home > 通信 >太陽(J.J.マシューズ):『アセンション館通信』第1026号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/12/17(第1026号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.太陽(J.J.マシューズ)

2.編集後記
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■1.太陽(J.J.マシューズ)
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今日はまた特別に暖かい日でした。

暖冬異変とはまさにこれかという感じ。

一日が過ぎてゆくのが速い。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?

ヒロさんが翻訳されたジェニファー・マシューズの

『ただそのままでいるための超簡約指南』

の「虹」の次の章は「太陽」といいます。

この小冊子の中では一番長い章です。

ジェニファー・マシューズという方は

それでなくてもとても頭の回転の速い方ですが、

特にこの「太陽」という章では

専門領域の哲学的内容を扱っているため、

背景にある彼女の素養がちょっと深すぎて (*^_^*)

著者が軽く触れたつもりの論理展開の意味合いを

ちょっと追従しきれないところがあります。

なのでこの4番目の章の「太陽」は全文ではなく

気分的にその論理的意味合いが腑に落ちる部分だけ

つまみ食いでご紹介することにします。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 太陽


  太陽を見ているわけではない。
  太陽を見ている目を見ているのだ。
        アルトゥル・ショーペンハウアー

 野心を追求するため、
 空想にふけるため、
 もしくは少なくとも
 不快さを避けるために生きているとき、
 わたしたちは不満を経験する。
 どうして自己超越という貴い目標に向かって
 生き生きられないのか?
 これは重要な問いだし、
 この問いを徹底的に検討してみるといいと思う。
 ここで検討の対象になるのは、
 個として根本的に閉じられた自分が
 存在するという思い込み、
 苦しみの原因になっているその思い込みだ。

 自分は存在しているんだろうか?
 その性質はどんなものだろう? 
 なぜそれはみずからを
 超越しなきゃいけないのか?
 自分を超越するといっても、
 正確にどっちの方角に向かって?
 自分を特定するのが難しいのは、
 どこを向いてもそこいらじゅう
 自分であるように見えるからだ。
 引用したショーペンハウアーの言葉が
 みごとに表現しているとおり、
 どこを見ても、
 見えるのは自分の視覚、
 自分自身の知覚だ。
 自分のパートナーすら見えていない。
 見えているのはパートナーについての
 自分の知覚にすぎない。
 「他者は自分が知覚する限りにおいてのみ
  存在している」
 と言うこともできるだろう。
 でもそれは、
 言語の構造にたぶん少し
 騙されているんじゃないだろうか。


 自分の知覚を介してしか別の人を
 とらえられないというのは事実だ。
 イカボッド・ジョーンズという名前の
 人物をとらえようとするなら、
 見るか、触れるか、聴くか、もしくは
 (できればこれは避けたいところだけど)
 においを嗅ぐしかない。
 それから彼について誰かと話しあうこともできる。
 でも話をするにしても、
 自分の聴覚と視覚が関わってくる。
 自分の経験を超えた、
 あるいは経験の外側に存在するような
 場所で彼をとらえることは、
 単純に不可能だ。

 経験は、
 自分と他者が現れる唯一の場だ。
 「経験」とは
 ものごとが現れるありさまを表す別名だ。
 ものごとは、
 視覚、聴覚、嗅覚といった感覚が
 一定のやり方ではたらくことによって現れる。
 自分自身の経験の外側で
 何かを経験することがない以上、
 経験とはかなり総体的な概念だ
 ということになりそうだ。
 だいたい、
 それに名前を付ける必要なんてあるんだろうか?
 まるで「調子はどう?」と誰かに尋ねたら、
 「何と比べて?」と聞き返されたようなものだ。
 魚が水を言い表そうとするのに
 近いんじゃないだろうか。

 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p49-50)
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>  太陽を見ているわけではない。
>  太陽を見ている目を見ているのだ。
>        アルトゥル・ショーペンハウアー

