home > 通信 >この瞬間の生に外側はない(J.J.マシューズ):『アセンション館通信』第1023号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/12/03(第1024号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.この瞬間の生に外側はない(J.J.マシューズ)

2.編集後記
──────────────────

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■1.この瞬間の生に外側はない(J.J.マシューズ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

急に寒くなりましたね。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?

ヒロさんが翻訳されたジェニファー・マシューズの

『ただそのままでいるための超簡約指南』

ほんとにすばらしい。

このところアマゾンで未訳本も覗いたりしています。

今回は

『ただそのままでいるための超簡約指南』の

最初の章である「平凡さの陰謀」で

前回まだご紹介しきれていなかった部分も含めて

ジェニファー・マシューズが言っていることを

ご紹介したくなりました。

もし彼女が指し示していることが腑に落ちれば、

もう探求は維持できなくなると思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

この本、ぜひ買われるといいです。

もしあなたがKindle Unlimited の会員なら、

Kindle版を無料で読むことができます。

──────────────────
 .........................................................
 .                            .
 . 5.今この瞬間の経験しか存在していないということを、 .
 .   哲学的に理解することができる。          .
 .........................................................
 
 問 「明知を得た人たち」に
   心の平安をもたらしているのは何ですか?
   
 答 心の平安をもたらすものは何もありません。
   特定の精神状態を求めることそれ自体が、
   不満に拍車をかけているんです。
   「明知を得た人たち」が
   やすらぎと喜びを経験しているのは、
   もともと心を乱すものである幻想を
   捨て去ることを厭わなかったからです。
 
 「明知を得た人たち」がやすらかで
 開かれた気づきの感覚を経験しているのは、
 それと引き換えに彼らが何かを手放したからだ。
 そういう人たちが放棄したのは、
 移ろいやすくてひどく手のかかる
 自分という感覚を強めたときに一時的に得られる快感だ。
 彼らがやすらぎを経験しているのは、
 もともと心を乱す性質がある幻想、
 つまり「悟り」や「成就」を
 手にしなくてはならない自分が
 存在しているという幻想を進んで捨てたからだ。
 この幻想から、
 自分の現状を変えたいという、
 おなじみの強迫観念が生まれる。
 
 欲求と自分を同一視しているために、
 欲求を追いかける力、
 欲求を満たす力こそが自由なのだと
 わたしたちは考える。
 ところが、
 そうすると欲求にがんじがらめになってしまう。
 例として、
 服役していた人を考えてみよう。
 刑期が終わって看守が刑務所の門を開き、
 釈放された人は
 自由に欲求を追いかけられるようになる。
 ただし欲求について言えば、
 この人はかならずしも自由ではない。
 自由に欲求を追いかける権利は手にしても、
 それを追求するかどうかを決められるほど
 自由ではないかもしれない。
 
 生の神秘に気づきたければ、
 今の状況にないものは必要ないんだと理解すること、
 そしてそれによって
 自分の欲求の強迫衝動をかわすことが最も大切になる。
 実現すべき、
 今より素晴らしい感覚も境地も状態もありはしない。
 制限の多い少ないにかかわらず、
 そこから解き放たれなければならないような感覚も、
 境地も、状態もない。
 これがそれだ。
 このせつなさは、
 いつだってここにある。
 それを経験する許可、
 まさに今いる場所でそれと共にある許可を
 自分に出せばいい。
 このせつなさに自分を差し出す許可も。
 生の神秘に自分を差し出すこと、
 それが自由だ。
 
         *  *
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p27-29)
──────────────────

> .........................................................
> .                            .
> . 5.今この瞬間の経験しか存在していないということを、 .
> .   哲学的に理解することができる。          .
> .........................................................

このこと、

この【哲学的に理解することができる】という断言が

pariのようなマインドなどにとっては

とても大きな支えになります。

だって、理屈としてはもうずっと長いこと

理解しているわけですから。

でも、

「知的に理解しても意味がない」とか、

「聞いたら、そのメッセージはすぐ忘れなさい」

みたいなことを何度も言われると

やっぱり弱いですよね。(*^_^*)

でも、ジェニファー・マシューズのように

こう言ってもらえると、

理屈でしっかり納得することには意味がある、

哲学的に理解できるんだと思えます。

> 問 「明知を得た人たち」に
>   心の平安をもたらしているのは何ですか?
>   
> 答 心の平安をもたらすものは何もありません。

この断言もすごいです。

実際は、

心に平安をもたらしているものなど

何もないわけです。

なぜなら、

>   特定の精神状態を求めることそれ自体が、
>   不満に拍車をかけているんです。

つまり、

何かそういう特別な状態があるんだと思って、

そういう特定の精神状態を求めることそれ自体が

不満を常習化しているだけなんですから。

>   「明知を得た人たち」が
>   やすらぎと喜びを経験しているのは、
>   もともと心を乱すものである幻想を
>   捨て去ることを厭わなかったからです。

