home > 通信 >虹(J.J.マシューズ):『アセンション館通信』第1025号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/12/10(第1025号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.虹(J.J.マシューズ)

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1.虹(J.J.マシューズ)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日も温かい日でした。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?

ヒロさんが翻訳されたジェニファー・マシューズの

『ただそのままでいるための超簡約指南』

すばらしいです。

ジェニファー・マシューズは

よくぞ書いてくださった。

そしてジョーン・トリフソンは

よくぞ彼女の理解の卓越性を認めてくださった。

そしてヒロさんは

よくぞそれを見つけ翻訳してくださった。

ありがたいことです。(-||-)

2番目の章の「夢」はすでに全文をご紹介しているので

今回は

『ただそのままでいるための超簡約指南』の

3番目の章「虹」ご紹介したます。

この章でジェニファー・マシューズが言っていることは

とてもとても重要な観点です。

この彼女の知見をつねに思い出したいものです。

この内容が腑に落ちれば

もう探求は維持できなくなる。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

この本、ぜひ買われるといいです。

Kindle版は買っても100円、

もしあなたがKindle Unlimited の会員なら、

Kindle版を無料で読むことができます。

──────────────────
 
 虹
 
 
 今の瞬間の経験からわたしたちを
 引き離してしまうように感じられる、
 いろいろな要素について見てきた。
 そして目覚めや明晰さが、
 不満の土台にある間違った前提を
 解消することとどう関係しているか、
 また見かけの自分やその問題を解決することとは
 いかに無関係かという点も検討してきた。
 
 じゃあ、
 この間違った前提というのは何だろう。
 そして不満のしくみは
 実際どうなっているんだろうか。
 そのしくみはどうやって作用しているのか?
 まるで雲間から差し込む光が
 地表のところどころをほんの数センチだけ
 照らしているフランドル絵画みたいに、
 生の神秘をほんの一瞬しか経験できないのは、
 どんなしくみによるのだろう。
 
 不満のしくみには実体がない。
 それは虹と同じで幻影だ。
 虹は、
 空中に漂う小さな水滴によって
 屈折した光線が目の網膜に映ったものだ。
 虹という幻影は、
 あたかもそれが自分と少し離れたところから
 立ち上がっているかのように、
 そしてそこまで行けば七色の光の中に
 自分も立つことができるかのように見える。
 
 でも実際の虹は、
 虹を眺めている人のまさに目の中に存在する。
 虹の帯が現実に地平線まで
 続いているわけではなくて、
 文字どおり自分の目の中に存在している。
 虹が写真に写るのは、
 目の中と同じようなしくみで
 光がカメラのレンズに映るからだ。
 プラトンの洞窟の比喩に出てくる影と同じで、
 虹は内側にある。
 なのにわたしたちは虹を追いかける。
 
 せつなさの染みわたる感覚がある。
 それは宇宙的なハミングのようなもの、
 ビッグバンのあとに残った放射のようなものだ。
 それはいつでもある。
 それは存在の感覚だ。
 この感覚の神秘の中にあるとき、
 わたしたちは自分を開かれた気づきとして認識する。
 これがわたしたちの本質であり、
 開かれたハートだ。
 わたしたちはこの完全な開放性を探し求めている。
 と同時に、
 そこから逃げている。
 わたしたちは、
 逃れようとしているまさにそのものを探し求め、
 探し求めているまさにそのものから逃げている。
 怒り、嫉妬、後悔、不安、強迫的な欲求、
 いわゆる「反応性」の感情は、
 この根源的なせつなさからわたしたちを守ろうとする。
 このせつなさを他の人や状況に投影するというのが、
 わたしたちのいつものやり方だ。
 はっきりした好き嫌いのある
 揺るぎないアイデンティティが自分にはあると考える。
 望ましくて追い求めるべき状況や人々、
 逆に好ましくなくて嫌悪すべき状況や人々が
 はっきりと決まっている、
 ひとりの個人になる。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p41-42)
──────────────────
 
> 今の瞬間の経験からわたしたちを
> 引き離してしまうように感じられる、
> いろいろな要素について見てきた。

わたしたちは実際は

いまこの瞬間の経験への開かれた<気づき>だ。

いまこの瞬間の経験の内容に対しは絶対に自由だ。

しかし経験の「見かけ」の形に注意を奪われると、

知覚対象のなかに「見かけ」の形を

望ましいものにしたいという欲求が現れる。

この欲求を“自分”と見なすと、

その欲求を追いかけ、

その欲求を満たすことが自由だと思ってしまう。

でも、そう考えてしまうと、

ますます欲求への囚われが強化されて、

いまこの瞬間の経験に気づいている自分は忘れられ、

ただ仮想の過去と未来へと引きずり回されて、

欲望することから自由になれなくなる。

> そして目覚めや明晰さが、
> 不満の土台にある間違った前提を
> 解消することとどう関係しているか、
> また見かけの自分やその問題を解決することとは
> いかに無関係かという点も検討してきた。

経験の「見かけ」の形に注意を奪われ、

その「見かけ」の問題を解決することは、

自分がいまこの瞬間の経験への<気づき>であること、

いまこの瞬間の経験からは絶対的に自由であることを

思い出すこととはまったく無関係だ。

では、

この誤解のしくみはどうなっているのか?