このショーペンハウアーの言葉の意味合いは

前の章の「虹」で明かされていました。

つまり、

われわれが視覚的に見ている色彩現象は

実際は透明な光の分光現象を知覚している

にすぎないということ。

知覚はあえて言えば「目」のなかで起こっており、

必ずしも客観的な対象物の存在を

意味するものではないこと。

たとえば、太陽の光を見ているとき、

客観的な対象物としての太陽を見ているわけではなく、

太陽を見ているというその目に起こる

信号の解読にすぎないのだと。

> 野心を追求するため、
> 空想にふけるため、
> もしくは少なくとも
> 不快さを避けるために生きているとき、
> わたしたちは不満を経験する。

ジェニファー・マシューズは

われわれが不満を経験するのは、

知覚現象として起こる「見かけ」を

客観的に存在する対象物だという前提に基づいて

その「見かけ」を解釈するなかで

野心を追求したり、空想にふけったり、

あるいは不快さを避けるために生きている

そういうときだというわけです。

これは間違いないでしょう。

> ここで検討の対象になるのは、
> 個として根本的に閉じられた自分が
> 存在するという思い込み、
> 苦しみの原因になっているその思い込みだ。

その不満を経験する状況を見るときに

検討すべきなのは、

「苦しみの原因になっている」その

「個として根本的に閉じられた自分」というのが

存在しているという「思い込み」だというのです。

> 自分は存在しているんだろうか?
> その性質はどんなものだろう? 
> なぜそれはみずからを
> 超越しなきゃいけないのか?
> 自分を超越するといっても、
> 正確にどっちの方角に向かって?
> 自分を特定するのが難しいのは、
> どこを向いてもそこいらじゅう
> 自分であるように見えるからだ。
> 引用したショーペンハウアーの言葉が
> みごとに表現しているとおり、
> どこを見ても、
> 見えるのは自分の視覚、
> 自分自身の知覚だ。
> 自分のパートナーすら見えていない。
> 見えているのはパートナーについての
> 自分の知覚にすぎない。

その「自分」というのは本当に存在しているのか?

その自分を超越するといっても、

特定すら難しいその「閉じられた自分」を

どっちの方角に向かって超越するのか?

というのも

どこを向いても見えているのはすべて

自分の知覚にすぎないではないか。

そもそも“別の人”をとらえると言っても

それは

見るか、触れるか、聴くか、においを嗅ぐしかない。

その“別の人”と話すにしたところで

それだって自分の聴覚と視覚が関わってくる。

自分の経験の外側に存在するような場所で

その“別の人”をとらえるなど不可能だ。

要するに、

ものごとはすべて

視覚、聴覚、嗅覚といった感覚のたらきの

なかに現れている。

自分自身の経験の外側で

何かを経験することなどありえない、というわけです。

ジェニファー・マシューズはここで

【空間と時間の経験は
 世界の側から生じるのではない。
 それは人間の精神が
 経験を組み立てるやり方から生まれる。】

と喝破することで

哲学の世界にコペルニクス的転回を起こした

イマヌエル・カントに触れたり、

知覚と知覚から切り離されたものごと自体は、

同一のものだと断言する立場、

(たとえば、現象学者のエトムント・フッサール)

に触れたり、さらには

「唯物論的」立場や「唯心論的」立場に触れた後で、

そういう考えを額面どおりに受け取ったとしても、

その知覚が自分の「目」という場所で

起こっているとどうして断定できるのか?

と疑問を呈します。

(と言ってもすべて軽いですが。)

そしてルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインや

ダグラス・ハーディングに触れて、

そういう経験が頭の中で起こっているとは限らない

可能性にも言及します。

そして、疑問の余地なく

唯一存在している「もの」は

この「経験」だけだと言うのです。

そしてその理由を

【「経験」とは、
 単にそれを外側から描写できるような場所が
 存在していないために、
 表現することも定義することもできないもの】

だからだというわけです。

実際に起っているのは「経験(すること)」だけで、

その経験の他に経験の主体や所有者が

存在する余地などないと。

そして改めて、

通常われわれが

「経験を自分と自分じゃないものに不自然に分けている」

ことに注意を喚起します。

実際に起っている経験のなかで

そんな境界線を見つけることができるのか?と。

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 自分と自分じゃないものの境界線は、
 そんなにはっきりしていないのではないだろうか。
 体は自分?
 吸い込んでいる空気は?