いわゆる覚者がやすらぎを経験しているのは

【心を乱すものである幻想を捨て去る】という

代償を支払っているからだと。

> そういう人たちが放棄したのは、
> 移ろいやすくてひどく手のかかる
> 自分という感覚を強めたときに一時的に得られる快感だ。

「あるがまま」という自然状態の退屈を避けるための

“一瞬のマインドの刺激”を求めることを

意識的にやめたからだと。

> 彼らがやすらぎを経験しているのは、
> もともと心を乱す性質がある幻想、
> つまり「悟り」や「成就」を
> 手にしなくてはならない自分が
> 存在しているという幻想を進んで捨てたからだ。

“一瞬のマインドの刺激”を求めている

“自分”(という実体)が存在している

という幻想を捨てたからだと。

> この幻想から、
> 自分の現状を変えたいという、
> おなじみの強迫観念が生まれる。

この何かを求めている“自分”が存在している

という幻想から、

その自分の現状を変えたいという

強迫観念が生まれる。

“自分”はまだ悟っていないから

悟らなくては安らぎは得られない……

という例の強迫観念が生まれる。

> 欲求と自分を同一視しているために、
> 欲求を追いかける力、
> 欲求を満たす力こそが自由なのだと
> わたしたちは考える。

知覚対象である欲求を“自分”と見なすと、

その欲求を追いかけること、

欲求を満たすパワーが自由なのだと

考えることになる。

> ところが、
> そうすると欲求にがんじがらめになってしまう。

しかし、

その観点からは欲求への囚われは強化されても、

欲求からの自由には導かれない。

> 例として、
> 服役していた人を考えてみよう。
> 刑期が終わって看守が刑務所の門を開き、
> 釈放された人は
> 自由に欲求を追いかけられるようになる。
> ただし欲求について言えば、
> この人はかならずしも自由ではない。

刑務所からの解放が

欲求を追求する自由の獲得を意味しても、

欲望そのものからの自由を意味しないのと同じこと。

> 自由に欲求を追いかける権利は手にしても、
> それを追求するかどうかを決められるほど
> 自由ではないかもしれない。

刑期を終えて解放された元服役囚が、

その解放だけで欲望の追求から解放されると

想像するのは無理がある。

たいていは解放された元服役囚は

手に入れた自由を欲望を追求する自由として

使うことでしょう。

> 生の神秘に気づきたければ、
> 今の状況にないものは必要ないんだと理解すること、
> そしてそれによって
> 自分の欲求の強迫衝動をかわすことが最も大切になる。

「今の状況にないものは必要ないんだと理解する」のは、

かなり、かなりハードルが高い。

本当の安らぎを手に入れるには、

「今の状況にないものは必要ない」ことを理解して、

「あるがまま」という自然状態の退屈を

避けたい“自分”という実体が存在している

という幻想を放棄する必要がある。

> 実現すべき、
> 今より素晴らしい感覚も境地も状態もありはしない。

やすらぐためには

今より素晴らしい境地に到達する必要があるのではなく、

そんなものが存在しないことを

しっかり哲学的に理解する必要がある。

> 制限の多い少ないにかかわらず、
> そこから解き放たれなければならないような感覚も、
> 境地も、状態もない。

見た目の制限の多寡に関わらず、

今あるものが、今あるもの。

どんな状態も、どんな感覚も、どんな境地も

そのときだけのもの。

それが、いまあるそれ。

> これがそれだ。
> このせつなさは、
> いつだってここにある。

今あるこれがそれ。

いつだって、

今あるこれが在るだけ。

【しかもかくのごときなりといへども、

 花は愛惜(あいじゃく)にちり、

 草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。】

           『正法眼蔵』「現状公案」

(-||-)

> それを経験する許可、
> まさに今いる場所でそれと共にある許可を
> 自分に出せばいい。

それ以外の何も求めないということ。

その許可を自分に出せばいい。

> このせつなさに自分を差し出す許可も。

他の何ものにも代えがたい

この今の瞬間の“代えがたさ”“せつなさ”に

この今の瞬間を差し出せばいい。

> 生の神秘に自分を差し出すこと、
> それが自由だ。

それが自由だ。

──────────────────
 わかった?
 よくわからない?
 じゃあ、
 この重要な考えをもうちょっと詳しく見てみよう。
 何かを心から望んでいると、
 望むのがすごく得意になることがある。
 そうなると、
 望むものが手に入ってからも
 望み続けていればいいじゃないか、となる。
 望んだ状況がようやく実現したのに、
 望むという習慣はそのまま残る。
 つまり実現はいつでも一足遅い。
 生と出会う約束をしようとすると、
 いつだって間に合わない。
 