わたしたちがつねに欲望に突き動かされて、

ほとんど生の神秘を経験できないのは

どういうしくみによるのだろうか?

> それは虹と同じで幻影だ。
> 虹は、
> 空中に漂う小さな水滴によって
> 屈折した光線が目の網膜に映ったものだ。

わたしたちが世界を知覚する色彩が

透明な白色光の条件的な顕現であることを

証明して見せたのはアイザック・ニュートンだった。

虹は空中に漂う水滴が反射した光が

わたしたちの網膜に映ったものだった。

> 虹という幻影は、
> あたかもそれが自分と少し離れたところから
> 立ち上がっているかのように、
> そしてそこまで行けば七色の光の中に
> 自分も立つことができるかのように見える。
> でも実際の虹は、
> 虹を眺めている人のまさに目の中に存在する。
> 虹の帯が現実に地平線まで
> 続いているわけではなくて、
> 文字どおり自分の目の中に存在している。

一見、遠くの何処かで

大地に接しているように見えた虹なのに、

実際にそこまで行ってみようと思っても

けっして到達できなかった経験があるかもしれない。

虹という幻影は

実際は見ている自分の目の中で起こっている。

虹は内側にある。

なのにわたしたちは虹を追いかける。

──────────────────
 せつなさの染みわたる感覚がある。
 それは宇宙的なハミングのようなもの、
 ビッグバンのあとに残った放射のようなものだ。
 それはいつでもある。
 それは存在の感覚だ。
 この感覚の神秘の中にあるとき、
 わたしたちは自分を開かれた気づきとして認識する。
 これがわたしたちの本質であり、
 開かれたハートだ。
 わたしたちはこの完全な開放性を探し求めている。
 と同時に、
 そこから逃げている。
 わたしたちは、
 逃れようとしているまさにそのものを探し求め、
 探し求めているまさにそのものから逃げている。
 怒り、嫉妬、後悔、不安、強迫的な欲求、
 いわゆる「反応性」の感情は、
 この根源的なせつなさからわたしたちを守ろうとする。
 このせつなさを他の人や状況に投影するというのが、
 わたしたちのいつものやり方だ。
 はっきりした好き嫌いのある
 揺るぎないアイデンティティが自分にはあると考える。
 望ましくて追い求めるべき状況や人々、
 逆に好ましくなくて嫌悪すべき状況や人々が
 はっきりと決まっている、
 ひとりの個人になる。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p42-43)
──────────────────

