━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/2/18(第1035号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.私はいる:『ALL IS WELL』(1)J.Matthews
2.編集後記
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■1.私はいる:『ALL IS WELL』(1)J.Matthews
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思考が作る物語はもういい、と感じたら、
その物語から降りて、
物語がただ流れ去るにまかせてもいい。
手放せるものはすべて手放してしまいたい。
すべて手放して、それでも残るものがあるのなら、
それならそれでもいい。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
何回かにわたって
ジェニファー・マシューズの超圧縮表現
『Truth Is(真理は在る)』をご紹介しました。
これは彼女の2017年の表現でした。
『Truth Is』が終わってしまったので、
探してみたら次の作品が見つかりました。
『ALL IS WELL』という作品です。
『すべてよし』とでもいう感じでしょうか。
これは彼女の2018年の表現です。
目次は、こんな感じです。
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著者のメモ
1.私は在る
2.現れ
3.意志
4.世界
5.真理の光
6.霊的実践
7.平安
8.実現
9.悟り
10.宇宙
11.夢
12.基盤
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今度はこの作品をご紹介したいと思います。
ほんとうは
『ただそのままでいるための超簡約指南』を翻訳された
ヒロさんが翻訳してくださるとありがたいのだけれど、
彼はもうスピリチュアルブックは翻訳しないと
おっしゃっているので、それは望めません。
いろいろ考えていると面倒になったので、
相変わらずジェニファー・マシューズさん
ご本人には無断でご紹介します。
これは地上の常識では、良くないことかもしれません。
でも現れはすべて夢であるというなら、
夢のなかの個人など存在しないようなものですから、
まあ、許す人も許されるべき人もいないわけです。
わたしはあなた、あなたはわたしです。(^_-)
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著者のメモ
悟りを開いた教師たちは、
悟りとは複雑な問題の解決策を発見する
というようなことではないと断言する。
それは単に自明なことを認めるだけのことだ、
と彼らは言う。
このような教師たちは、
その偉大な実現を体験すると、
その発見のあまりの自明さに笑ってしまう。
まるでその真理が
目に見えるところに隠れていたかのように。
そして、
それまでの探求のバカバカしさにも笑ってしまう。
では、
そういう教師たちは何を発見したのだろうか?
本書は、
言葉で表現できる範囲で、
この疑問に答えようとする試みである。
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ジェニファー・マシューズの理解は
このような表現に挑戦せずには
いられない状況に至っていたのでしょう。
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1.私は在る
私とは「私」が探し求めてきた者。
私とは不変で不可測の一者。
私とは無限で、不滅の「愛」。
私とは存在する唯一のもの。
私は光り輝く闇であり、
心乱されることのない深淵である。
私は世界という夢を夢見る者であり、
夢の彼方に存在する計り知れぬ者だ。
私とは純粋な自由である。
なんとすばらしいことか!
すべてが私でありながら、
しかもけっして孤独ではない。
無限の愛、無限の平安、無限の至福が
つねに私のハートのなかで輝いている。
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> 私とは「私」が探し求めてきた者。
わたしが探し求めていたものとは、
何かを探し求めているこのわたし自身だった。
何かを探し求めているこのわたし自身のほかに、
実際に存在しているものは何もなかった。
> 私とは不変で不可測の一者。
> 私とは無限で、不滅の「愛」。
> 私とは存在する唯一のもの。
わたしこそが永遠の不動として実在している
計り知ることのできない唯一の存在だった。
わたしに限界はない。
わたしは永遠不滅の「気づき」であり、
永遠不滅の「愛」だ。
わたしは存在するすべてであり、
唯一わたしだけが存在している。
> 私は光り輝く闇であり、
> 心乱されることのない深淵である。
わたしは底知れぬ闇。
わたしはすべての現れを照らし出す光。
いかなる現れも、
それを照らし出す底知れぬ深淵であるわたしに
どんな影響も及ぼすことはできない。
> 私は世界という夢を夢見る者であり、
> 夢の彼方に存在する計り知れぬ者だ。
> 私とは純粋な自由である。
わたしは世界という幻影を照らし出す者であり、
その幻影を観照している者だ。
照らし出された幻影のなかのいかなる者も
照らし出すわたしを推し計ることはできない。
わたしはそれらの夢の彼方に存在している。
わたしはあらゆる幻影を照らし出し、
それらの幻影のなかに身を置くこともできるが、
しかもけっして
いかなる幻影によっても拘束されていない。
わたしは純然たる自由だ。
> なんとすばらしいことか!