 疎外欲求は、
 生の神秘と触れている感覚を曇らせかねない。
 たとえば、
 「完璧」なパートナーと新たにつきあい始めたとしよう。
 喜びで舞い上がるはずだ。
 喜びで舞い上がるのは、
 それがわたしたち本来の性質だから。
 白日夢に煩わされるのに忙しすぎて、
 ちょっとのあいだ喜びが見えなくなっていただけだ。
 心の奥底からの喜びを経験するには、
 それをただ自分に許可するだけでいい。
 でもそうはせずに、
 わたしたちは外側に完璧な状況を探し求める。
 その探すという行為そのものが
 人を幸せから遠ざけてしまう。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p29-30)
──────────────────

> わかった?
> よくわからない?

まあ、ここまでの話で通じているのなら、

その人はもうこういうものを読まないでしょう。(^_-)

> 何かを心から望んでいると、
> 望むのがすごく得意になることがある。
> そうなると、
> 望むものが手に入ってからも
> 望み続けていればいいじゃないか、となる。

そういうマインドの習性みたいなものが

あるんですね。

> 望んだ状況がようやく実現したのに、
> 望むという習慣はそのまま残る。

そういうことか。

> たとえば、
> 「完璧」なパートナーと新たにつきあい始めたとしよう。
> 喜びで舞い上がるはずだ。
> 喜びで舞い上がるのは、
> それがわたしたち本来の性質だから。

なるほど。

> 白日夢に煩わされるのに忙しすぎて、
> ちょっとのあいだ喜びが見えなくなっていただけだ。
> 心の奥底からの喜びを経験するには、
> それをただ自分に許可するだけでいい。

そういうことなのか。(@_@) ⌒★?

> でもそうはせずに、
> わたしたちは外側に完璧な状況を探し求める。

たしかに。

> その探すという行為そのものが
> 人を幸せから遠ざけてしまう。

なるほど。

──────────────────
 欲求に突き動かされている人のことを考えてみよう。
 求めていたものが手に入ったとき、
 こんどはそれを永遠に握りしめていたくなっている。
 永遠に自分のものにできたのにまだ満たされないと、
 かつては強烈に欲しがっていたはずのまさにその人、
 その地位、その成果を無視するようになり、
 気にもかけなくなる。
 手が空いていない状態になってしまう。
 
 わたしたちは
 自分が生みだした不満の感覚から逃れたいばかりに、
 満たされない感覚の跡をたどって、
 こうあるべきだと思い込んでいるあり方に
 ものごとを変えようとする。
 でもじつは、
 不満そのものの神秘を経験して、
 不満と親密になり、
 あえて不満から離れないでいることもできる。
 だけどわたしたちはそれがあまり得意じゃない。
 そうするかわりに、
 まるでハーメルンの笛吹きの物語のように
 不満の感覚のあとをついていく。
 そして、
 欲しがっているものを与えてやれば
 不満は消えるはずだという偽りの約束に、
 まんまと騙されてしまう。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p30-31)
──────────────────

> 求めていたものが手に入ったとき、
> こんどはそれを永遠に握りしめていたくなっている。

そうか。

これは心理学なんだ。

> 永遠に自分のものにできたのにまだ満たされないと、
> かつては強烈に欲しがっていたはずのまさにその人、
> その地位、その成果を無視するようになり、
> 気にもかけなくなる。

なんと!(>_<)

> わたしたちは
> 自分が生みだした不満の感覚から逃れたいばかりに、
> 満たされない感覚の跡をたどって、
> こうあるべきだと思い込んでいるあり方に
> ものごとを変えようとする。

そういうことをやろうとするよね。

> でもじつは、
> 不満そのものの神秘を経験して、
> 不満と親密になり、
> あえて不満から離れないでいることもできる。

あーあ。

そういう手もある。(@_@)

なにもしないでただその状態にいる。

それはかなり奥の手かも。

> だけどわたしたちはそれがあまり得意じゃない。

なるほど。

> そうするかわりに、
> まるでハーメルンの笛吹きの物語のように
> 不満の感覚のあとをついていく。

ああ。

> そして、
> 欲しがっているものを与えてやれば
> 不満は消えるはずだという偽りの約束に、
> まんまと騙されてしまう。

そっかぁ。(;_;)

