home > 通信 >生からは何も得られない(J.J.マシューズ):『アセンション館通信』第1022号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/11/19(第1022号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.生からは何も得られない(J.J.マシューズ)

2.編集後記
──────────────────

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■1.生からは何も得られない(J.J.マシューズ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

急に寒くなって

相変わらず我が家のニケが

しきりに膝の上に乗ってきたがります。

猫は現金だから。

いや、正直だから。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

あなたはいかがお過ごしですか?

ヒロさんが翻訳されたジェニファー・マシューズの

『ただそのままでいるための超簡約指南』

すばらしいです。

今回は『ただそのままでいるための超簡約指南』のなかの

「平凡さの陰謀」という章の

最後の部分をご紹介します。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

この本、ぜひ買われるといいです。

もしあなたがKindle Unlimited の会員なら、

Kindle版を無料で読むことができます。

──────────────────
 
 5.今この瞬間の経験しか存在していないということを、
   哲学的に理解することができる。
 
 問 「明知を得た人たち」に
   心の平安をもたらしているのは何ですか?
   
 答 心の平安をもたらすものは何もありません。
   特定の精神状態を求めることそれ自体が、
   不満に拍車をかけているんです。
   「明知を得た人たち」が
   やすらぎと喜びを経験しているのは、
   もともと心を乱すものである幻想を
   捨て去ることを厭わなかったからです。
 
 「明知を得た人たち」がやすらかで
 開かれた気づきの感覚を経験しているのは、
 それと引き換えに彼らが何かを手放したからだ。
 そういう人たちが放棄したのは、
 移ろいやすくてひどく手のかかる
 自分という感覚を強めたときに一時的に得られる快感だ。
 彼らがやすらぎを経験しているのは、
 もともと心を乱す性質がある幻想、
 つまり「悟り」や「成就」を
 手にしなくてはならない自分が
 存在しているという幻想を進んで捨てたからだ。
 この幻想から、
 自分の現状を変えたいという、
 おなじみの強迫観念が生まれる。
 
 欲求と自分を同一視しているために、
 欲求を追いかける力、
 欲求を満たす力こそが自由なのだと
 わたしたちは考える。
 ところが、
 そうすると欲求にがんじがらめになってしまう。
 例として、
 服役していた人を考えてみよう。
 刑期が終わって看守が刑務所の門を開き、
 釈放された人は
 自由に欲求を追いかけられるようになる。
 ただし欲求について言えば、
 この人はかならずしも自由ではない。
 自由に欲求を追いかける権利は手にしても、
 それを追求するかどうかを決められるほど
 自由ではないかもしれない。
 
 生の神秘に気づきたければ、
 今の状況にないものは必要ないんだと理解すること、
 そしてそれによって
 自分の欲求の強迫衝動をかわすことが最も大切になる。
 実現すべき、
 今より素晴らしい感覚も境地も状態もありはしない。
 制限の多い少ないにかかわらず、
 そこから解き放たれなければならないような感覚も、
 境地も、状態もない。
 これがそれだ。
 このせつなさは、
 いつだってここにある。
 それを経験する許可、
 まさに今いる場所でそれと共にある許可を
 自分に出せばいい。
 このせつなさに自分を差し出す許可も。
 生の神秘に自分を差し出すこと、
 それが自由だ。
 
 
         *  *
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p27-29)
──────────────────