> すべてが私でありながら、
> しかもけっして孤独ではない。
> 無限の愛、無限の平安、無限の至福が
> つねに私のハートのなかで輝いている。
なんという万能、なんという自由!
なんとすばらしいことか!
存在するすべてがわたしであり、
わたし以外に何ひとつ存在していないにもかかわらず、
わたしはけっして孤独ではない。
ありとあらゆる幻影を照らし出しながら、
わたしのハートにはそれらに対する
無限の愛、無限の平安、無限の至福が輝いている。
──────────────────
2.現れ
私はシャボン玉のようなもの。
私の虹色の表面は可能性に溢れて見える。
あたかもそこに無限の形態があるかのように。
万華鏡のなかのガラス玉のように、
そこには可能性の遊びがある。
万華鏡に軽く触れれば、
そこには新しいパターンができるが、
使われているのはつねに同じガラス玉だ。
それは意識が自らを認識しているだけ。
すべては愛が自らを愛しているだけ。
いま、それは草原に見え、
いま、それは山に見える。
いま、それは見知らぬ他人、
いま、それは最愛の友。
シャボン玉の表面を流れる虹色の輝きは、
見る者の目のなかにしかない。
それは現れの無邪気な戯れ。
光は透明な表面で屈折し、
目は赤、青、緑と解釈する。
私はこれらの形のひとつと一体化して見えるが、
そこに別個の自分がいるわけではない。
流れは自分から自分を切り離すことなどできない。
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> 私はシャボン玉のようなもの。
> 私の虹色の表面は可能性に溢れて見える。
> あたかもそこに無限の形態があるかのように。
> 万華鏡のなかのガラス玉のように、
> そこには可能性の遊びがある。
> 万華鏡に軽く触れれば、
> そこには新しいパターンができるが、
> 使われているのはいつも同じガラスビーズだ。
シャボン玉の表面を虹色の模様が流れるように、
わたしのなかにも
無限の形態が照らし出され、流動している。
それは万華鏡のなかの
ガラス玉が作る可能性の遊びのようなもの。
万華鏡にちょっと触れるだけで
さまざまな新しい模様が浮かび上がるが、
実際はそれを演じているのはいつも同じガラス玉。
> それは意識が自らを認識しているだけ。
> すべては愛が自らを愛しているだけ。
> いま、それは草原に見え、
> いま、それは山に見える。
> いま、それは見知らぬ他人、
> いま、それは最愛の友。
> シャボン玉の表面を流れる虹色の輝きは、
> 見る者の目のなかにしかない。
> それは現れの無邪気な戯れ。
> 光は透明な表面で屈折し、
> 目は赤、青、緑と解釈する。
> 私はこれらの形のひとつと一体化して見えるが、
> そこに別個の自分がいるわけではない。
> 流れは自分から自分を切り離すことなどできない。
底知れぬ深淵であるわたしのなかで
照らし出される無限の状況は、
すべて唯一の実在である永遠の不動が、
つまり<気づき>が照らし出す一場の夢。
<愛>が意識の内容を眺めて、
<愛>が自らを愛しているだけ。
一瞬、それは草原の広がりを見せたかと思えば、
次の瞬間には、
それは山となってそびえ立っている。
シャボン玉の表面を流れる虹色の模様のように、
それは見る者の目のなかにしか存在しない。
それは何の意味もない無邪気な現れ。
その模様は見る者の目のなかで意味をもち、
その意味に一体化する“者”も現れるが、
実際にそこに誰かがいるわけではない。
シャボン玉の表面を流れる虹色の模様のなかに、
実際にその流れから独立した
“誰か”がいるはずもないように。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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読み物として面白ければと思っています。
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■ 2.編集後記:
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形態に対する一体化が
つねに架空の「個」を生み出し、
架空の苦しみを作り出して、
経験を苦しむのですね。
もっとも、
地球のわれわれが望むことすら忌避するのは、
疲れすぎているのが原因だそうですが。(^_-)
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無欲が智慧である。
二つは別のものではない。
それは同じである。
無欲とは、
心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
智慧とは、
何の対象物も現れないことを意味している。
言い換えれば、
真我以外の何ものも求めないことが
無執着あるいは無欲であり、
真我をけっして離れないことが智慧である。
『あるがままに』(p405-406)
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(-||-)
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(__)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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