──────────────────
 怒りを例にとってみよう。
 怒りは人を活気づける反応だ。
 その意味では、
 怒りは人類を絶滅から救ってきたかもしれない。
 ばかにできない手柄だ。
 ただし、
 怒りが約束してくれているように見えることの中に、
 実際にはそうではないことがひとつある。
 怒りの衝動を満たしても、
 その衝動は消えないのだ。
 それどころか怒りを頻繁に発散していると、
 むしろ怒りにしがみつくようになってしまう。
 怒りの爆発や、
 怒りの経験そのものの中毒になることだってある。
 怒りはどちらかと言えば単純な例だが、
 スピリチュアルな衝動になるとはるかに複雑だ。
 
 内面の向上や
 精神的なやすらぎを求める欲求が生じたとき、
 わたしたちは(運が良ければ)ふと気づく。
 自分で不満をつくりだしているのだと。
 不満をつくりだして、
 それからたいていは
 その不満を取り除くための心理作戦を考え出す。
 自分や他人に対する
 思いやりと受容の心を高めようとする。
 さて、
 そこに間違いがあるとしたら何だろうか?
 何もない。
 問題が消えずに続いているときに
 いつも考えつく解決策そのものが、
 たいていは問題の一部だという点を除いて。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p31-32)
──────────────────

> 怒りを例にとってみよう。
> 怒りは人を活気づける反応だ。
> その意味では、
> 怒りは人類を絶滅から救ってきたかもしれない。
> ばかにできない手柄だ。

ジェニファー・マシューズのユーモア。(*^_^*)

> ただし、
> 怒りが約束してくれているように見えることの中に、
> 実際にはそうではないことがひとつある。
> 怒りの衝動を満たしても、
> その衝動は消えないのだ。

そうなるよね。

> それどころか怒りを頻繁に発散していると、
> むしろ怒りにしがみつくようになってしまう。
> 怒りの爆発や、
> 怒りの経験そのものの中毒になることだってある。

たしかに。

> 怒りはどちらかと言えば単純な例だが、
> スピリチュアルな衝動になるとはるかに複雑だ。

そうか。

スピリチュアルな探求というのは中毒なんだ。

> 内面の向上や
> 精神的なやすらぎを求める欲求が生じたとき、
> わたしたちは(運が良ければ)ふと気づく。
> 自分で不満をつくりだしているのだと。

自作自演か。

> 不満をつくりだして、
> それからたいていは
> その不満を取り除くための心理作戦を考え出す。
> 自分や他人に対する
> 思いやりと受容の心を高めようとする。

間違いなく。

> さて、
> そこに間違いがあるとしたら何だろうか?

(-_-)?

> 何もない。
> 問題が消えずに続いているときに
> いつも考えつく解決策そのものが、
> たいていは問題の一部だという点を除いて。

プ!(>_<)

──────────────────
 受容も、思いやりも、
 それから心配や不満に対するいろいろな対策も、
 たしかに効果はある。
 でも、
 とてつもない熱心さで
 長期間取り組まないかぎりはうまくいかない。
 物理学の世界でよくある
 一見単純な物質の問題と同じで、
 不満の粒子の一つひとつを調べてみると、
 それも何かの複合体だということがわかる。
 不満を分解していけばいくほど、
 つぎつぎともっと小さな粒子に分かれる。
 そして極小にまで分解された不満も、
 もとの大きな不満と変わらないほど
 やっかいだということが判明する。
 気がついてみると、
 どんどん細かくなっていく怒り、
 嫉妬、後悔といった粒子を取り除こうとしながら、
 まるでマクベス夫人のように
 朝から晩まで手を洗いつづけている。
 
 じつは、
 不満の種にどう「対処」したところで、
 生の神秘は経験できない。
 生の神秘はただ経験するだけだ。
 生を経験しようとただ決める。
 批判も期待もせずに。
 一時の誤りは一時の誤り。
 生の神秘を遠ざける思考や感情に
 ときどき煩わされるのは、
 そういうものに煩わされて当然だと考えているからだ。
 
 たぶんわたしたちは、
 「いつでも心の平安を保っている人」という、
 かなり高尚なアイデンティティを
 自分にあてはめようとしている。
 この皮肉がわかるだろうか?
 反応性感情をねじ伏せようとすれば、
 絶対に取り除けない極小の残余物がどうしても残る。
 そうなると、
 わたしたちはまるで
 光速を超えようとするロケットみたいになってしまう。
 光速に達するために
 必要な量の燃料を積み込もうとして
 ロケット全体がどんどん重くなって、
 にっちもさっちもいかなくなる。
 
