━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/6/30(第1054号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
目覚めの瞬間の純粋な「私」をとらえなさい。
必要なのは、想念が起こる前の純粋な「私」に
注意を固定させ、それを手放さないことです。
なぜなら、純粋な「私」が真我だからです。(『真我』R・マハルシ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.物の本質:PFNM(R.Barsekar)
2.編集後記
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■1.物の本質:PFNM(R.Barsekar)
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夢(現象)のなかでは一日一日状況が動きます。
このごろではときには
「コマ落ちで状況が変化してない?」(@_@)
という気がすることがあるほどです。
それでもなおかつエゴは対応しようとする……。
それが「聖なる催眠」の桎梏の強さなのでしょう。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
わが家にやってきた2羽のネラは
毎日それぞれ1個つずつ計2個の卵を
産んでくれています。
その労に報いるためにこちらも
彼女たちの居住環境の改善に努めています。
このところ雨の日が多い。(>_<)
なのでまずいちばんの問題は
デッキ下の鶏舎空間への雨漏りですね。
デッキ下が乾いた環境になりません。
新しい藁を敷こうが、鶏糞を外に出そうが、
鶏舎の土間の床がビショビショになってしまっては
なんとも惨めな感じです。
清潔な感じにはまるでなりません。
でも、pariがネラたちのために良かれと
願って努力していることは伝わっているらしく、
彼女たちとの信頼関係は築けているようです。
この一週間の一番の変化は、
デッキ下の鶏舎空間のその外側に
彼女たちが自由に動ける運動空間、
いわゆる「庭鳥(にわとり)」の
庭に当たるものを作って、
そこに彼女たちを開放したことです。
敷地の西側の外にあった現在用をなしていない
古い針金のメッシュを取り外して、
それを竹の柵で囲って運動空間を作ったのです。
まだまだ未完成だと思っていたのに、
あるとき気づいたら2羽とも鶏舎の外に出ていた!
そしてその未完成のメッシュ柵の内側で
落ち着いて草をついばんでいるのです。
なんと、柵の弱点を突いて
その外に出ようなどとはまったく思っていない。
たぶん、ここに移ってくる前に経験した
養鶏場の居住環境のためなのかもしれません。
自分たちが飛べるなどということを
まったく知らないのではないか。
それなら、ある意味、こちらもやりやすい。(*^_^*)
それからは毎日、朝の餌やりに行って
デッキ下に置いてある屋根付き鶏舎から出すとき、
そのままデッキ下の鶏舎空間の扉自体を開放して、
一日中、自由に外で遊ばせています。
向こうも楽、こちらも楽で、
お互いにストレスのないWinWinの状態です。
暑い日は二羽とも椿の木の木陰で土を掘って
それぞれ自分が掘った穴のなかで休んでいます。
地面の涼しさが気持ちがいいのでしょう。
夢のなかというのは
実際にその場面が来てみないことには、
どういうことが起こるのかわからないものですね。
ま、そういうわけで、
pariという精神身体構造の日課の一部に
鶏の糞の掃除が加わったということです。
pariという身体は、
まあそういうことのために誕生させられた
精神身体構造だったということでしょう。
朝方、トイレに起きたあとで、
久しぶりにラメッシ・バルセカールの
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
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を開いてみたくなりました。
いくつかの節を眺めたあとで
「7 ジニャーニは世界をどう見るのか?」
という節の中に、
こんな記述を発見しました。
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訪問者
ここにいた日々は残念ながら
あまりに早く死に去ってしまいましたが、
あなたが話している間、
その言葉がまるでその背後に何の準備もなく
それ自身で現れていたようなとき、
あなたの前に座っている人たちも含めて、
あなたの目が見る物をあなたはどう見るのだろうかと、
私は考えていました。
今日は今回の訪問の最終日なので、
私は思い切ってこのかなり愚かな質問を
しようと考えたのです。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p51-52)
──────────────────
なるほど。
この方は今回の訪問を終えて立ち去るにあたって、
ジニャーニや前列に座っている高弟たちは
すべてのものをどんな観点から見ているのだろう?