【せつなさの染みわたる感覚がある。
 それは宇宙的なハミングのようなもの、
 ビッグバンのあとに残った放射のようなものだ。】

これはジェニファー・マシューズの

独特の感性、独特の表現です。

でも、いまこの瞬間の経験から

いささかも逃げることなくそれを感じたら、

そのように表現されるかもしれない

“ある感覚”があることも感じられます。

> それはいつでもある。
> それは存在の感覚だ。

そしてジェニファー・マシューズは

その【せつなさの染みわたる感覚】を

存在の感覚だというのです。

今のこの瞬間の経験から逃げさえしなければ

その感覚に触れられると。

> この感覚の神秘の中にあるとき、
> わたしたちは自分を開かれた気づきとして認識する。
> これがわたしたちの本質であり、
> 開かれたハートだ。

その【せつなさの染みわたる感覚】のなかに

ただとどまるとき、わたしたちは

自分が開かれた気づきであることを知る。

この瞬間の経験の「みかけ」を問題にして、

「みかけ」のなかでそれを解決しようとしなければ、

その宇宙放射のような

【せつなさの染みわたる感覚】を

わたしたちは感じることができる、と。

> わたしたちはこの完全な開放性を探し求めている。

わたしたちは

真の自分を親密に知ることを望んでいる。

> と同時に、
> そこから逃げている。

そして同時に、

それを親密に知ることを恐れてもいる。

> わたしたちは、
> 逃れようとしているまさにそのものを探し求め、
> 探し求めているまさにそのものから逃げている。

わたしたちは自分であることを探し求め、

自分であることから逃げている。

> 怒り、嫉妬、後悔、不安、強迫的な欲求、
> いわゆる「反応性」の感情は、
> この根源的なせつなさからわたしたちを守ろうとする。

自分であるくらいなら、

多少激烈な感情を感じるくらいなんでもない。

怒り、嫉妬、後悔、不安、強迫的な欲求といった

見かけへの反応として起こる感情は、

このこの根源的なせつなさ感じることを

避けるための代替手段でしかない。

> このせつなさを他の人や状況に投影するというのが、
> わたしたちのいつものやり方だ。

他者に対する嫌悪感とか拒否感情というのは

この【根源的なせつなさ】を避けるための

代替手段でしかない。

> はっきりした好き嫌いのある
> 揺るぎないアイデンティティが自分にはあると考える。

パーソナリティとしてのアイデンティティがあると。

> 望ましくて追い求めるべき状況や人々、
> 逆に好ましくなくて嫌悪すべき状況や人々が
> はっきりと決まっている、
> ひとりの個人になる。

パーソナリティの鎧を身につけることで

わたしたちは個人になる。

──────────────────
 そうすると、
 望むものに近づいたときには
 予想どおりに興奮の感覚を経験し、
 関わり合いたくない状況がやってくると
 予想どおりに拒絶の感覚を経験する。
 好ましいアイデンティティを支えてくれる
 空想にとらわれてしまうことで、
 わたしたちは実際の経験の
 けっこうな部分を切り捨ててしまう。
 生のかなりの部分
 (90パーセントとしておこう、劇的に響くように)
 が完全に無視される。
 そうしてわたしたちは
 まるでガラス戸のうしろで生きているかのように、
 生から閉め出された気分になる。
 まさしくこの状態こそ、
 わたしたちが感じている不満の原因だ。
 そしてあいにくなことに、
 不満のまさにど真ん中で幸せを探す。
 切望の中心で幸せを探し求めても、
 見つかるのはさらに強い興味をかきたてる切望だ。
 つきたかった仕事につくと、
 こんどは何か別のものがほしくなってしまう。
 このせつなさを感じながら、
 そこから背を向けないでいられること。
 それが〈目覚めていること〉の感覚的側面だろう。
 本当の親密さを知り、
 自分という幻想の要塞に隠れようとしないのが
 〈目覚めていること〉なんじゃないだろうか。
 個として閉じられた自分という巣を作ろうとして、
 さらなる興奮や地位といった
 ちまちました葦や藁を探しに行かないこと、
 それが〈目覚めていること〉なんだと思う。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p43-44)
──────────────────
 
> そうすると、
> 望むものに近づいたときには
> 予想どおりに興奮の感覚を経験し、
> 関わり合いたくない状況がやってくると
> 予想どおりに拒絶の感覚を経験する。

完全に物語のなかの登場人物になりきって、

シナリオが要求する反応を演じつづける。

> 好ましいアイデンティティを支えてくれる
> 空想にとらわれてしまうことで、
> わたしたちは実際の経験の
> けっこうな部分を切り捨ててしまう。

想像のドラマのなかの登場人物になることで、

わたしたちはいまこの瞬間に起こっている

経験のかなり大きな部分を排除して、

開いた<気づき>であることから降りる。

> 生のかなりの部分
> (90パーセントとしておこう、劇的に響くように)
> が完全に無視される。
> そうしてわたしたちは
> まるでガラス戸のうしろで生きているかのように、
> 生から閉め出された気分になる。

個人としてのアイデンティティを演じることで

わたしたちは実際に起っている

生から閉め出された気分になる。

> まさしくこの状態こそ、
> わたしたちが感じている不満の原因だ。

かくてわたしたちは不満の虜になる。

> そしてあいにくなことに、
> 不満のまさにど真ん中で幸せを探す。

そしてその不満のど真ん中で

「見かけ」のなかに好みの形を求めつづける。

> 切望の中心で幸せを探し求めても、
> 見つかるのはさらに強い興味をかきたてる切望だ。
> つきたかった仕事につくと、
> こんどは何か別のものがほしくなってしまう。

