━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/3/31(第1041号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
今いる場を離れず、仕事を続けなさい。心に生気を与え、
あらゆる仕事をこなすようにさせる何かが根底に流れています。
それは何でしょうか? 真我です。真我こそがあなたの活動性の
真の源なのです。仕事をしている間も、ただそれに気づいていなさい。
(『真我』ラマナ・マハルシ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.対象物との同一化:『真我』(3)
2.編集後記
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■1.対象物との同一化:『真我』(3)
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ずいぶん久しぶりに風邪を引きました。
このところ近親に不幸があったりして
春の嵐とでも言うのか、
乱気流に巻き込まれてかなり難渋しました。
夢のなかでもいろいろな場面がありますね。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
ちょっと舞い上がると
かなりひどく沈まなければならない。
ありがちなことです。
福間巌さんがラマナ・マハルシの
教えの核心だけを厳選して編んだ編集本
『真我』を読んでいます。
前回ご紹介した「第二章 真我探求・実践」の
前回に続いた部分をご紹介します。
ここには「自我」がどんなふうに現れるかが
描写されていました。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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対象物との同一化
絶対的な真我が存在します。
そして、
炎から火花が飛び散るように
真我から閃光が発せられます。
この閃光が自我と呼ばれるものです。
無知な人の場合、
自我は現れると同ときに、
それ自身を一つの対象物と同一化します。
それは対象物との関わりに依存せずには
存続することができません。
この関わり合いが無知であり、
その破壊が私たちの努力の目標です。
もし対象物との同一化の傾向がなくなれば、
自我は純粋なままとどまり、
源へと融け去ります。
身体との誤った同一化が
「私は身体だ」という観念です。
良い結果が現れる前に、
まずこの観念が去らなければなりません。
『真我』(p86)
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> 絶対的な真我が存在します。
> そして、
> 炎から火花が飛び散るように
> 真我から閃光が発せられます。
> この閃光が自我と呼ばれるものです。
前にラマナ・マハルシは、
「真我」は現象界の何ものとも
どんな関係も持たないと言っていました。
しかし
現象界の“種”とも言える「自我」は
その「真我」から迸り出た
閃光のようなものだったのですね。
「真我」から閃光がほとばしり出て、
その閃光が“種”となって現象界という
二元性の幻影が生まれていたようです。
そういうものだったのですね。(@_@)
「真我」から発せられたこの閃光には
途方もない幻力があって、
われわれはその幻力のあやかしの中で
経験を苦しんでいたわけです。
> 無知な人の場合、
> 自我は現れると同時に、
> それ自身を一つの対象物と同一化します。
> それは対象物との関わりに依存せずには
> 存続することができません。
われわれのように普通の人間の場合は、
「真我」からこの「自我」という閃光が
放出されるやいなや
対象物との一体化が起こってしまうようです。
また対象物という粗大な何かと一体化せずには
「自我」のほうは単独では生き延びられないらしい。
ラメッシ・バルセカールのいう「聖なる催眠」とは
そのような仕組みで機能する働きであるようです。
> この関わり合いが無知であり、
> その破壊が私たちの努力の目標です。
対象物との一体化を「無知」と言い、
この「無知」を打ち破ることが
われわれの努力の目標であるようです。
となると、やっぱり、
現象に興味を感じているうちは、
この「無知」を打ち破ることなど
起こるはずもないわけです。
> もし対象物との同一化の傾向がなくなれば、
> 自我は純粋なままとどまり、
> 源へと融け去ります。
【対象物との同一化の傾向】とは、
一言で言うなら
現象への興味ということでしょうね。
現象への興味・関心がまったく消え失せて初めて、
「真我」から放出される火花は
純粋な火花のまま消えてゆくことができる。
> 身体との誤った同一化が
> 「私は身体だ」という観念です。
> 良い結果が現れる前に、
> まずこの観念が去らなければなりません。
「真我」からほとばしり出た純粋な火花のままで
「自我」に消え失せてもらうためには、
まず「私は身体だ」という観念に
崩壊してもらわなければならない。
「私は身体だ」という誤った観念が健在なうちは
「自我」という「真我」の火花は、
たちまち対象物という粗大な根拠に掴まって
その幻力を確立してしまうのでしょう。
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二つの想念の合間
純粋な形態の「私」は二つの状態
あるいは二つの想念の合間に体験されます。
自我まず一点をつかんでおいてから