> 5.今この瞬間の経験しか存在していないということを、
>   哲学的に理解することができる。

これ、考えることしかできないタイプのマインド、

言い換えれば「哲学頭」のマインドにとっては

とっても強烈なことですよ。

なにしろ、

【今この瞬間の経験しか存在していないということを、
            ・・・
 哲学的に理解することができる。】

と、保証してくれているわけですから。

> 問 「明知を得た人たち」に
>   心の平安をもたらしているのは何ですか?
>   
> 答 心の平安をもたらすものは何もありません。

まず、心の平安をもたらす

「明知」と言われるような何かがあって

それを手に入れたら心の平安がもたらされる、

というわけではないことが最初に確認されます。

>   特定の精神状態を求めることそれ自体が、
>   不満に拍車をかけているんです。

安らがないという問題を引き起こしているのは、

ただ【特定の精神状態を求める】という

そのことが起こっているからにすぎない、と。

>   「明知を得た人たち」が
>   やすらぎと喜びを経験しているのは、
>   もともと心を乱すものである幻想を
>   捨て去ることを厭わなかったからです。

いわゆる覚者と言われるような人々が

やすらぎと喜びを経験しているのは、

自ら納得して「ある幻想」を捨て去ったからだと。

> 「明知を得た人たち」がやすらかで
> 開かれた気づきの感覚を経験しているのは、
> それと引き換えに彼らが何かを手放したからだ。

いわゆる覚者と言われるような人々は

まったく何の代償もなく安らぎを得たわけではなく、

それと引き換えに手放したものがあるからだ。

いったい何を手放したのか?

> そういう人たちが放棄したのは、
> 移ろいやすくてひどく手のかかる
> 自分という感覚を強めたときに一時的に得られる快感だ。

その人たちは安らぎと開かれた気づきと引き換えに、

【自分という感覚を強めたときに一時的に得られる快感】を

感じる習慣を諦めた。

> 彼らがやすらぎを経験しているのは、
> もともと心を乱す性質がある幻想、
> つまり「悟り」や「成就」を
> 手にしなくてはならない自分が
> 存在しているという幻想を進んで捨てたからだ。

彼らは「悟り」や「成就」を達成しなければならない

自分が存在しているという幻想を捨てた。

そしてそれが幻想であることは

哲学的に理解可能なことなのだ、と。

> この幻想から、
> 自分の現状を変えたいという、
> おなじみの強迫観念が生まれる。

この「悟り」や「成就」を達成すれば、

「自分」は安らぐことができるという観念は、

安らぐ「自分」という実体が存在する

という幻想であるため、

実際は、そのような観念のせいで

自分の現状を変えたいという、

おなじみの強迫観念が生まれてきている。

> 欲求と自分を同一視しているために、
> 欲求を追いかける力、
> 欲求を満たす力こそが自由なのだと
> わたしたちは考える。

そのような観念は

欲求と自分を同一視しているために、

欲求を追いかける力、

欲求を満たす力こそが自由なのだと考える。

> ところが、
> そうすると欲求にがんじがらめになってしまう。

ところがそのような観念によっては

欲求が解体することはありえない。

ぎゃくにそのような想像上の自分は

欲求を追いかけることの虜になってしまう。

> 例として、
> 服役していた人を考えてみよう。
> 刑期が終わって看守が刑務所の門を開き、
> 釈放された人は
> 自由に欲求を追いかけられるようになる。
> ただし欲求について言えば、
> この人はかならずしも自由ではない。
> 自由に欲求を追いかける権利は手にしても、
> それを追求するかどうかを決められるほど
> 自由ではないかもしれない。

たとえば、

服役していた囚人の場合を考えると、

刑期を終えて釈放されたた彼は

ついに求めていた自由を達成したはずだけれど、

ではそれで安らぐのかと言えば

彼が自動的に欲求から解放されるわけではないのは

少し想像すれば理解できるだろう。。

> 生の神秘に気づきたければ、
> 今の状況にないものは必要ないんだと理解すること、
> そしてそれによって
> 自分の欲求の強迫衝動をかわすことが最も大切になる。

