home > 通信 >分離の種(R.S2):『アセンション館通信』第1007号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/8/6(第1007号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.分離の種(R.S2)

2.編集後記
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■1.分離の種(R.S2)
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相変わらず毎日暑いですね。^^;;

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

あなたは、いかがお過ごしですか?

“自分”とは虚構の観念です。

実体はどこにも存在していません。

実際ところ、それは

“自分”を対象物として探そうとする

活動そのものなのです。

そのことを(それこそ知的に)理解しながら、

しかもなお肉体的生存の安寧を

画策しなければならないことに、

本来負う必要もない責任を負おうとする“自分”に

忸怩たる思いを免れ得ない今日このごろです。

なんのこっちゃ。(*^_^*)

さあ、

虚構の“自分”が鎧のように身につけようとする

感情的論理繊維の一本一本を

ルバート・スパイラの言葉に導かれながら

今日もまた解いてゆきたいと思います。

『プレゼンス―第2巻』の後半に

【分離の種】という章があります。

今回はこの章を写経してゆきます。

──────────────────
 
  【分離の種】
 
 
 質問:
 人類全体として集合的に、
 喜び、愛、平安であるとはどういうことでしょう?
 私たちは皆が、
 我々はたったひとつの、
 それ自身を知る現存であると理解することに関して、
 何か説明してもらえますか?
 それから、
 どうしたら人類全体として実際に、
 私たちの自己はひとつであると同ときに無であり、
 多数でもあるということに
 目覚めることができるのでしょうか?
 
 
 喜び、愛、平安の体験とは、
 分離した内側の自己も、
 外側の対象物、他者、世界もないということを、
 体験的に認識することです。
 
 まず、
 二元的な心が、
 気づいている現存のつなぎ目のない親密さを、
 見たところふたつのものに概念的に分割します
 ──
 一方は気づいている部分で、
 それは体の内側にあると考えられており、
 もう一方は存在する部分で、
 外側、
 つまり世界の中にあると考えられています。
 
 このように体験を
 見かけ上ふたつのものに分割すると。
 体の内側にある分離した主体と、
 外側にある分離した客体、
 対象物が実際に存在しているように見えます。
 外側の対象物はのちに、
 人々、自分自身、他者、世界など、
 多様なものに分割されます。
 
 この体験の分割には苦痛がつきものですが、
 体験を分割した二元的な心自身が、
 その苦痛を和らげようとします。
 しかし、
 そうすることによって、
 心自身の幻想と、
 それに伴う苦痛は持続するばかりです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p275-276)
──────────────────

質問自体は、

まあ、どんなふうに表現してみても

同じことだとも言えますよね。

要するに、

われわれはすべて

唯一の実在である現存のなかに現れ、

そして現存がそれに気づいている

現存自体の現れにほかならないということは

理屈としてはわかるのですが、

どうしてその理解が日常生活のなかでの

実感にならないのでしょうか?

喜び、愛、平安が日常的に湧き上がる

感覚にならないのでしょうか?

といったような不全感ではないかと思われます。

ルパート・スパイラの解答も

またいつもと異なりません。

喜び、愛、平安の体験というのは、

分離した内側の自己も存在しなければ、

外側の対象物も他者も世界も存在しないことを、

体験的に認識することだ、と言います。

しかし、

マインドは二元的にしか理解できないため、

現れている唯一の現存を

体の内側にある気づいている部分と

体の外側にある気づかれている対象物に

概念的に分割してしまうのだと。

そしていったん

体験を概念的に分割することが起こると、

体の内側にある分離した主体と、

外側にある分離した対象物が

実際に存在しているように見えてしまうのだと。

そしてその外側の対象物は

やがて人々、自分自身、他者、世界など、

多様なものに分割されることになります。

するとこのような体験は苦痛なものであるため

今度は体験を分割した二元的なマインド自身が、

その苦痛を和らげようとしはじめる。

かくてマインドによる幻想とその苦痛が

いつまでも持続することになるのだと。

──────────────────
 こうした心のやり方は、
 世界のある一定の状況において、
 まったく役に立たないわけではありません。
 ひとたび心が分離への信念から解放されて、
 それに仕えるのをやめれば、
 心は愛と知性のツールとして活用されます。
 
 愛と知性がどのような形で表現されるかは、
 その表現媒体である体と心の
 特質によって大きく異なります。
 
 しかし、
 その特質がどんなものであっても、
 喜び、愛、平安から生じる活動は、
 その源に満たされています。
 そうした活動はその源を伝えるのです。
 その活動がどの程度、
 源を伝えられるかは、
 体や心のパワーや、
 そのとき置かれた状況によって異なります。
 しかし、
 これはあまり重要ではありません。
 
