home > 通信 >ラメッシ・バルセカールの探求:『アセンション館通信』第1008号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/8/13(第1008号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.ラメッシ・バルセカールの探求

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1.ラメッシ・バルセカールの探求
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

相変わらず暑い日が続きますね。^^;;

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

あなたはいかがお過ごしですか?

これまでずいぶんいろいろなタイプの

スピリチュアルな表現に触れてきました。

たぶん、

そういうタイプの精神身体機構として

準備されたとでも言うのでしょうか、

わたしは相互に矛盾し合った

いろいろなタイプのスピリチュアルな表現に

それぞれとても感心することができました。

スピリチュアルな思考だけではありません、

陰謀論的な発想や地政学的な発想にも

ずいぶん興味を引かれました。

そしてそのすべてに感心することができました。

そして長い間

それらを統合できる

いわば統合的理解というようなものが

ありうるのかもしれないとも想像してきたものでした。

マインドの愚かさを

かなり究極的な程度にまで演じさせられる

いわばピエロタイプの精神身体機構だったのでしょう。

でも、

さすがにもう限界が近づいているようです。

もはや動揺しないというのではありません。

ただ、何らかのマインドの信念を

排他的に信頼するということは

さすがにもうできそうもありません。

どなたの理解も全体の表現の一部であり

このpariの表現もまたそのなかのひとつ

といった感じです。

最近ふと気になって覗いてみた

ラメッシ・バルセカールの言葉が

この上もなくそのままの意味で入ってきました。

高木悠鼓さんが最初に翻訳紹介された彼の本

『誰がかまうもんか?!』の

「第6章 探究」の最初の部分です。

──────────────────
 
 第6章 探究
 
 
 ラメッシ
 私の考えは次のようなものです。
 赤ん坊が生まれて
 母親の乳房を本能的に探し求めて以来、
 人生とは探求以外の何ものでもありません──
 しかし、
 探求者がいたことは一度もありません。
 どんな種類のことを探求するかは
 プログラミングによりけりで、
 それに対してあなたは
 コントロールすることはできません。
 自分自身を、
 お金を求める人間であると考えている人たちがいます。
 またある人たちは名声を求めます。
 またある人たちは権力を求めます。
 そしてある人たちは、
 とりわけ神を求めます。
 この種の探求、
 それを霊的探求、
 あるいは神を求めること、
 あるいはエゴからの解放とでも言いましょうか
 ──何と呼ぼうが──
 それが、
 ここに座っている肉体精神機構たちに
 起こっていることです。
 なぜなら、
 それらはこの種の探求が起こるように
 プログラミングされているからです。
 
 探求は、
 個人のエゴ
 ──探求者──
 が、悟り、
 すなわち真我の覚醒を
 対象として求めることから始まり、
 その人は、
 自分が物質的世界から得るより大きな喜びが、
 悟りによって得られるだろうと想像します。
 ここが始まりです。
 エゴによる悟りの探求は、
 知的な理解とともにではなく、
 決して探求者、行為者はいなかった──
 何を探求するにしても
 決して探求者はいなかったのだと
 ハートで直感した絶対的理解とともにのみ
 終えることができます。
 探求はありますが、
 個々の探求者はいません。
 行為はありますが、
 それについて個々の行為者はいないのです。
 これでおしまいです!
 そして、
 探求の終焉は、
 探求を始めたパワーによってのみ引き起こされます。
 
 ディネッシュ
 「決して求める人はいなかった」ということは、
 「まやかし」と言えませんか?
 
 ラメッシ
 なぜ「まやかし」という言葉を使うのでしょうか?
 「まやかし」と言うのなら、
 人生や生きていることはまやかしと言えるでしょうが、
 それをラマナ・マハルシは
 もっと上品な言葉で表現しています。
 「創造もなければ、破壊もない」と。
 
 創造はないという意味は、
 「創造」は幻想だということです。
 全創造が幻想です。
 それが、
 あなたがたどり着く究極的な理解です。
 それまでは、
 人生はまさしく現実になります。
 そして、
 もし人生が現実であれば、
 人間も責任を伴ったきわめて現実的なものです。
 でも、間違えないでください。
 人間は単にプログラムされたコンピュータなのです
 ──
 何十億ものユニークにプログラムされた
 コンピューターであり、
 それを通じて源泉は機能しています。
 