 自分について
 すごく熱心に知ろうとすることはよくあるけれど、
 そんなとき、
 立ち止まって意識することもなく、
 経験の一部だけが自分で、
 それ以外は自分じゃないと恣意的に分けている。
 単純な例だけど、
 天気のいい日はふつう気分がよくなる。
 少なくともニューイングランド地方ではそうだ。
 北欧の人たちにいたっては、
 ほとんど躁状態になるらしい。
 いい気分と日光を
 別のものとして分けて扱う理由がどこにあるだろう?
 いい気分はなぜか自分に属していて、
 日光はどういうわけかそうじゃない
 とする絶対的な理由なんてあるんだろうか。

 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p61)
──────────────────

これは面白いです。

身体は自分だけど、

吸い込んでいる空気は自分じゃないなんて言える?

日が出て気分が明るくなったとき、

【いい気分はなぜか自分に属していて、
 日光はどういうわけかそうじゃない
 とする絶対的な理由なんてあるんだろうか。】

と。

──────────────────
 現実は経験とは別に
 経験と関係なく存在している、
 という考え方はすでに手放した。
 知覚とは
 うっすらと鏡に映るものを見ているようなもの
 だと考えている人も、
 わたしたちがその鏡から出ることはない
 という点は認めないわけにいかないだろう。
 だからそういう考えはそのままにしておこう。
 現実の経験が、
 どこまでいっても唯一の現実だ。
 どこか別の場所に
 本当の現実があるなんてことはない。

 それから、
 経験はそれを経験する個人のものじゃない
 ってこともわかった。
 経験している個人がいるという見方もまた、
 経験には外側があるとか、
 経験とは別の何かがある
 ということにつながる出口だ。
 つまり内側の出口
 (自分、心、頭、脳、無意識、魂)
 が、外側の出口
 (他者の心、世界、未来、過去、「現実」、外界)
 を覆うように向かい合って存在するという見方だ。

 「自分運動」は、
 ひいき目に見てもそれほど必要なものじゃない。
 それは経験を捨て去ろうとする
 ばかげた努力になりかねないし、
 最悪の場合には怪物を生みだしてしまう。
 実際の経験とは別のところに
 自分や自分の境遇が存在していると想定して、
 そうやって想定したものを
 「修繕」したがるようになる。
 実際の経験には、
 自分も自分の境遇も存在していない。
 実際の経験だけが唯一存在している「もの」だ。

 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p62-63)
──────────────────

ここでジェニファー・マシューズが確信しているのは、

(1)「経験」以外の他の何処かに

 「現実」が存在するということはないこと。

(2)経験には外側があるとか、

 経験とは別の何かがあることを明示できない以上、

 「経験」している個人が存在する余地はないこと。

(3)けっきょく、実際の経験には、

 自分も自分の境遇も存在していない。

 実際の経験だけが唯一存在している「もの」だ

 ということです。

──────────────────
 「自分運動」をしているとき、
 実際に見て、聴いて、感じていること
 (それはつねに消え、つねに散っていく)
 をかえりみず、
 そのかわりに
 わたしたちはいろいろな概念を採り入れる。
 そういう概念はきれいに首尾一貫してはいても、
 じつは単なる約束ごとにすぎない。
 経験をただ見ているとき、
 経験をよく観察しているとき、
 そこにどんな自分も見いだすことはできない。
 実際、経験を取捨選択しないで
 注意深く見守っていれば、
 ゆっくりとわかってくる。
 誰も存在していなかったんだと。

 『ただそのままでいるための超簡約指南』(p63-64)
──────────────────

【実際、経験を取捨選択しないで
 注意深く見守っていれば、
 ゆっくりとわかってくる。
 誰も存在していなかったんだと。】

ジェニファー・マシューズは

こういう理解を哲学的に「理解できる」

と教えてくれているわけです。

ありがたい。

あとは起こってくる感情をただ抱きしめるだけ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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読み物として面白ければと思っています。

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■ 2.編集後記:
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ジェニファー・マシューズは

瞑想とか修行とかそういうことは言いません。

「哲学的に理解できる」というわけです。

実際、雲間から日差しが現れて

一瞬気持ちが明るくなる瞬間の経験を、

「明るい気分」は“自分”だけど、

「太陽」は“自分”じゃないという境界線を

引けるどんな絶対的基準がありうるでしょうか?

知覚の対象はすべて自分ではないか、

あるいはすべての経験が自分であるかの

どちらかでしょうね。

すると経験することだけがあって、

経験している主体も経験される対象物も

ただの観念にすぎないことが

自明にならざるをえないわけでしょう。

ありがたいことです。(-||-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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