この不満のど真ん中で幸福を求める

個人を幸福にできる状況が

「見かけ」のなかに現れることはない。

> このせつなさを感じながら、
> そこから背を向けないでいられること。
> それが〈目覚めていること〉の感覚的側面だろう。

【このせつなさを感じながら、
 そこから背を向けないでいられること。】

それが〈目覚めていること〉の感覚的側面。

> 本当の親密さを知り、
> 自分という幻想の要塞に隠れようとしないのが
> 〈目覚めていること〉なんじゃないだろうか。

いまこの瞬間に起こっている経験を

感じることから逃げずにいることが

〈目覚めていること〉。

> 個として閉じられた自分という巣を作ろうとして、
> さらなる興奮や地位といった
> ちまちました葦や藁を探しに行かないこと、
> それが〈目覚めていること〉なんだと思う。

空想の物語の中に逃げ込まずに、

ただ、いまこの瞬間に起こっている経験に

開いて気づいていることが〈目覚めていること〉。

──────────────────
 〈目覚めていること〉はアルファでありオメガだ。
 それはわたしたちが逃れようとしているもの。
 そしてわたしたちが探し求めているものだ。
 わたしたちは達成しようとしている
 まさにそのものから逃げている。
 そして逃れようとしている
 まさにそのものを切望している!
 わたしたちは存在の中心にあるせつなさを避けて、
 計画、課題、空想、心配、後悔、
 平穏や平安のイメージに逃げ込もうとする。
 さもなければ、
 それをどうにかして完全にしようとしたり
 「微調整」を試みたりする。
 けれども、
 そのせつなさはすでに完璧だ。
 それにまつわるどんな概念も
 超越しているという点で。
 どうしても
 課題に取り組まなくちゃいけないときでも、
 存在の神秘に気づくことはできる。
 存在の神秘を細かく分解して、
 あとで表現したりコントロールしたり
 再生したりできるような
 具体的な感覚や理解に落とし込もうとすることなく。
 
 たとえばわたしたちは、
 生の神秘を未来のいつの日か、
 またはどこか遠くの見知らぬ場所に行ってから
 しっかりと経験したいと願うことによって、
 生から身を引こうとする。
 ヒマラヤにトレッキングに行くのは、
 ヒマラヤに行けば
 もう少し特別な神秘が見つかるはずだと
 信じて疑わないからだ。
 虹の端がぎりぎり手の届かないところに
 ありさえすれば、
 何をするかなんてどうでもいい。

 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p44-45)
──────────────────
 
> 〈目覚めていること〉はアルファでありオメガだ。

〈目覚めていること〉がすべての始まりであり、

〈目覚めていること〉がすべての終わりでもある。

> それはわたしたちが逃れようとしているもの。
> そしてわたしたちが探し求めているものだ。

わたしたちは自分の存在に耐えられずに、

自分が何であるかを

空想のなかで見つけようとした。

しかしわたしたちが本当に求めていたのは、

虚構のなかで架空の自分像を想像することではなく、

親密に自分自身を感じることだった。

> わたしたちは達成しようとしている
> まさにそのものから逃げている。
> そして逃れようとしている
> まさにそのものを切望している!

わたしたちは自分自身であろう、

自分自身を親密に感じようとしながら

まさにそのことから逃げている。

そしてまさに避けようとしている

自分自身で在ることをこそ望んでいる。

自分自身を親密に感じることを切望している。

> わたしたちは存在の中心にあるせつなさを避けて、
> 計画、課題、空想、心配、後悔、
> 平穏や平安のイメージに逃げ込もうとする。

わたしたちは自分自身の中心にある

せつなさを避けて、

いろいろな空想の物語の中に逃げ込もうとする。

> さもなければ、
> それをどうにかして完全にしようとしたり
> 「微調整」を試みたりする。

あるいは成長の物語を想像して

その虚構の観念のなかで完全化を目指したり、

「微調整」を試みたりする。

> けれども、
> そのせつなさはすでに完璧だ。
> それにまつわるどんな概念も
> 超越しているという点で。

しかし、

わたしたちの中心にあるせつなさは

それ自体ですでに完璧だ。

どんな観念もそれには及びもつかず、

それに何かを加えることも

それから何かを削減することもできない。

> どうしても
> 課題に取り組まなくちゃいけないときでも、
> 存在の神秘に気づくことはできる。

しかし実際は、いついかなる瞬間にも

存在の神秘に気づくことは可能だ。

> 存在の神秘を細かく分解して、
> あとで表現したりコントロールしたり
> 再生したりできるような
> 具体的な感覚や理解に落とし込もうとすることなく。

存在の神秘に気づくために、

マインドによるいかなる分析も、

解釈も、表現も、制御も必要ない。

マインドによるいかなる再生の試みも、

具体的な感覚や理解への落とし込みも必要ない。

> たとえばわたしたちは、
> 生の神秘を未来のいつの日か、
> またはどこか遠くの見知らぬ場所に行ってから
> しっかりと経験したいと願うことによって、
> 生から身を引こうとする。
> ヒマラヤにトレッキングに行くのは、
> ヒマラヤに行けば
> もう少し特別な神秘が見つかるはずだと
> 信じて疑わないからだ。
> 虹の端がぎりぎり手の届かないところに
> ありさえすれば、
> 何をするかなんてどうでもいい。