という思いが溢れてきたのでしょうね。
──────────────────
マハラジ
そもそもなぜあなたは、
私があなたを物として見ていると考えるのだろうか?
あなたが見逃しているある特別な意味をもって
私は物事を見ると、
あなたは想定している。
しかし、
それがあなたの本当の質問ではない。
あなたの質問は本質的にはたぶんこういうことだ
──物事を正しく見ているはずのジニャーニは、
物事をどう認識しているのか?
覚えておくべきことは、
物とはそれらを認識することそのものである
ということだ。
反対に言えば、
物を認識することがすべての物の本質である。
このことを理解してみなさい。
ある物が物として見られるとき、
対象物以外に主体がなければならない。
ジニャーニが認識するとき、
見る主体もなければ見られる対象物もなく、
ただ「見る」ことだけがある。
言い換えるなら、
ジニャーニの認識は、
感覚能力によるどんな解釈よりも以前にあるのだ。
仮に対象物化という普通のプロセスが起こるにしても、
ジニャーニはこの事実に気づき、
偽物を偽物と見る。
ジニャーニはその分割されないビジョンの中で、
物理的には見る者と見られる者はともに対象物であり、
意識の機能それ自身が
意識の中に単に結果を生み出しているだけである
ことを認識している。
結果を生み出すことと認識の両方が意識によって、
意識の中で為されている。
このことを理解するように努めなさい
短く言えば、
ジニャーニが見ることは全体的に見ること、
ないし内側を見ること、
直感的に見ること、
対象的どんな質ももたずに見ることだ──
それが束縛からの自由である。
それが、
私が「私は見るが、私は見ない」と言うとき、
言わんとしていることだ。
そして、
これがあなたの愚かな質問に対する愚かな答えである。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p52-53)
──────────────────
> そもそもなぜあなたは、
> 私があなたを物として見ていると考えるのだろうか?
pariの場合は
すぐにはこの反問の意味が取れませんでした。
ここには【物として見ている】
という言い方が含まれていたのですね。
> あなたが見逃しているある特別な意味をもって
> 私は物事を見ると、
> あなたは想定している。
たしかに。
> しかし、
> それがあなたの本当の質問ではない。
> あなたの質問は本質的にはたぶんこういうことだ
> ──物事を正しく見ているはずのジニャーニは、
> 物事をどう認識しているのか?
まさにそういうことでしょうね。
> 覚えておくべきことは、
> 物とはそれらを認識することそのものである
> ということだ。
ここでもまたpariは
すぐにはその意味合いを捕捉できませんでした。
【物とはそれらを認識することそのもの】
ナンノコッチャですよね。(^_-)
> 反対に言えば、
> 物を認識することがすべての物の本質である。
> このことを理解してみなさい。
【物を認識することがすべての物の本質である】
あーあ。(*_*) ⌒★?
