━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/7/21(第1057号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
目覚めの瞬間の純粋な「私」をとらえなさい。
必要なのは、想念が起こる前の純粋な「私」に
注意を固定させ、それを手放さないことです。
なぜなら、純粋な「私」が真我だからです。(『真我』R・マハルシ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.「するのを見られている」(PFNM)
2.編集後記
──────────────────
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■1.「するのを見られている」(PFNM)
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今日も暑い日でしたね。^^;;
まだ直射日光が当たらない朝方でないと
外の作業はちょっと無理なので、
今朝も起きて、わが家のネラたちのために
彼女たちの可動領域をさらに拡大してやりました。
pariが作業していると、
気がついたらいつの間にかネラたちも
すぐそばで草をついばんでいます。
“防獣杭”を打ち込んで防獣網を設置する作業には
ちょっと離れてくれたほうがやりやすいんですけどね。
でもまあ、自然の情としては
可愛いという気分も湧いてきます。(^_-)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
ラメッシ・バルセカールの
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』
の真ん中あたりに
「33 認識する人は誰もおらず、
ただ認識することだけがある」
という一節があって、こんなふうに始まります。
──────────────────
33 認識する人は誰もおらず、
ただ認識することだけがある
ある朝、
訪問者が「私は知りたいと思います……」と
自分の質問を始めたとき、
マハラジは笑い始め、
マラティ語の通訳を待たずに、
「私──それは誰だ?」と
英語で質問して切り替えしました。
それから、
その冗談を非常に楽しんで、
彼は母国語であるマラティー語に戻り、
言いました──
私があなたに伝えようとしているこれは、
実に、非常に単純なことだ。
聞いているとき、もし「自分」を
わきによけることさえできるなら、
あなたもまたそのことを発見するだろう!
私の言うことを意図的に理解しようと努力する、
想定されている自立した実体がいるかぎり、
本当の理解は問題外であることを
あなたが覚えてさえいれば。
形而上学的啓示の理解は、
問いかけるオープンな
「空っぽ」なマインドを前提として、
その中にそういった直感的理解が入ってくる。
どんな「独立した」実体も
観念に満ちた条件付けられた
マインドを示していて、
それゆえ、
私が授けたいと思っている
どんなことの入場も拒むのだ。
私の言うことが理解されたかどうか疑問だが!
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p197)
──────────────────
> ある朝、
> 訪問者が「私は知りたいと思います……」と
> 自分の質問を始めたとき、
質問者は英語で質問したのでしょうが、
確かに状況によっては主語が必要な英文脈では
“I want to know...”みたいな言い方に
ならざるをえないかもしれません。
> マハラジは笑い始め、
> マラティ語の通訳を待たずに、
> 「私──それは誰だ?」と
> 英語で質問して切り替えしました。
これはその瞬間の自然な反応だったのでしょう。
> それから、
> その冗談を非常に楽しんで、
> 彼は母国語であるマラティー語に戻り、
> 言いました──
> 私があなたに伝えようとしているこれは、
> 実に、非常に単純なことだ。
> 聞いているとき、もし「自分」を
> わきによけることさえできるなら、
> あなたもまたそのことを発見するだろう!
【聞いているとき、もし「自分」を
わきによけることさえできるなら】
マハラジが生涯伝え続けたことは
このことだけだったのかもしれません。
けれどもそれは、逆に言うなら、
> 私の言うことを意図的に理解しようと努力する、
> 想定されている自立した実体がいるかぎり、
> 本当の理解は問題外である……
というきわめて難解なメッセージでもあります。
というのも、通常は
マハラジが
「形而上学的啓示の直感的理解が入ってくる前提」
としている
【問いかけるオープンな「空っぽ」なマインド】など
どこを探しても存在するはずがないからです。
> どんな「独立した」実体も
> 観念に満ちた条件付けられた
> マインドを示していて、
> それゆえ、
> 私が授けたいと思っている
> どんなことの入場も拒むのだ。
これでは、
“マハラジの話を理解したいと望んでいる人たち”は
全員討ち死にということになる。
──────────────────
私は言葉を使い、
あなたはそれらを聞いていても、
主体と対象物がそれを聞くことの中で
融合するときだけ受容は可能になる。
まず最初に、
話したり聞いたりする人がいるのか、
それとも単に「機能」
──話すこと、聞くこと、
理解すること、経験すること──
があるだけなのかを調べてみなさい。
あなたが「実存している」何かを考えるとき、
形をもった対象的な何か
という観点で考えるだけだ。
あなたは対象的現象だけに関心があるが、
それに対して私は、
あなたも含めたすべての対象物を
意識の中の見かけにすぎないものとして見ていて、
それゆえ、
実存していないものとして見ている。
そして、主体性それ自体は
どんな対象的質ももたないために
明らかに実存することはできない。
では、何が実存しているのか?
実存というようなものも
非実存というようなものもありえないのだ!