 あるときは、
 源は芸術家の作品の中に
 自らを表現するかもしれません。
 またあるときは、
 社会活動家として、
 あるいは家族の面倒を見る母親や父親として、
 あるいは教師として自らを表現するかもしれません。
 無限と言ってもいいくらい、
 さまざまな方法で源は自らを表現するのです。
 
 しかし、
 喜び、愛、平安は、
 これらすべての活動に先立つものであり、
 活動の結果ではありません。
 もし、
 それらを何らかの計画にしてしまうと、
 未来がつくり出されます。
 そして私たちは、
 何かになるという、
 終わりのないサイクルに従事することになります。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p276-277)
──────────────────

しかし

ただ苦痛を継続させるだけに見えた

こうしたマインドのふるまいも

まったく無用というわけでもなくて、

ひとたびマインドが

分離の信念から解放されて、

分離の幻想のために機能することをやめれば

マインドは愛と知性のツールにもなりうる。

そのときそれがどのような形で表現されるかは、

その表現媒体である体とマインドの

特質によって大きく異なると。

しかしその活動は

それが芸術家の作品として現れようと

社会活動家として現れようと

平凡な母親や父親の配慮として現れようと、

それらはマインド自体から発するのではなく

源が自らを表現しているのだと。

だからそこでも、

もしそれらを何らかの計画にしてしまうと、

そこに未来がつくり出されて、

われわれは、何かになるという、

終わりのないサイクルに巻き込まれてしまうと。

──────────────────
 気づいている現存である真の自己を理解するのは、
 分離した自己でも人類でもありません。
 気づいている現存が、
 見かけ上分離した自己や人類を理解するのです。
 しかし、
 この説明も正確ではありません。
 このように言ってしまうと、
 独立して存在する対象物や自己への信念を
 容認することになります。
 
 気づいている現存はそれ自身だけを理解します。
 分離しているように見える自己と、
 その片割れの分離して見える世界を理解するには、
 まず、
 気づいている現存が
 心という形を取らなければなりません。
 分離しているように見える内側の自己と外側の世界は、
 この心からできています。
 想像の中で、
 体験をふたつの
 見かけ上の物事や実体に分割することで、
 それは生まれました。
 
 つまり、
 心だけが心を理解します。
 見かけ上の自己だけが、
 見かけ上の自己と見かけ上の世界を理解するのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p277-278)
──────────────────

では、

誰が「気づいている現存」という

真の自己を理解するのかと言えば、

それに気づきうるのは

実際には存在してもいない

分離した自己や人類ではありえない。

その逆に

気づいている現存が、

見かけ上分離した自己や人類を理解するのだと。

しかし、

そのような説明もじつは正確ではない。

なぜなら、そう言ってしまうと、

対象物や自己が存在しているという

信念自体の存在を容認していることになる。

ところがもちろん、そのような信念が

実体として存在するわけではないのだから、

実際は

気づいている現存が理解しているのは

(気づいている現存)それ自身だけだ。

分離しているように見える自己とか、

その片割れの分離して見える世界を理解するには、

まず(気づいている)現存が

マインドという形を取らなければならない。

見かけ上分離しているように見える

内側の自己と外側の世界は、

このマインドで構成されている。

内側の自己も外側の世界も

もともとは想像の中で、

体験を見かけ上の物事や架空の実体に

分割することで生まれたもの。

つまりは、マインドの構造物だ。

ということは、

【マインドを理解するものはマインドしかいない】

と言える。

見かけ上の自己だけが、

見かけ上の自己と見かけ上の世界を

理解するのだと言える。

──────────────────
 次に、
 この見かけ上の自己は、
 世界の苦痛を和らげようとします。
 しかし、
 和らげようとしているこの苦痛は、
 自分自身に対する認識によってつくり出され、
 それに内在するものだということに
 気づいていません。
 見かけ上の自己は、
 自らが分離した内側にある実体で、
 外側の世界にいる大勢の中のひとりであると
 思っているのです。
 
 しかし、
 分離した内側の自己は苦しみません。
 それ自体が、
 苦しみという活動なのです。
 
 この分離した内側の自己には
 問題を解決することはできません。
 なぜなら、
 この架空の自己とそれによる計画こそが、
 問題そのものだからです。
 しかし、
 分離した内側の自己が問題となるのは、
 それ自身の架空の視点から見たときだけです。
 
 この分離した内側の自己がなければ、
 救うべき世界や人類、
 他者も、
 通常を考えられているような形では存在しません。
 実際のところ、
 問題も存在しません。
 皮肉なことに、
 これを理解することが真の慈悲と思いやりであり、
 真の意味で世界を救うのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p277-278)
──────────────────