 『誰がかまうもんか?!』(p173-174)
──────────────────

> 私の考えは次のようなものです。
> 赤ん坊が生まれて
> 母親の乳房を本能的に探し求めて以来、
> 人生とは探求以外の何ものでもありません──

このことに反対する人(あるいは反対できる人)は

たぶん、いないのではないでしょうか。

> しかし、
> 探求者がいたことは一度もありません。

たしかに、この言葉は、

はじめて聞いたとすれば、

おそらく唐突で違和感のある表現でしょう。

しかし、

次の説明を聞けば、

その違和感は氷解するかもしれません。

> どんな種類のことを探求するかは
> プログラミングによりけりで、
> それに対してあなたは
> コントロールすることはできません。

少なくともこの地球世界で生きてきた者として、

わたしがこのような人間であることを

“自分で”選んだことなど

けっしてなかったと断言できます。

わたしが選んで、

その上でそのことを忘れるという条件を受け入れて

この地球の磁場のなかに入ってきたのだという

(たとえば、ミナミAアシュタールなどの)

話を聞いたことはありますが。

> 自分自身を、
> お金を求める人間であると考えている人たちがいます。
> またある人たちは名声を求めます。
> またある人たちは権力を求めます。
> そしてある人たちは、
> とりわけ神を求めます。
> この種の探求、
> それを霊的探求、
> あるいは神を求めること、
> あるいはエゴからの解放とでも言いましょうか
> ──何と呼ぼうが──
> それが、
> ここに座っている肉体精神機構たちに
> 起こっていることです。
> なぜなら、
> それらはこの種の探求が起こるように
> プログラミングされているからです。

もし自らの記憶に基づいて

自分が自分でこのような人格を選んできたと

断言できないのであれば、

自分の人格はその展開の潜在可能性も含めて

あらかじめ付与された人格だったことを

認めなければならないでしょう。

わたしという精神身体機構は

そのようにプログラミングされている

と言ってもいいのではないでしょうか。

> 探求は、
> 個人のエゴ
> ──探求者──
> が、悟り、
> すなわち真我の覚醒を
> 対象として求めることから始まり、
> その人は、
> 自分が物質的世界から得るより大きな喜びが、
> 悟りによって得られるだろうと想像します。
> ここが始まりです。

まさにpariの探求は

「真我の覚醒を対象として求めること」

として始まったのでした。

> エゴによる悟りの探求は、
> 知的な理解とともにではなく、
> 決して探求者、行為者はいなかった──
> 何を探求するにしても
> 決して探求者はいなかったのだと
> ハートで直感した絶対的理解とともにのみ
> 終えることができます。

このことをpariという精神身体機構が

何度聞かされようとも、

いかに知的に理解しようとも、

そのことで何かを求めることが終わるわけではない。

そのことはpariという精神身体機構が

コントロールできることではないからです。

pariにそれが理解できないとは思えないのに、

でも足掻くことが終わっていません。

pariは自らに何の責任もないことに、

自ら進んで責任を取ろうとすることを

自らの意志でやめることもできないわけです。

> 探求はありますが、
> 個々の探求者はいません。

このpariの精神身体機構を通じて

何かを求めるということは起こっている。

しかしそれは

このpariの精神身体機構が

主体として選択している行為ではない。

もしpariの精神身体機構が

主体として選択している行為であるなら、

pariの精神身体機構は

主体としてその探求を終わらせることも

できるはずですから。

しかし、幻想が現実と感じられているうちは

それは可能ではないわけです。

> 行為はありますが、
> それについて個々の行為者はいないのです。
> これでおしまいです!

もしそれが現実として起こるなら、

もちろん、それでおしまいです。

しかし……実際は

> そして、
> 探求の終焉は、
> 探求を始めたパワーによってのみ引き起こされます。

探求の終焉は、

探求を始めたパワーによって引き起こされないかぎり、

起こりえないのです。

> ディネッシュ
> 「決して求める人はいなかった」ということは、
> 「まやかし」と言えませんか?

うむ。

> ラメッシ
> なぜ「まやかし」という言葉を使うのでしょうか?
> 「まやかし」と言うのなら、
> 人生や生きていることはまやかしと言えるでしょうが、
> それをラマナ・マハルシは
> もっと上品な言葉で表現しています。
> 「創造もなければ、破壊もない」と。

