づいてる現存であるあなたは
 こうした性質に気づいてはいますが、
 それらを保有しているのではありません。
 
 対象物としての性質は、
 あらゆるものに限界を与えますが、
 私たちの自己はそうした性質からは自由で、
 何の制限も受けていません。
 ゆえに、
 私たちの自己は無限であると言えます。
 私たちの文化は
 私たちの真のアイデンティティに関する理解を失い、
 無限とは、
 空間に際限なく広がることだと考えがちです。
 けれど実際のところ、
 無限とは、
 観察し得る有限の性質や規模をもたないということ、
 つまり三次元の世界には属さない
 という意味なのです。
 
 ∞
 
 『プレゼンス―第1巻』(p57-58)
──────────────────

われわれはたいてい

いつも何かかにかの“問題”に対処しているのに

結局はその完全な解決などには至らぬまま

一生をやりすごしてしまうわけです。

そしてそれは“自分”が「誰」なのか、

「何」なのかを勘違いしているからだ、

というのが覚者がたが異口同音に仰ることです。

そしてその証拠は

通常自分だと思われている身体や心、

あるいはそれを取り巻くように思われる世界を

われわれが知るようになるそれ以前に、

すでに「自分」が存在することを知っていることだと。

そしてたとえ考えることでどんな知識を得ようと、

その知識によって

その「自分」がさらに自分自身に近づいたり

遠ざかったりすることはありえないのだと。

そりゃ、当たり前ですよね。

考えることがもたらす知識というのはすべて

もともとその「自分」に対して

起こっているわけですから。

でも、

そういう事実はあまりにも当たり前すぎて、

それが重要なことだとは見えないわけです。

それでわれわれは簡単にその知識を手放してしまう。

そしてその「自分」に対して起こっている

身体や思考、

あるいはそれを取り巻くように見える世界という

対象物のほうが重要だと感じてしまうのです。

そしてやすやすと映し出される世界のなかで

身体や心という対象物の織りなす物語に

巻き込まれてしまうわけです。

でも限界や輪郭、形や境界線、

サイズや、人種や、年齢や、経歴、

未来や、過去や、運命や、体重、国籍、性別といった

限界をもっているのは身体や心であって、

それらの対象物に気づいている

「自己」の限界ではないわけです。

知覚の対象物はそういった表現属性という

限界をもたなければならないけれど、

それに気づいているわれわれ、

「気づいている現存」は、

そういった性質・属性・定義からは完全に自由です。

そうでなければ、

そもそもそれらの表現属性に気づくことができませんから。

その意味では、

われわれという「自己」は

無限であると言えます。

身につけた三次元的常識のために

われわれは無限という言葉を聞くと

空間に際限なく広がることだと考えがちです。

でも、実際は、

無限というのは、

観察可能な性質や規模をもたないということ。

別の言い方をすると、

三次元の世界には属さないということです。

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 同じように、
 私たちの自己がいつもここにあること、
 時間の中にいつもあるのではなく
 永遠の今にあることに気づきましょう。
 思考を参照しなければ、
 私たちが時間を知ることはありません。
 
 時間はふたつの出来事の間の継続期間ですが、
 ふたつの出来事について想像することはできても、
 それらを同時に体験することはできません。
 今日の朝食を食べているなら、
 昨日の朝食を食べてはいません。
 ふたつの出来事を分割する
 二十四時間を生んだのは思考であり、
 体験ではありません。
 
 言い換えるなら、
 思考より先にある
 私たちの存在の親密さにおいては、
 時間は存在しないのです。
 
 無論、
 思考より先に
 私たちの自己があるわけではありません。
 思考がなければ、
 自己が存在しうる時間はそこに存在しません。
 思考があったとしても
 実際には時間は存在しないのですが、
 この場合には少なくとも、
 時間という幻想が存在します。
 
 存在する(exist)とは、
 「…から立ち上がる」という意味です。
 「ex」はラテン語で
 「…から」という意味をもっています。
 対象物が出現するためには
 空間が必要になるのと同じで、
 時間の中に何かが存在するには、
 そこにまず時間がなければなりません。
 
 しかしながら、
 私たちは自己に先立って
 何かを体験することはありません。
 体験するためには何かが存在しなければならず、
 その「何か」はそこにあって
 気づいていなければなりません。
 つまり、
 私たちの自己がそこにいなければならないのです。
 私たちの実際の体験において、
 自己に先立つものは何ひとつありません。
 
 私たちの自己は、
 いつもここにある今であり、
 私たちはこの今の継続を体験してはいません。
 ここにある今は唯一の今です。
 体が誕生した今と、
 この本の文字が見えてる今はまったく同じです。
 真に存在するのは、
 この唯一の今です。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p58-60)
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われわれという「自己」が