欲求を追求する自由を手にしただけでは、

生にやすらいで開かれた気づきであることはできない。

生の神秘に気づいてやすらぐには、

今の状況にないものは必要ないんだと理解する必要がある。

その理解があれば

欲求の強迫衝動をかわすことでき、

今の瞬間にくつろいで、

ただ開いた気づきであることができる。

> 実現すべき、
> 今より素晴らしい感覚も境地も状態もありはしない。

今あるものがあるだけ。

それを別のものにする必要などまったくない。

> 制限の多い少ないにかかわらず、
> そこから解き放たれなければならないような感覚も、
> 境地も、状態もない。
> これがそれだ。

いまある、これがそれだ。

ここから解放される必要があるような

誰も存在していない。

> このせつなさは、
> いつだってここにある。

この今という瞬間のせつなさは

いつだってここにある。

> それを経験する許可、
> まさに今いる場所でそれと共にある許可を
> 自分に出せばいい。

愚かであろうが賢かろうが、

いまある瞬間はこれだ。

これを改善する余地などまったく存在しない。

ただそれを経験する許可を自分に出せばいいだけ。

> このせつなさに自分を差し出す許可も。
> 生の神秘に自分を差し出すこと、
> それが自由だ。

生の神秘に自分のこの瞬間を差し出すこと、

それが自由だ。

(-||-)

──────────────────
 わかった?
 よくわからない?
 じゃあ、
 この重要な考えをもうちょっと詳しく見てみよう。
 何かを心から望んでいると、
 望むのがすごく得意になることがある。
 そうなると、
 望むものが手に入ってからも
 望み続けていればいいじゃないか、となる。
 望んだ状況がようやく実現したのに、
 望むという習慣はそのまま残る。
 つまり実現はいつでも一足遅い。
 生と出会う約束をしようとすると、
 いつだって間に合わない。
 
 疎外欲求は、
 生の神秘と触れている感覚を曇らせかねない。
 たとえば、
 「完璧」なパートナーと新たにつきあい始めたとしよう。
 喜びで舞い上がるはずだ。
 喜びで舞い上がるのは、
 それがわたしたち本来の性質だから。
 白日夢に煩わされるのに忙しすぎて、
 ちょっとのあいだ喜びが見えなくなっていただけだ。
 心の奥底からの喜びを経験するには、
 それをただ自分に許可するだけでいい。
 でもそうはせずに、
 わたしたちは外側に完璧な状況を探し求める。
 その探すという行為そのものが
 人を幸せから遠ざけてしまう。
 
 欲求に突き動かされている人のことを考えてみよう。
 求めていたものが手に入ったとき、
 こんどはそれを永遠に握りしめていたくなっている。
 永遠に自分のものにできたのにまだ満たされないと、
 かつては強烈に欲しがっていたはずのまさにその人、
 その地位、その成果を無視するようになり、
 気にもかけなくなる。
 手が空いていない状態になってしまう。
 
 わたしたちは
 自分が生みだした不満の感覚から逃れたいばかりに、
 満たされない感覚の跡をたどって、
 こうあるべきだと思い込んでいるあり方に
 ものごとを変えようとする。
 でもじつは、
 不満そのものの神秘を経験して、
 不満と親密になり、
 あえて不満から離れないでいることもできる。
 だけどわたしたちはそれがあまり得意じゃない。
 そうするかわりに、
 まるでハーメルンの笛吹きの物語のように
 不満の感覚のあとをついていく。
 そして、
 欲しがっているものを与えてやれば
 不満は消えるはずだという偽りの約束に、
 まんまと騙されてしまう。
 
 怒りを例にとってみよう。
 怒りは人を活気づける反応だ。
 その意味では、
 怒りは人類を絶滅から救ってきたかもしれない。
 ばかにできない手柄だ。
 ただし、
 怒りが約束してくれているように見えることの中に、
 実際にはそうではないことがひとつある。
 怒りの衝動を満たしても、
 その衝動は消えないのだ。
 それどころか怒りを頻繁に発散していると、
 むしろ怒りにしがみつくようになってしまう。
 怒りの爆発や、
 怒りの経験そのものの中毒になることだってある。
 怒りはどちらかと言えば単純な例だが、
 スピリチュアルな衝動になるとはるかに複雑だ。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p29-31)
──────────────────

> わかった?
> よくわからない?

