home > 通信 >「束縛」も「解放」も架空:『アセンション館通信』第1014号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/9/24(第1014号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「束縛」も「解放」も架空

2.編集後記
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■1.「束縛」も「解放」も架空
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これを書いている今日が今年の秋分です。

すべては夢のなかにある。

あるいはすべては意識のなかに、

すべては意識の観念化のなかにある。

そのすべての背景に

それを可能にしている実在が在る。

それだけは確かです。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

あなたはどう過ごされていますか?

今日の朝方……

トイレに起きたのは暗いなかでしたが、

そのままベッドのなかで本を読んでいました。

今朝読んだのは昨夜の気分で

ラメッシ・バルセカールが書いた

『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』

でした。

最後のあたりを読んだのですが、

これが良かった。

そのまま素直に入ってくる感じでした。

とはいっても、

マインドが理解しているわけだから、

「聖なる催眠」のタガが外れたわけでもありませんが。

でも、疑問というのもありません。

書かれていることはすべて自明でした。

たとえば、こんな感じです。

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 生まれ変わりの問題
 
 
 マハラジは生まれ変わりや
 輪廻転生の概念を完全に拒否します。
 そういった拒否の根拠は非常に単純で、
 私たちのプライドを打ちくだきます。
 生まれ変わるとされている実体は
 単なる観念以外としては存在しないのです!
 どうして
 観念が生まれ変わることができるでしょうか?
 
 マハラジは生まれ変わりの提唱者に、
 まったく無心にこう尋ねます。
 「生まれ変わるのは誰なのか?
  どうか教えて欲しい」
 肉体は「死に」、
 その死のあと、
 完全に破壊されます──
 できるだけ早く埋葬されるか、
 火葬されます。
 言い換えるなら、
 肉体は修復できないほど、
 取り戻せないほど、
 変更不可能なほど破壊されます。
 それゆえ、
 一個の対象的物であったその肉体は
 生まれ変わることはできません。
 では、
 生命力(呼吸)のような、
 物体でない何かが
 生まれ変わることができるのでしょうか?
 それは肉体の死に際して、
 外側の空気というか意識と融合し、
 その意識は非個人的意識と融合します。
 
 マハラジは言います。
 「おそらくあなたは、
  関係する実体が生まれ変わると言うだろうが、
  それはまったく滑稽な話だ。
  『実体』は観念、幻影にすぎず、
  それは意識が自分自身を特定の形態と
  間違って一体化した時に起こることを、
  あなたは実際知っている」
 
 では、
 どのようにして
 生まれ変わりの概念が生じたのでしょうか?
 それはおそらく、
 現象世界の条件を超えて考えられるほどの知性がない
 より単純な人々を満足させるために、
 
 うまく説明できる受容可能な
 ある種の理論として考えられたのでしょう。

 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p330-331)
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たとえば、

ミナミAアシュタールのような宇宙存在は

われわれスピリットは

絶対無限の存在の夢のなかにいる個性だ

という言い方をします。

そして一つの世界の体験を終えると

いわば風呂場の脱衣場のようなところで

そのボディで体験したすべての体験情報を脱いで

それを全宇宙情報の記憶庫に捧げ

自らはただの素のスピリットとして

ワンネスの風呂に入って個性を失うのだと。

しかし、同時に

次の体験に向かってワンネスから出てくるときは、

あたかも以前の自分と同一人物が出てくる

かのような言い方もします。

しかし、それはないでしょうね。

すべての体験を脱衣場に脱いで

ワンネスの風呂に融合したのなら、

もう入ったその当人というのは存在しません。

次の体験に向けてワンネスのプールから出てくるのは

どんなナンバリングももたない

また新たなスピリットであるに違いない。

転生もなければ、

次の生涯もないわけです。

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 偽実体
 
 しかしながら、
 偽実体ないしエゴ
 (エゴは、想定されている束縛の原因であり、
  対象であるとされている)が
 どうやって生じるかを明確に見るためには、
 現象の観念的プロセスを理解する必要があります。
 私たちの本質は非現象的、絶対的には
 わずかな対象性の兆しもないユニシティ
 ──絶対──主体性です。
 私たちであるところのこれが
 自分自身を顕現することができる唯一の方法は
 二元性を通じてであり、
 その始まりは意識の疼(うず)き、
「私は在る」という感覚です。
 そのときまではまったくなかったこの現象化
 ──対象化のプロセスは、
 認識する主体と認識される対象物
 ──知覚するものと知覚されるもの──
 という分裂を巻き込むのです。
 
 非現象──純粋な主体性──は
 常に唯一の主体のままです。
 それゆえ、
 想定されている知覚者と
 想定されている知覚される物は
 両方とも意識の中の対象物です。
 これがマインドに留めて置かれるべき
 重要な要素です。
 このプロセスが起こりうるのはただ
 意識の中だけです。
 私たちの感覚が認識し、
 私たちのマインドが解釈するあらゆる想像可能なもの
 ──あらゆる種類の現象──
 は私たちの意識の中の見かけです。
 私たち一人ひとりは一つの対象物、
 他の誰かの意識の中の見かけとしてのみ
 実存しているのです。
 知覚するものと知覚される物は
 ともに意識の中の対象物ですが
 (これは偽実体に関して重要なポイントです)、
 対象物を知覚する者は、
 自分自身を自分の外側の世界の中にある
 他の対象物を自覚する主体であると想定するのです。
 そしてこの知覚する主体がその偽主体性を
 意識的行為のパワーをもつ(!)
 独立し自立した実体、
 一つの「自己」として見なすのです。
 
