home > 通信 >「学ぶ」こと、「受け容れる」こと:『アセンション館通信』第1002号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/07/02(第1002号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「学ぶ」こと、「受け容れる」こと

2.編集後記
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■1.「学ぶ」こと、「受け容れる」こと
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世の中の動きがあまりにも目まぐるしく

とっても付いてなど行けません。

マインドは対応しようとしますが、

何ができるはずがないんです。

マインド自体が夢の内容なんですから。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

「学ぶ」という表現があります。

つまり、「学ぶ」ことができる当人が

存在しているという立ち場から発せられた表現です。

「受け容れる」という表現があります。

同じく、「受け容れる」当人が存在している

という立ち場から発せられた表現です。

もちろん、

【「学ぶ」ことができる当人など存在しない】

という言い方があるのも知っているので、

言葉としてそう発語することはできます。

けれど、そう言っているのは「誰か?」

という問題は残ります。

【「学ぶ」ことができる当人など存在しない】

と言っているのは「自我」、

つまり「マインド」ではありえません。

あえて言うなら、

それは「真我」に使われた「マインド」

ということになるでしょうか。

だから、「マインド」が

【「学ぶ」ことができる当人など存在しない】

などと言っても、まったく意味がありません。

むしろ、「マインド」にとっては

“「学ぶ」べきことを「学ぶ」こと”のほうが

ずっと意味があるかもしれません。

そのほうが、

【「学ぶ」ことができる当人など存在しない】

などとのたまうことよりは、

一寸なりともマインドの沈黙に近いのかもしれません。

たしかに、

「受け容れる」当人が存在しているというのは

ひとつのレベルにおける紛れもない現実です。

「真我」があらゆる瞬間に

すべての「あらわれ」を無条件に受け容れているのは

紛れもない真実でしょう。

しかし

あらゆる瞬間に湧き上がってくる「マインド」が

すべての「あらわれ」を無条件に受け容れているとは

まず言えないはずです。

ならば、そのマインドが

【「受け容れる」当人など存在しない】と宣うよりは、

むしろ、

あらゆる瞬間にすべての「あらわれ」を

無条件に「受け容れる」ことを「学ぶ」ことのほうが、

「マインド」の沈黙に近いと言えそうです。

「誰が」それを言っているのか?

ということが常にあるわけですから。

「誰が」それを言っているのか?

それを言っているのは常に「マインド」のはずです。

ならば、

「マインド」がそれを言っている瞬間、

その「マインド」は知覚の対象物でしょう。

知覚の対象物であるその「マインド」に、

それを言うことは可能でしょうか?

いいえ、それはただ起こっているだけです。

それは「誰に」起こっているのか?

それは「私」に起こっているのです。

それは「私」に、

あらゆる瞬間にすべてを受け入れている

「真我」に起こっているのです。

「動揺」が起こっているとき、

その「動揺」は知覚の対象物でしょう。

その「動揺」という知覚の対象物は

「誰」に起こっているのか?

それは「私」に起こっているのです。

それは「私」に、

あらゆる瞬間にすべてを受け入れている

「真我」に起こっているのです。

その「動揺」という知覚の対象物を

受け容れている「真我」は、

動揺しているのでしょうか?

むろん、

「動揺」という知覚の対象物を

受け容れている「真我」は動揺していません。

「動揺」という知覚の対象物は

今という一瞬に現れているだけです。

「何」に対して現れているのか?

「私」に対して、

「今という一瞬」に対して、

「真我」に対して現れているのです。

実在するのは「真我」だけです。

実在するのは「永遠の今」だけです。

「動揺」という知覚の対象物は

それを受け容れている「真我」なしには

現れることはできません。

しかし受け容れている「真我」は、

つかの間の現れである知覚の対象物がなくとも

存在しています。

「現れ」という知覚の対象物がなければ

「私」の潜在可能性として存在しています。

その「私」が動揺することはない。

それは永遠の不動だから。

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 24 幸福とは何でしょうか?
 
 幸福とは真我の本性そのものである。
 幸福と真我は別のものではない。
 世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
 
 われわれは無知ゆえに、
 ものごとから幸福を得るものだと思っている。
 心が外へ出ていくと、
 不幸を体験する。
 
 心の願いが満たされたとき、
 実は、心は自己本来の場所に戻っており、
 真我である幸福を楽しむのである。
 
 同じように、
 眠りの状態、サマーディ、失神状態、
 あるいは、
 得たいと願っていたものが得られたり、
 嫌っていたものが消え去ったりしたときには、
 心は内面に向かい、
 純粋な真我‐幸福を楽しむのである。
 
 このように心は休むことなく動きまわり、
 真我からさ迷いでては、
 また戻ってくるということを繰り返している。
 
 木陰は気持ちいいが、
 外では太陽が焼けつくようだ。
 灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が
 木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
 木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、
 それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
 賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
 
 同じように、
 真理を知る人の心は、
 ブラフマンを離れることはない。
 
 その反対に、
 無知な人の心は、
 悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、
 つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
 
 実際には、
 世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
 世界が消え去ったとき、
 つまり想念が存在しないとき、
 心は幸福を体験する。
 世界が現れると、
 不幸を味わうのである。
 
 『あるがままに』(p404-405)
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(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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幸福のなかに安らぎたいのか?

それとも、

不幸のなかで興奮していたいのか?

あるいはそれとも、

軽く繊細な高い波動のなかで

繊細な幸福という興奮を味わっていたいのか?

そういうことなのかもしれません。

『真我の内に退けば、苦悩は終わる』

実際に、他の道はなさそうです。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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