ふふ。(*^_^*)

> じゃあ、
> この重要な考えをもうちょっと詳しく見てみよう。

(^人^)

> 何かを心から望んでいると、
> 望むのがすごく得意になることがある。

たしかに。

> そうなると、
> 望むものが手に入ってからも
> 望み続けていればいいじゃないか、となる。

あーあ。

> 望んだ状況がようやく実現したのに、
> 望むという習慣はそのまま残る。

まさに。

アルアルですね。

> つまり実現はいつでも一足遅い。

いつまでたっても、

望みは実現しないというわけですね。

> 生と出会う約束をしようとすると、
> いつだって間に合わない。

要は、そういうことだったんだ。(-_-;)

> 疎外欲求は、
> 生の神秘と触れている感覚を曇らせかねない。

そういうマインドの癖を、

「疎外欲求」と名付けたわけですね。

> たとえば、
> 「完璧」なパートナーと新たにつきあい始めたとしよう。
> 喜びで舞い上がるはずだ。
> 喜びで舞い上がるのは、
> それがわたしたち本来の性質だから。

たしかに。

> 白日夢に煩わされるのに忙しすぎて、
> ちょっとのあいだ喜びが見えなくなっていただけだ。

一生、そういうことをやっているわけだ。

> 心の奥底からの喜びを経験するには、
> それをただ自分に許可するだけでいい。

そうか。

> でもそうはせずに、
> わたしたちは外側に完璧な状況を探し求める。

バカだねぇ。

> その探すという行為そのものが
> 人を幸せから遠ざけてしまう。

(;_;)

> 欲求に突き動かされている人のことを考えてみよう。
> 求めていたものが手に入ったとき、
> こんどはそれを永遠に握りしめていたくなっている。

覚者と言われる人たちは、

みんなそれを永遠に握りしめているのか……、

なんて想像したりして。(^_-)

> 永遠に自分のものにできたのにまだ満たされないと、
> かつては強烈に欲しがっていたはずのまさにその人、
> その地位、その成果を無視するようになり、
> 気にもかけなくなる。

あーあ。

そういう状況もありうるわけだ。

> 手が空いていない状態になってしまう。

まったく。

> わたしたちは
> 自分が生みだした不満の感覚から逃れたいばかりに、
> 満たされない感覚の跡をたどって、
> こうあるべきだと思い込んでいるあり方に
> ものごとを変えようとする。

対象物をそんなふうに変更しようとして

一生を棒に振ることになるわけか。(-_-;)

> でもじつは、
> 不満そのものの神秘を経験して、
> 不満と親密になり、
> あえて不満から離れないでいることもできる。

ほー。

> だけどわたしたちはそれがあまり得意じゃない。

pariはけっこう得意かも。(*^_^*)

> そうするかわりに、
> まるでハーメルンの笛吹きの物語のように
> 不満の感覚のあとをついていく。
> そして、
> 欲しがっているものを与えてやれば
> 不満は消えるはずだという偽りの約束に、
> まんまと騙されてしまう。

あーあ、そういうこと?

じゃ、pariが得意なのはそっちかも。(^_-)

> 怒りを例にとってみよう。
> 怒りは人を活気づける反応だ。

怒りって、あんまり湧かなくなっちゃった。

> その意味では、
> 怒りは人類を絶滅から救ってきたかもしれない。
> ばかにできない手柄だ。

なるほど。

> ただし、
> 怒りが約束してくれているように見えることの中に、
> 実際にはそうではないことがひとつある。
> 怒りの衝動を満たしても、
> その衝動は消えないのだ。

あーあ、そうでしょうね。

癖が高じちゃうんじゃない?