観察可能な性質や規模をもたないという意味で、

無限であるのと同じように、

われわれという「自己」は

いつもここにあります。

それは時間のなかで継続的に存在するという意味ではなく、

唯一の実在である「永遠の今」にあるということです。

われわれが思考を参照しなければ、

実際に時間を体験することはありません。

時間というのは

ふたつの出来事の間の継続期間ですが、

われわれはふたつの出来事について

想像することはできても、

それらを同時に体験することはできません。

今日の朝食を食べているなら、

昨日の朝食を食べてはいないわけです。

ふたつの出来事を分割する

二十四時間を生んだのは思考であり、

実際に体験したことなどありません。

つまり、

思考の中で時間を想像することはできても、

思考に先だって現存する「気づき」のなかには

時間は存在しません。

ルパート・スパイラはここで、

【存在する(exist)とは、
 「…から立ち上がる」という意味です。
 「ex」はラテン語で
 「…から」という意味をもっています。】

と説明します。

われわれという「自己」が存在する以前に

何かを体験するということはありません。

体験するためには

何かが存在しなければなりませんが、

その「何か」はそこにあって

気づいていなければなりません。

つまり、

自分が存在することを自ら知っている

「自己」がそこにいなければならない。

そしてわれわれの実際の体験において、

「自己」に先立つものは何もないのです。

われわれの「自己」とは、

いつもここにある今です。

この今が継続するという体験はしていません。

ここにある今は唯一の今です。

身体が誕生した今と、

このテキストが見えてる今はまったく同じです。

真に存在するのは、

この唯一の今だけです。

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 だからこそ、
 私たちの存在は永遠なのです。
 私たちが時間の中に永遠に居続ける
 という意味ではありません。
 私たちは、
 いつもここにある今です。
 私たちの自己が存在する体験において、
 時間は存在していません。
 そこにあるのは、
 この今だけなのです。
 
 自己は、
 特定の時間にあらわれ、
 特定の時間に消えるのではありません。
 何かがあらわれては消えていく
 私たちの実際の体験の中に、
 時間はありません。
 そこにあるのは、
 いつもここにある今であり、
 この今は時間の中の一時(いっとき)ではなく、
 時間を超えた気づき、
 つまり、
 私たちの真の性質なのです。
 
 私たちの文化はこの叡智を失い、
 永遠(eternal)と永続(everlating)とを
 同等と見なします。
 しかし、
 一方は真実であり、
 もう一方は架空であって、
 ふたつはまったく異なります。
 「永続」は時間と関係し、
 どこまでも続くと思われる何かを意味します。
 「永遠」は時間の概念を超え、
 いつもここにある今を意味します。
 ここで触れているのは、
 永続する生ではなく、
 永遠の生なのです。
 
 言葉は客観的性質を表現するためのものであるため、
 言葉によって私たちの自己を
 正確に表現することはできません。
 けれど、
 その言葉が
 私たちの本質の体験的理解に根ざしているのなら、
 言葉は、
 それを指示し、
 呼び起こす力をもち得ます。
 
 最後に、
 すべての言葉を忘れ去り、
 言葉が指し示した体験、
 私たちの本質的な存在の、
 永遠にここにある、
 無限の性質だけをここに残すことにしましょう。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p60-61)
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われわれという存在が永遠だというのは、

われわれが時間の中に永遠に居続ける

という意味ではありません。

それではすでに時間というものが存在していて

われわれはそのなかに

どこまでも継続的に居続けるという意味になる。

そうではなく、

われわれ自身が

いつもここにある今なのです。

われわれという「気づいている現存」のなかに

時間は存在していません。

そこにあるのは、この今だけです。

自己は、特定の時間に現れ、

特定の時間に消えるのではありません。

そこにあるのは、

いつもここにある「現存」であり、

この「今」は時間のなかの一瞬のことではなく、

時間を超えた永遠の気づき、

われわれの真の性質である「現存」です。

永遠(eternal)と永続(everlating)とは

まったく異なります。

「永続」は時間と関係し、

どこまでも続くと思われる何かを意味します。

「永遠」は時間の概念が現れる以前の

いつもここにある今を意味します。

ルパート・スパイラは

三次元の事象の叙述手段である

われわれの言語で

時間の概念が現れる以前の「永遠」を

表現するのは難しいと断った上で、

【すべての言葉を忘れ去り、
 言葉が指し示した体験、
 私たちの本質的な存在の、
 永遠にここにある、
 無限の性質だけをここに残すことにしましょう。】

とわれわれに語りかけます。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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いつの間にか

この『アセ通』も1000号に到達しました。

時間のなかでいくら長く続いても

とくに意味もないでしょうが。(*^_^*)

でも、創刊号を書いていたpariは

いっときの時節でした。

1000号を書いているpariも

同じくいっときの時節です。

それは存在する唯一の<いま>のなかに

現れているわけです。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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