そういうことか……。(-_-;)
物を認識した時点ですでに勝負はついている。
言葉を換えて言うなら、
「聖なる催眠」の手の内に落ちている
ということなのでしょう。
なぜなら、
「物」とは「物を認識すること」だからだ、
というわけです。
この同じことが
ミナミAアシュタールの語法では
「あなたが知覚する物理的現象はすべて
あなたの思考エネルギーが投影するホログラムです」
と表現されるのでしょう。
物として認識されることによって
物は存在している。
「物」というものには
「物として認識される」ということ以外の
いかなる実体もない、と。
> ある物が物として見られるとき、
> 対象物以外に主体がなければならない。
われわれがある物を物として見たとき、
そのように見られたその物は、
見ているわれわれとは別の物になる。
つまり「見る」ということが
暗に(見ている主体とは別の)
客観的に存在している“対象物”を誕生させ、
いつの間にかそこに「見る者」が現れ、
その「見る者」はすでに
主体と客体が存在する世界に移行している、
というわけなのでしょう。
しかし、
> ジニャーニが認識するとき、
> 見る主体もなければ見られる対象物もなく、
> ただ「見る」ことだけがある。
ジニャーニはそこに
見る主体も見られる対象物も認識しない。
ただ「見る」ことだけがある。
> 言い換えるなら、
> ジニャーニの認識は、
> 感覚能力によるどんな解釈よりも以前にあるのだ。
この認識を思考が四六時中演出することは
原理的にできません。(*^_^*)
なぜなら、思考自体が
すでに知覚の対象物だからです。
でも、そういうことが起こる必要があるときには、
そういうことも起きるわけです。
たとえば、
ここでそれが起こっているように。(^_-)
そんなことが起きているうちに、
やがていつかは
思考そのものの退場が起こるのかもしれませんね。
> 仮に対象物化という普通のプロセスが起こるにしても、
> ジニャーニはこの事実に気づき、
> 偽物を偽物と見る。
まさに
知覚の対象となる物理的現象はすべて
そこに起こっている想念が投影するホログラム、
つまりは幻影であることが見抜かれている、
そういう状態にいるということでしょう。
> ジニャーニはその分割されないビジョンの中で、
> 物理的には見る者と見られる者はともに対象物であり、
> 意識の機能それ自身が
> 意識の中に単に結果を生み出しているだけである
> ことを認識している。
知覚の対象となる物理的現象のなかには
“見る者”や“見られる者”を演じる
対象物しか存在していないことが見抜かれている。
そこには因縁因果の連鎖だけがあり、
その顕現という永遠の変化の相のなかには
どんな独立した実体も存在しないことを
ジニャーニは知っているわけです。
そして非顕現が顕現するためには
それ以外の方法がないことも。
それゆえ(顕現という)
永遠の変化の相として現れているのが
非顕現そのものであることも
ジニャーニは知っているわけです。
> 結果を生み出すことと認識の両方が意識によって、
> 意識の中で為されている。
> このことを理解するように努めなさい
すべては意識の一人芝居なのです。
> 短く言えば、
> ジニャーニが見ることは全体的に見ること、
> ないし内側を見ること、
> 直感的に見ること、
> 対象的どんな質ももたずに見ることだ──
> それが束縛からの自由である。
> それが、
> 私が「私は見るが、私は見ない」と言うとき、
> 言わんとしていることだ。
>
> そして、
> これがあなたの愚かな質問に対する愚かな答えである。
ジニャーニが見るというのは
全体を見ること、
展開する【見かけ】に物語を見るのではなく、
始まりと中間とその終わりの全体を見晴らすこと。
物語のなかの些末な上がり下がりに
一喜一憂するのではなく、
どんな対象的細部への執着ももたずに見ること。
それが束縛からの自由なのでしょう。
束縛されたいというなら
そこにそれを遮る誰も存在しません。
ただし、束縛された状態とは
束縛からの自由を求める状態でもあります。
しかし、
「わたし」はすでにその「自由」なのだから、
どうしてその「自由」を求める
束縛された状態に執着する必要があるだろう?
というわけなのかもしれませんね。(*^_^*)
なにしろ、
「聖なる催眠」をかけたのは
「わたし」自身のリーラなのですから。
その「リーラ」のなかで
苦しむことで途方に暮れている“わたし”が
じつは存在しないことが自明になるまでは。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
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………○…………○…………○………
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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【束縛からの自由】
われわれは自由を求めたくて
まずは束縛に魅力を感じるのでしょうか?(-_-;)
思考を停止するために
まずは思考に魅せられるのでしょうか?
そして想像のなかで不幸にならなければならない
のでしょうか?
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世界が悲惨な姿で現れるのは、
あなたに真我を探求させるためです。
あなたの目はそれ自体を見ることができません。
鏡を置いてみなさい。
そうすれば、
目はそれ自体を見ることができます。
創造についても同じことです。
『真我』(p124)
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その理解が完全になったとき、
自然に思考は停止するしかなくなる。
それが起こらない間は、
こうして幻影のなかで夢を見続けるしかない。
まあ、今日も楽しかった。
でもちょっとくたびれた。(*^_^*)
(-||-)
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(__)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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