わたしたちは、いつかどこかで

人生の意味のすべてが明かされる瞬間が

やってくるのかもしれないなどと期待する。

そうやって、

いまこの瞬間に起こっている経験を

避けずに親密に感じることから逃げる。

──────────────────
 23歳のとき、
 わたしは誰にでも覚えがあるような
 決定的な恋愛をした。
 そして、
 もし相手から情熱的な手紙を受け取ったら、
 自分はまるまる3日間は
 返事をしないでおくだろうと思っていた。
 その3日間はわたしの人生で
 もっともわくわくする時間になるはずだった
 (「わくわくするexciting」という言葉には、
  「〜の外側」という意味の接頭語exが
  ついていることに注目してほしい)。
 ある意味では、
 空想にふけるほど
 わくわくすることは実際ほかに何もない。
 
 空想は楽しい。
 空想は離れ小島に似てもいる。
 空想は、
 現実の親密さから離れて一休みしよう、
 という実現不可能な試みで構成されている。
 空想はたいてい、
 本当の親密さを遅らせること、
 もしくは妨げることをおもな目的としている。
 だからわたしはときどき
 こういう空想のことを「疎外欲求」と呼ぶ。
 生からリアリティを奪い去る欲求は、
 どれもが疎外欲求だ。
 でも実際のところ、
 それは本当に欲求なのだろうか?
 それが「実現する」のを
 わたしたちは本当に望んでいるだろうか。
 もしかして、
 それは単に欲求のための欲求、
 つまり欲求の中にとどまっていたい、
 欲求の対象から隔たった状態にありつづけたい
 という欲求だということはないだろうか?
 
 空想にいつまでもしがみついていれば、
 空想はどんどん空虚で
 よどんだ繰り返しになっていく。
 けれども
 そういうマイナス面が明らかだったとしても、
 やはり空想にしがみつくかもしれない。
 こう考えてみると、
 せつなさとは何か、
 それから経験がなぜ、
 この崇高でありながらほろ苦い感覚で
 満たされているのかが理解できる。
 生きるという経験がせつないのは、
 それが「しがみつけない」ことで
 成り立っているからだ。
 
 ブッダが三法印についての経典で述べているとおり、
 生きるという経験は不確かで、
 自分の思惑や欲求という観点からすると
 まったく満たされないもので、
 そして実体がなく、
 しがみつけるものも与えてはくれない。
 自分の生の経験に
 縛られているように感じる人もいるだろう。
 ところが経験に触れたとたん、
 経験は溶け去る。
 自由は見つけださなければいけないものだと
 わたしたちは考えている。
 本当のところ、
 自由のほかには何も存在していない。
 
 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p46-47)
──────────────────

誰にも覚えがあるはずの

人しれぬ空想の楽しさ、恥ずかしさ。

空想にふけるほど

わくわくすることはほかに何もないかもしれない。

空想とは、いまこの瞬間の経験を

親密に感じることを避ける試みのこと。

それは自分を自分の現実から阻害する

欲求とも言える。

しかしその欲求が実現する見込みはない。

それは単に欲求のための欲求、

欲望の対象から永遠に離れていたい

という欲求だということはないだろうか?

> 生きるという経験がせつないのは、
> それが「しがみつけない」ことで
> 成り立っているからだ。

わたしたちは絶対の自由だ。

どんなものであることもできる。

しかも、それに拘束されてはいない。

どんな経験も「わたし」に起こっている。

経験に気づいている「わたし」なしには

どんな経験もありえない。

しかも「わたし」は

どんな経験にも拘束されていない。

「わたし」はどんな経験からも自由なのだ。

これがあるがままの現実だ。

これ以上の状況がありうるだろうか?

> 自由は見つけださなければいけないものだと
> わたしたちは考えている。
> 本当のところ、
> 自由のほかには何も存在していない。

【自由のほかには何も存在していない。】

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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  ………○…………○…………○………

キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

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■ 2.編集後記:
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【わたしたちは、
 逃れようとしているまさにそのものを探し求め、
 探し求めているまさにそのものから逃げている。】

この状況が納得され、

このことがマインドに浸透してくると

わたしたちはこれ以上もがくことができなくなる。

こうしてジェニファー・マシューズの

「哲学的理解」に触れられるのは

ありがたいことです。(-||-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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