> それどころか怒りを頻繁に発散していると、
> むしろ怒りにしがみつくようになってしまう。

わかるような。

> 怒りの爆発や、
> 怒りの経験そのものの中毒になることだってある。

あるでしょうね。

怒りは癖になりますよね。

> 怒りはどちらかと言えば単純な例だが、
> スピリチュアルな衝動になるとはるかに複雑だ。

なるほど。

──────────────────
 内面の向上や
 精神的なやすらぎを求める欲求が生じたとき、
 わたしたちは(運が良ければ)ふと気づく。
 自分で不満をつくりだしているのだと。
 不満をつくりだして、
 それからたいていは
 その不満を取り除くための心理作戦を考え出す。
 自分や他人に対する
 思いやりと受容の心を高めようとする。
 さて、
 そこに間違いがあるとしたら何だろうか?
 何もない。
 問題が消えずに続いているときに
 いつも考えつく解決策そのものが、
 たいていは問題の一部だという点を除いて。
 
 受容も、思いやりも、
 それから心配や不満に対するいろいろな対策も、
 たしかに効果はある。
 でも、
 とてつもない熱心さで
 長期間取り組まないかぎりはうまくいかない。
 物理学の世界でよくある
 一見単純な物質の問題と同じで、
 不満の粒子の一つひとつを調べてみると、
 それも何かの複合体だということがわかる。
 不満を分解していけばいくほど、
 つぎつぎともっと小さな粒子に分かれる。
 そして極小にまで分解された不満も、
 もとの大きな不満と変わらないほど
 やっかいだということが判明する。
 気がついてみると、
 どんどん細かくなっていく怒り、
 嫉妬、後悔といった粒子を取り除こうとしながら、
 まるでマクベス夫人のように
 朝から晩まで手を洗いつづけている。
 
 じつは、
 不満の種にどう「対処」したところで、
 生の神秘は経験できない。
 生の神秘はただ経験するだけだ。
 生を経験しようとただ決める。
 批判も期待もせずに。
 一時の誤りは一時の誤り。
 生の神秘を遠ざける思考や感情に
 ときどき煩わされるのは、
 そういうものに煩わされて当然だと考えているからだ。
 
 たぶんわたしたちは、
 「いつでも心の平安を保っている人」という、
 かなり高尚なアイデンティティを
 自分にあてはめようとしている。
 この皮肉がわかるだろうか?
 反応性感情をねじ伏せようとすれば、
 絶対に取り除けない極小の残余物がどうしても残る。
 そうなると、
 わたしたちはまるで
 光速を超えようとするロケットみたいになってしまう。
 光速に達するために
 必要な量の燃料を積み込もうとして
 ロケット全体がどんどん重くなって、
 にっちもさっちもいかなくなる。
 
 目覚めや悟りとは、
 今この瞬間の生の神秘に気づいて、
 今この瞬間以外にはどんな「もの」もないと
 わかっていることだと定義してもいいだろう。
 目覚めの反対、
 つまり反応性感情や
 疎外欲求がもたらす不満については、
 「生から何かを得ようとする」無駄な試み
 と定義していいんじゃないかと思う。
 
 生からは何も得られない。
 生から何かを持ち出せるような
 外側は存在していない。
 生の蓄えをかすめ取って
 貯めこんでおけるような小さなポケットが
 生の外側についているなんてことはない。
 この瞬間の生に、
 外側などない。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p31-33)
──────────────────

> 内面の向上や
> 精神的なやすらぎを求める欲求が生じたとき、
> わたしたちは(運が良ければ)ふと気づく。
> 自分で不満をつくりだしているのだと。

【自分で不満をつくりだしている】

なるほど。

> 不満をつくりだして、
> それからたいていは
> その不満を取り除くための心理作戦を考え出す。

わかるような。

> 自分や他人に対する
> 思いやりと受容の心を高めようとする。
> さて、
> そこに間違いがあるとしたら何だろうか?
> 何もない。

世の中のスピリチュアルな修行に

何も間違ったところはない、と。

> 問題が消えずに続いているときに
> いつも考えつく解決策そのものが、
> たいていは問題の一部だという点を除いて。

欲望の枝を払うというやつ。

> 受容も、思いやりも、
> それから心配や不満に対するいろいろな対策も、
> たしかに効果はある。
> でも、
> とてつもない熱心さで
> 長期間取り組まないかぎりはうまくいかない。