しかも、この見かけ上の自己は、

世界の苦痛を和らげようとする。

しかし、そのとき

和らげようとしているこの苦痛が

マインドの構造物に対する

マインドによる認識によって捏造されたもので、

マインド自体に内在するものだということに

見かけ上の自己は気づいていない。

自らが分離した見かけ上の自己を、

体の内側にある実体と思っており、

外側の世界にいる大勢の中のひとりだと

自覚しているからだ。

その自覚自体は苦しいものだが、

しかし、

分離した内側の自己が苦しんでいるわけではない。

分離した内側の自己などという実体は

もともと存在していないのだから。

つまり

“分離した内側の自己”とは

(起こっている体験を)

苦しむという活動自体のことだ。

つまりは、

この分離した内側の自己が問題を解決する

などということが起こるはずもない。

この架空の自己とそれによる計画こそが、

問題そのものなのだから。

しかしまた、

分離した内側の自己が問題となるのは、

分離した内側の自己という

架空の視点から見たときだけだ。

この分離した内側の自己という

架空の観点以外に

通常を考えられているような形の

実際に救うべき世界や人類や他者が

存在しているわけではない。

実際には、

そもそも問題自体が存在していない。

これを理解することが真の慈悲と思いやりであり、

真の意味で世界を救うのだ、と。

──────────────────
 もちろん、
 このように言われると、
 分離した自己はしばしば気を悪くします。
 なぜなら、
 自らの架空のアイデンティティが
 暴露させつつあるからです。
 このような話を聞くと、
 私たちは落胆や怒りを感じることすらあります。
 
 しかし、
 この落胆は、
 気づいている現存という私たちの真の自己が、
 それ自身に贈るギフトです。
 なぜなら、
 この落胆によって、
 分離の種が明らかになるからです。
 この種が育ち、
 多種多様の苦痛として繁茂するのです。
 
 同様に、
 この分離の種が消えることで、
 多種多様の喜び、愛、平安が開花します。
 ここにおいて、
 個人的なものもそうでないものも含め、
 すべての対立が解消するのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p278-279)
──────────────────

もちろん、

こう指摘されると、

分離した自己は普通はまず気を悪くする。

このような話は

普通はまず分離した自己には聞こえない。

たとえ聞こえても意味はわからない。

もし少しでも意味がわかったら、

われわれは落胆するか

場合によっては怒りさえ感じるかもしれない。

なぜなら、

自らの架空のアイデンティティが

暴露され綻(ほころ)びはじめるからだ。

しかし、

この落胆は、

真の自己である気づいている現存が、

自らに贈るギフトとも言える。

なぜなら、

この落胆によって、

「分離の種」が暴露されるのだから。

さもなければ

ぶ厚い覆いのなかでこの種が育ち、

多種多様の苦痛として繁茂することになる。

逆に、

この「分離の種」が消えることで、

多種多様の喜び、愛、平安が開花する。

そのなかでは、

個人的なものもそうでないものも含めて、

すべての対立が解消する。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

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■ 2.編集後記:
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ラメッシ・バルセカールは

『誰がかまうもんか?!(Who Cares?!)』

のなかでこう言っています。

──────────────────
 人生では、
 決断しないで生きることはできません。
 そして私の答えは、
 まるで自分に自由意志があるかのように
 決断しなさい、というものです。
 すべての結果と選択を考え、
 それから決断に至ってください。
 でも、心の奥深くでは、
 その決断は
 神の意志と異なることはありえない
 とあなたは知っています──
 さもなければ、
 その決断は起こらなかったでしょう。
 もしそれが神の意志でなければ、
 決断は起こりませんし、
 それが神の意志でないかぎり、
 決断が行為になることもありません。
 そして、
 決断は神の意志に従って厳密に結果を生じます。
 まるであなたが自由意志を持っているかのように
 決断するということ以外に、
 どこに「あなた」が
 入ってくる余地があるのでしょうか?
 問題は、
 「自分」に何が起こるのだろう?
 と考えるから起こるのです。
 でも、
 どんな「自分」もいないのです!
 それゆえ奥深いところでは、
 それは「自分」の決断ではなく、
 神の意志であると知って決断してください。
 
 責任とは、
 まるで自由意志があるかのように
 あなたが行為するという事実から、
 生まれます。
 あなたがまるで自由意志があるかのように
 行為することで、
 あなたは結果に対する責任を想定します。
 でも、
 心の深くでは、
 結果がどうであれ、
 それはその肉体精神機構の
 運命なのだと知っています。
 
 私の考えでは、
 責任という問題はないのです。
 しかし、
 世間で生きるのに、
 責任感を無視することはできません。
 それなら、
 どうしたらいいでしょうか?
 あなたがプログラムされているだけ、
 責任を持って行動してください。
 
 『誰がかまうもんか?!』(p286-287)
──────────────────

(-||-)

このラメッシ・バルセカールの言葉に

まったく違和感が起こりません。

これなら“自分”の言葉として言えます。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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