「創造もなければ、破壊もない」とは、

そういう意味だったわけです。

> 創造はないという意味は、
> 「創造」は幻想だということです。
> 全創造が幻想です。
> それが、
> あなたがたどり着く究極的な理解です。

われわれは毎朝

個人的な夢から目覚めます。

そして“個人的な夢”から目覚めたとたん、

その“個人的な夢”の世界が

どこにも存在していなかったことは自明になります。

そのことに議論の余地はまったくありません。

夢から覚めたら、

その夢の世界がどこにも存在していないことは

自明です。

その“個人的な夢”の世界は

その“個人的な夢”のなかにいるときにこそ

たしかに現実として存在していたけれど、

そこから目覚めてみれば

その世界がどこにも存在していないことは

あまりにも明らかなのです。

pariが観ていた“個人的な夢”の世界は

pariという人格が夢想していた想像の世界でした。

そしてその夢想の世界から覚めると

pariは今度は宇宙的集合意識とも言える

源泉が観ている夢の登場人物になっているのです。

それがレオ・ハートンが言うところの

『夢へと目覚める』ということでしょう。

その宇宙的な夢のなかの登場人物であるpariが

目覚める可能性はありません。

その宇宙的な夢から目覚めることができるのは

その宇宙的な夢を見ている者

つまりは宇宙的集合意識とも言える源泉でしょう。

源泉が夢を見るのをやめたとき、

その夢を観ていない源泉を

「真我」と呼ぶのかもしれません。

しかし、その源泉

あるいはミナミAアシュタールが言う

「絶対無限の存在」が見る夢のなかに

pariが存在するかぎり、

夢見られたpariが勝手に消えることはできません。

宇宙的集合意識によって夢見られているあいだ

pariにとってその世界は現実です。

> それまでは、
> 人生はまさしく現実になります。
> そして、
> もし人生が現実であれば、
> 人間も責任を伴ったきわめて現実的なものです。

その現実のなかでは

pariはまさに夢見られたように

その世界のなかの現実を責任をもって、

あるいは(夢見られたように)無責任に、

生きなければならないのです。

> でも、間違えないでください。
> 人間は単にプログラムされたコンピュータなのです

そう、

pariとして夢見られた登場人物は

pariという人格を生きるしかありません。

> ──
> 何十億ものユニークにプログラムされた
> コンピューターであり、
> それを通じて源泉は機能しています。

源泉がそのように夢見ているのですから。

──────────────────
 
       ◇ ◇ ◇ 
 
 ラメッシ
 探求は起こります。
 「あなた」が、
 探求を始めたのではありません。
 だから、
 ラマナ・マハルシは次のように言ったのです。
 「あなたの頭はすでにトラの口の中にある」と。
 あなたが頭を
 トラの口の中に入れたのではありません。
 探求が始まったのは、
 それが神の意志というか、
 源泉の意志であったからであり、
 探求は、
 肉体精神機構を通じて起こるのです。
 そして、
 その探求がどう進行するかは、
 あなたの手中にはありません。
 それは、
 探求を始めたパワーの手の中にあります。
 ですから、
 神の仕事は神にまかせておきなさい。
 
       ◇ ◇ ◇ 
 
 『誰がかまうもんか?!』(p175)
──────────────────

> 探求は起こります。
> 「あなた」が、
> 探求を始めたのではありません。

そしてまた、

夢のなかではそれは必ず

あたかも登場人物が“自分”で探求を始めたかのように

想像しながら始まるしかないのです。

> だから、
> ラマナ・マハルシは次のように言ったのです。
> 「あなたの頭はすでにトラの口の中にある」と。

ラマナ・マハルシにとっては

夢の世界が存在しないことは自明なので、

夢の登場人物が存在しないことも自明です。

そして夢のなかで探求を始めた登場人物が

すでに夢のなかで消滅に向かい始めていることも

自明なのでしょう。

> あなたが頭を
> トラの口の中に入れたのではありません。

夢見られた登場人物に

いかなる自由も存在しないことは明らかです。

これはこの地球上のアドヴァイタの霊統における

きまった語法です。

(外宇宙のエンティティたちが

 また別の語法を使うことも確かなようですが。)

> 探求が始まったのは、
> それが神の意志というか、
> 源泉の意志であったからであり、
> 探求は、
> 肉体精神機構を通じて起こるのです。

源泉はそのように

夢の中の登場人物に代行させることで

自らの探求を実現しているのでしょう。

> そして、
> その探求がどう進行するかは、
> あなたの手中にはありません。

だからいかなる意味でも

夢見られた登場人物には

自分の探求の進行をコントロールする自由などありません。

> それは、
> 探求を始めたパワーの手の中にあります。
> ですから、
> 神の仕事は神にまかせておきなさい。

もしも、あなたが

それができる精神身体機構として誕生しているなら。

それができるかどうかもまた、

あなたの手中にはありません。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………

▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


  ………○…………○…………○………

キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

  ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ラメッシ・バルセカールは

『誰がかまうもんか?!(Who Cares?!)』

のなかでこう言っています。

──────────────────
 人生では、
 決断しないで生きることはできません。
 そして私の答えは、
 まるで自分に自由意志があるかのように
 決断しなさい、というものです。
 ……
 
 私の考えでは、
 責任という問題はないのです。
 しかし、
 世間で生きるのに、
 責任感を無視することはできません。
 それなら、
 どうしたらいいでしょうか?
 あなたがプログラムされているだけ、
 責任を持って行動してください。
 
 『誰がかまうもんか?!』(p286-287)
──────────────────

虚構の自我に

これ以外の生き方ができるでしょうか。

無意識であれ、自覚的であれ

これ以外の生き方など

できるはずもないのです。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2023 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