 目覚めや悟りとは、
 今この瞬間の生の神秘に気づいて、
 今この瞬間以外にはどんな「もの」もないと
 わかっていることだと定義してもいいだろう。
 目覚めの反対、
 つまり反応性感情や
 疎外欲求がもたらす不満については、
 「生から何かを得ようとする」無駄な試み
 と定義していいんじゃないかと思う。
 
 生からは何も得られない。
 生から何かを持ち出せるような
 外側は存在していない。
 生の蓄えをかすめ取って
 貯めこんでおけるような小さなポケットが
 生の外側についているなんてことはない。
 この瞬間の生に、
 外側などない。
 
 これまでのところ、
 順調だ。
 開かれていて目覚めている明晰さから
 注意がそれる感覚について見てきた。
 ではつぎに、
 この開かれた明晰さそのものに
 注目していくことにしよしよう。
 わたしたち本来の開かれて目覚めている明晰さと、
 「目が覚める」という感覚や経験のあいだには、
 どんな関係があるのだろうか?
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p32-34)
──────────────────

> 受容も、思いやりも、
> それから心配や不満に対するいろいろな対策も、
> たしかに効果はある。
> でも、
> とてつもない熱心さで
> 長期間取り組まないかぎりはうまくいかない。

だから、たいていは元の木阿弥。

> 物理学の世界でよくある
> 一見単純な物質の問題と同じで、
> 不満の粒子の一つひとつを調べてみると、
> それも何かの複合体だということがわかる。

なるほど。

> 不満を分解していけばいくほど、
> つぎつぎともっと小さな粒子に分かれる。
> そして極小にまで分解された不満も、
> もとの大きな不満と変わらないほど
> やっかいだということが判明する。

なんと!

> 気がついてみると、
> どんどん細かくなっていく怒り、
> 嫉妬、後悔といった粒子を取り除こうとしながら、
> まるでマクベス夫人のように
> 朝から晩まで手を洗いつづけている。

(;_;)

> じつは、
> 不満の種にどう「対処」したところで、
> 生の神秘は経験できない。
> 生の神秘はただ経験するだけだ。

【生の神秘はただ経験するだけ】

> たぶんわたしたちは、
> 「いつでも心の平安を保っている人」という、
> かなり高尚なアイデンティティを
> 自分にあてはめようとしている。

【「いつでも心の平安を保っている人」】を目指せば、

いつも不足にハリツケになる。

> この皮肉がわかるだろうか?
> 反応性感情をねじ伏せようとすれば、
> 絶対に取り除けない極小の残余物がどうしても残る。

未完成部分の残渣を顕微鏡で確認すれば、

残渣はとてつもない構造を打ち明ける。

> そうなると、
> わたしたちはまるで
> 光速を超えようとするロケットみたいになってしまう。
> 光速に達するために
> 必要な量の燃料を積み込もうとして
> ロケット全体がどんどん重くなって、
> にっちもさっちもいかなくなる。

【光速を超えようとするロケット】

目指すことが無意味なんだ。

> 目覚めや悟りとは、
> 今この瞬間の生の神秘に気づいて、
> 今この瞬間以外にはどんな「もの」もないと
> わかっていることだと定義してもいいだろう。

【目覚めとは
 今この瞬間以外にはどんな「もの」もないと
 わかっていること】

> 目覚めの反対、
> つまり反応性感情や
> 疎外欲求がもたらす不満については、
> 「生から何かを得ようとする」無駄な試み
> と定義していいんじゃないかと思う。

【疎外欲求という不毛な努力とは
 「生から何かを得ようとする」無駄な試み】

(*_*) ⌒★?

(-||-)

> 生からは何も得られない。
> 生から何かを持ち出せるような
> 外側は存在していない。

たしかに。

> 生の蓄えをかすめ取って
> 貯めこんでおけるような小さなポケットが
> 生の外側についているなんてことはない。

間違いなく。

> この瞬間の生に、
> 外側などない。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………

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  ………○…………○…………○………

キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

  ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【生からは何も得られない。
 生から何かを持ち出せるような
 外側は存在していない。
 生の蓄えをかすめ取って
 貯めこんでおけるような小さなポケットが
 生の外側についているなんてことはない。
 この瞬間の生に、
 外側などない。】

これは、他のどこでも見られない

ジェニファー・マシューズが発見した

アングルですね。

【生からは何も持ち出せない】

生とはその瞬間に感じられるものがすべて。

そこから何らかの結論を引き出せるような

そんな外側は存在しない。

このことが心底納得できたらそれが目覚め。

こうしてジェニファー・マシューズの

「哲学的理解」に触れられるのは

ありがたいことです。(-||-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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