 二元性の原理は
 「私は在る」という感覚から始まり、
 それに現象的顕現全体はもとづいています。
 そして偽実体が偽主体としての役割の中で
 相互依存する正反対の対応物
 (善と悪、純粋と不純、徳と罪、存在と不在、
  大きいと小さいなどといったようなもの)
 を比較することで推論のプロセスを始めるときに、
 二元性の原理がさらに一歩進みます。
 この比較のあとで、
 今度はそれらの間の区別が起きます。
 これが観念化のプロセスを構成します。
 
 主体と対象物というこの分裂とは別に、
 現象的顕現のプロセスは
 空間と時間という基本的観念にもとづいています。
 空間という観念がなければ、
 どんな対象物もその三次元の体積をもって
 目に見えるようにならないことでしょう。
 同様に、
 関連する時間という観念がなければ、
 対象物を認識可能にするための
 必要な時間経過がないので、
 どんな三次元対象物も
 認識されないことでしょうし、
 どんな運動も測られることはないでしょう。
 それゆえ、
 現象的顕現の過程は
 観念的空間−時間の中で起こり、
 その中で対象物は観念化のプロセスを通じて、
 意識によって認識され知覚される、
 意識の中の見かけとなるのです。
 そのプロセスの基本とは、
 認識する偽主体と認識される対象物に
 分裂することです。
 現象化のプロセスにおいて
 知覚者要素との一体化の結果、
 個人的行為の選択をもった
 偽人格という観念が生じるのです。
 これが架空の「束縛」の全土台です。
 
 マハラジは言います
 ──現象的顕現のプロセス全体を、
 断片的ではなく、
 直感的認識の一瞥で理解しなさい。
 絶対、非現象は
 私たちの本質の顕現していない面であり、
 現象は私たちの本質が顕現した面である。
 しかしそれらは異なってはいない。
 大雑把な比喩で言えば、
 それらは本体とその影のようなものだが、
 ただ比喩と現実が違う点は、
 現実では
 現象世界が形のない顕現されていないものの
 陰であるというところだ。
 絶対的非現象は永遠で、
 空間がなく、
 感覚にとって認識不可能である。
 その一方、
 現象は限界のある形態をもち、
 時間に束縛され、
 感覚によっとって認識不可能である。
 非現象が私たちの本質であり、
 現象は意識の中で私たちが
 分離した対象物としてそう見えるものである。
 私たちの本質である
 ユニシティ(ないし主体)を、
 私たちがそう見える
 二元性の分離(ないし対象物)と
 一体化することが「束縛」を構成し、
 (この一体化の)解体が「解放」を構成する。
 しかし、
 「束縛」も「解放」も両方とも架空である。
 なぜなら、
 束縛され解放を欲しがっている
 そんな実体は何もないからだ。
 実体は、
 意識が意識の中の単なる見かけである
 見た目の対象物と、
 一体化することから生じる観念にすぎない!
 
 『ニサルガダッタ・マハラジが
  指し示したもの』(p331-333)
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> 私たちの本質は非現象的、絶対的には
> わずかな対象性の兆しもないユニシティ
> ──絶対──主体性です。

われわれの本質は

絶対の主体性、

自らの存在を知らない「気づき」です。

しかし、

それが自らを顕現しようとしたら

二元性の原理を媒介にするしかない。

認識する主体と認識される対象物という分裂を

巻き込むしかないわけです。

しかしそのとき、

想定されている“知覚者”と

想定されている“知覚される物”は

両方とも意識のなかの対象物でしかありえない。

しかし実際は、

「気づき」のなかに見かけとして現れた

この対象物を知覚する者もまた

見かけのなかの対象物である他者にとっての

対象物でしかありません。

これはいわゆる人生体験を創造するための

不可避の仕組みと言えるでしょう。

にもかかわらず、

われわれ見かけのなかの“知覚者”は、

自分自身を一種の主体であるかのように

想定してしまうわけです。

これがラメッシ・バルセカールによって

「聖なる催眠」と言われたものです。

現象化のプロセスで半ば強制的に

知覚者要素との一体化が起こってしまうのです。

そして知覚のための意識的時空間を展開し

そのなかで偽主体の物語を紡ぐことによって

さらなる観念化を進めることになります。

その物語のなかでは

偽の主体性は個人的行為という選択権をもった

偽人格という観念として結晶化するわけです。

これが架空の「束縛」の全土台です。

実在する絶対の主体性である「気づき」は、

けっして対象物にはなりえません。

しかし自らを顕現するためには

その顕現を認知(知覚)するという手段を

採らざるをえないわけです。

するとその知覚過程で起こる幻術によって

見かけ上の主体という対象物が

あたかも実体として存在するかのような誤解が生まれ

その見かけ上の主体に一体化したとたんに

われわれは顕現のなかに

見かけ上「束縛」されるしかなくなる。

この見かけとの一体化が解除されることが

「束縛」からの「解放」と言われるわけです。

実際は、

「束縛」も「解放」も両方とも架空のものです。

なぜなら、

束縛されて解放を欲しがっているそんな実体が

実際に存在してなどいないのですから。

われわれが想像している“自分”は、

見た目の対象物と一体化することから生じる

ただの観念にすぎないのです。

見かけとは違って

見かけ上の主体にいかなる選択もありえません。

すべての選択は夢のなかの必然、

起こっている観念化のなかでの必然です。

しかし、その観念化がやめば、

そこには誰もいない。

あるいは「それ」だけが在るのです。

それを「神」と呼ぼうと、

「私」と呼ぼうと、

あるいは「愛」と呼ぼうと、

「それ」の知るところではありません。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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努力が起こるときは起こるでしょう。

欲望が起こるときは起こるでしょう。

それが起こるべき状況なら。

欲望しようにも

あまりうまく欲望できないということも

それが起こるべき状況なら

起こるのでしょう。

なんというのか……。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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