もう一点を離れる尺取り虫のようなものです。
その真の本性は、
対象物あるいは想念との接触を断ち切られたときに
明らかになるのです。
『真我』(p86)
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「私」という観念の真の姿
あるいは「私」の儚(はかな)さそのものは、
想念と想念の合間で赤裸々に露呈されるようです。
一つの対象物と一体化した「自我」は、
尺取り虫のように
次の対象物を掴むまではその対象物を離さない。
だから想念と想念の合間では
「自我」は実際は何にも掴まっていない。
その瞬間が
「自我」が一番危険に身をさらしているのですね。
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客観的な世界は主観的意識の中にある
不幸は対象物を知覚することによって起こります。
もし知覚されるものがなければ、
それによって引き起こされる想念もなく、
不幸も一掃されるでしょう。
「どうすれば対象物が消え去るのか?」
が次の問題です。
聖典や聖者は、
「対象物はただの精神的創造物にすぎない」
と言っています。
それらは実質的な存在を持たないのです。
物質を調べてみなさい。
そして、
この声明の真実性を確かめなさい。
すると、
「客観的な世界は主観的意識の中にある」
という結論に達するでしょう。
それゆえ、
真我こそが世界に浸透し、
それを包み込む唯一の実在なのです。
そこに二元性は存在せず、
それゆえあなたの平和を妨げる想念も起こりません。
これが真我実現です。
真我は永遠であり、
その実現もまた永遠のものです。
『真我』(p87)
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> 不幸は対象物を知覚することによって起こります。
「自我」の幻力のなかで
対象物が実体として客観的に存在して見えるために
もろもろの体験の苦しみが起こるわけです。
> もし知覚されるものがなければ、
> それによって引き起こされる想念もなく、
> 不幸も一掃されるでしょう。
「真我」からほとばしり出た火花が
ただの火花として見なされて
そこにどんな想像も重ねられなければ、
「自我」の幻力は実体化せず
ただの一瞬の火花のままで消えてゆくことが
できるのでしょう。
そうすればわれわれはどんな想像のなかに
苦しむことも起こらないわけです。
> 「どうすれば対象物が消え去るのか?」
> が次の問題です。
では、「真我」からほとばしり出た火花に
どうやってただの純真な火花のままに
消えていってもらうことができるのか?
それが次の問題です。
> 聖典や聖者は、
> 「対象物はただの精神的創造物にすぎない」
> と言っています。
> それらは実質的な存在を持たないのです。
古来、聖典や聖者たちによって
【“対象物”というのは単なる精神的なイメージ】
にすぎないと語られてきているようです。
“対象物”とは想像のなかで生まれた観念にすぎず
そこにはいかなる実体的存在もないのだと。
ニサルガダッタ・マハラジも、
「そういったイメージの創造は、
『自分』と『他人』という二元論的区別の
機能のせいである」と語っていました。
空想の上に空想を重ねることで
一瞬のうちにこの「聖なる催眠」の幻力が
創造されるのでしょう。
> 物質を調べてみなさい。
> そして、
> この声明の真実性を確かめなさい。
一瞬のうちに形成されるこの空想が
物質そのものの“実体化”までさせていたのですね。
そしてわれわれはその“実体化”した物質を根拠に
“自分”の想像を主張したりさえ始めるのでしょう。
迷中又迷(めいちゅうゆうめい)の漢ありです。
> すると、
> 「客観的な世界は主観的意識の中にある」
> という結論に達するでしょう。
要するに、
「客観的な世界」とは
「主観的意識の中にある」のです。
> それゆえ、
> 真我こそが世界に浸透し、
> それを包み込む唯一の実在なのです。
現れている世界のなかに在る唯一の実在は
「真我」以外には何ひとつ存在しないわけです。
映画はすべて
スクリーン上に踊っている幻像にすぎなかった。
> そこに二元性は存在せず、
> それゆえあなたの平和を妨げる想念も起こりません。
二元性はすべて想像のなかにしかなく、
自らの想像のなかで苦しむ必要はなかったのです。
> これが真我実現です。
真我実現とはそれ以上のものではありません。
> 真我は永遠であり、
> その実現もまた永遠のものです。
「真我」は永遠に実現されており、
苦しみとは
その「真我」からほとばしり出る閃光のなかで
一瞬の想像を巡らすことでしかなかった。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
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■ 2.編集後記:
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苦しむ者にはどんな実体もありません。
その苦しみを止めてくれる人もいません。
すべては一瞬の夢として現成するだけです。
苦しむ者はいない。
ただそれを観ている<気づき>が在るだけです。
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(__)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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