まあ、キリはない。

> 物理学の世界でよくある
> 一見単純な物質の問題と同じで、
> 不満の粒子の一つひとつを調べてみると、
> それも何かの複合体だということがわかる。

なるほど。

> 不満を分解していけばいくほど、
> つぎつぎともっと小さな粒子に分かれる。
> そして極小にまで分解された不満も、
> もとの大きな不満と変わらないほど
> やっかいだということが判明する。

(>_<)

> 気がついてみると、
> どんどん細かくなっていく怒り、
> 嫉妬、後悔といった粒子を取り除こうとしながら、
> まるでマクベス夫人のように
> 朝から晩まで手を洗いつづけている。

神経症ですね。

> じつは、
> 不満の種にどう「対処」したところで、
> 生の神秘は経験できない。

不満の「対処」は対処にすぎない。

> 生の神秘はただ経験するだけだ。
> 生を経験しようとただ決める。
> 批判も期待もせずに。

批判も期待もせずに。

ただ生を経験しようと決めるだけ。

> 一時の誤りは一時の誤り。

それがそれであること自体は

けっしていかなる誤りでもない。

それはただその瞬間のそれ。

> 生の神秘を遠ざける思考や感情に
> ときどき煩わされるのは、
> そういうものに煩わされて当然だと考えているからだ。

そのような心の癖が習性になっている。

> たぶんわたしたちは、
> 「いつでも心の平安を保っている人」という、
> かなり高尚なアイデンティティを
> 自分にあてはめようとしている。

おお。(@_@) ⌒★?

> この皮肉がわかるだろうか?
> 反応性感情をねじ伏せようとすれば、
> 絶対に取り除けない極小の残余物がどうしても残る。

なるほど。

> そうなると、
> わたしたちはまるで
> 光速を超えようとするロケットみたいになってしまう。

「光速を超えようとするロケット」

> 光速に達するために
> 必要な量の燃料を積み込もうとして
> ロケット全体がどんどん重くなって、
> にっちもさっちもいかなくなる。

はは。(*^_^*)

> 目覚めや悟りとは、
> 今この瞬間の生の神秘に気づいて、
> 今この瞬間以外にはどんな「もの」もないと
> わかっていることだと定義してもいいだろう。

【今この瞬間以外にはどんな「もの」もない】

(-||-)

> 目覚めの反対、
> つまり反応性感情や
> 疎外欲求がもたらす不満については、
> 「生から何かを得ようとする」無駄な試み
> と定義していいんじゃないかと思う。

おおお。(*_*) ⌒★?

【「生から何かを得ようとする」無駄な試み】

> 生からは何も得られない。

【生からは何も得られない】

これで決まり。

> 生から何かを持ち出せるような
> 外側は存在していない。

まさに。

生から何かを持ち出せるような

どんな誰も存在していない。

> 生の蓄えをかすめ取って
> 貯めこんでおけるような小さなポケットが
> 生の外側についているなんてことはない。

生の外側に

生を解釈できるような

どんな外部存在も存在していない。

> この瞬間の生に、
> 外側などない。

【この瞬間の生に、外側などない。】

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………

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  ………○…………○…………○………

キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

  ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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【今この瞬間の経験しか存在していないということを、
            ・・・
 哲学的に理解することができる。】

ニサルガダッタは間違いなく

言葉にできるものはすべてそれではない、

と言うでしょうけど、

こうして「哲学的理解」を

言葉にしてもらうのもありがたいですね。

(-||-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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