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p197)
──────────────────
> 私は言葉を使い、
> あなたはそれらを聞いていても、
> 主体と対象物がそれを聞くことの中で
> 融合するときだけ受容は可能になる。
話者と聞き手のあいだで
「主体」と想定されているものと
「対象物」と想定されているものが違っていたら
話が通じるはずもありません。
だから、マハラジの要求としては、
> まず最初に、
> 話したり聞いたりする人がいるのか、
> それとも単に「機能」
> ──話すこと、聞くこと、
> 理解すること、経験すること──
> があるだけなのかを調べてみなさい。
ということになるわけでしょう。
> あなたが「実存している」何かを考えるとき、
> 形をもった対象的な何か
> という観点で考えるだけだ。
ここで翻訳者の高木悠鼓さんが
「実存している」という訳語を当てているのは
「Exist」ないし「Existing」という単語だと思います。
まあ、普通なら「存在している」でもいいわけです。
通常われわれが「存在している何か」を話題にすれば、
それは“形をもった対象的な何か”の意味で
受け取られるのが当然です。
> あなたは対象的現象だけに関心があるが、
> それに対して私は、
> あなたも含めたすべての対象物を
> 意識の中の見かけにすぎないものとして見ていて、
> それゆえ、
> 実存していないものとして見ている。
普通の会話で「存在しているもの」とは
現象世界のなかに存在する客観的対象物です。
ところが、マハラジの観点(ないし用語法)では
われわれ人間も含めた現象世界のなかのすべての対象物は
「意識の中の見かけ」すぎないものと見なされている。
だからマハラジの観点(ないし用語法)では
現象世界のなかのすべての対象物は
「存在していないもの」と見なされ、
理解されているというのです。
これでは、ある意味
会話が成り立つわけがない。(*^_^*)
> そして、主体性それ自体は
> どんな対象的質ももたないために
> 明らかに実存することはできない。
しかも、真の「主体性」自身は
いかなる知覚の対象物にもなりえないわけですから、
明らかに普通の意味では「存在できない」わけです。
> では、何が実存しているのか?
では、実際に「存在している」のは何なのか?
マハラジはここで
【実存というようなものも
非実存というようなものもありえないのだ!】
と断定します。
「存在しているもの」とか
「存在していないもの」とかいうような区別は
そもそもありえない、と。
──────────────────
少し前に質問した訪問者に戻ることにしよう。
彼は自分自身を「より良い個人」
──賢者、ジニャーニ──
に変容させてくれるようなある種の知識を求め、
おそらく苦労して
かなりの費用をかけてここへやってきた。
で、
私がなぜ笑わざるをえなかったのかを
あなたは理解しただろうか?
──彼のことではなく、
マーヤー(幻想)が
彼女の幻想を通じて仕掛けたトリックを。
少しの間、考えてみなさい。
ある状態から別の状態へと変わるという
変容という観点、
自己改善という観点で誰が考えているのか?
もちろん意識の中の見かけ、
映画の中の登場人物、
夢の中の個人に他ならない──
夢見られた偽実体が
自分自身をカルマの働きに従属している
と見なしているのだ。
どうやって夢見られたそんな登場人物が
自分自身をその夢見られた自己以外の
何かへと「完成し」、
仕立てあげることができるだろうか?
どうやって影が自分自身を本体へと
「完成する」ことができるだろうか?
夢見ているものが、
夢ないし顕現の源泉の本当のアイデンティティを
再解明する以外、
どうやって
夢からの「目覚め」がありうるだろうか?
そして、「目覚め」とは、
現象世界を個人的に認識する人はおらず、
すべての現象の本質的性質と目的は
単に現象を認識すること、
つまり、
この−今−ここにおける機能
であることを理解することにある。
つまり、
感覚のあるあらゆる存在
──すべての経験の
潜在可能性の源泉としての私──
が、肉体精神装置を通じて
見かけの宇宙を対象的に経験しているのだ。
これがいったいどういうことなのかを
理解するまさに最初の一歩は、
分離した実体としての積極的意志をもった私
という観念を放棄し、
プロセスとして認識することと機能すること
という受け身の役割を受け入れることである。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p198-199)
──────────────────
> 少し前に質問した訪問者に戻ることにしよう。
> 彼は自分自身を「より良い個人」
> ──賢者、ジニャーニ──
> に変容させてくれるようなある種の知識を求め、
> おそらく苦労して
> かなりの費用をかけてここへやってきた。
まあ、それは間違いないでしょう。
> で、
> 私がなぜ笑わざるをえなかったのかを
> あなたは理解しただろうか?
> ──彼のことではなく、
> マーヤー(幻想)が
> 彼女の幻想を通じて仕掛けたトリックを。
どうやら、マハラジは
見かけの一部分である対象物としての
質問者のことを笑ったわけではないらしい。
(マハラジにとっては、
そもそも質問者など存在していないわけです)
質問者に“聖なる催眠”を仕掛けた
マーヤー(幻想)のトリックを笑ったというのです。
というのも……、
> 少しの間、考えてみなさい。
> ある状態から別の状態へと変わるという
> 変容という観点、
> 自己改善という観点で誰が考えているのか?
この“悟った存在”になりたいという
変容という観点、
自己改善という観点で考えているのは
いったい「誰」なのか?
> もちろん意識の中の見かけ、
> 映画の中の登場人物、
> 夢の中の個人に他ならない──
> 夢見られた偽実体が
> 自分自身をカルマの働きに従属している
> と見なしているのだ。
もちろん、それは「エゴ」なのですから、
それは「意識の中の見かけ」であり、
「映画の中の登場人物」であり、
「夢の中の個人」であるわけです。
この状況をマハラジの観点から要約するなら、
それは
【夢見られた偽実体が
自分自身をカルマの働きに従属している
と見なしている】
状況であり、
その状況からの脱出を目指しているのだと。
しかし、
そんな途方もない計画を立てたところで、
そんなことが果たして可能だろうか?
とマハラジは畳みかけます。
> どうやって夢見られたそんな登場人物が
> 自分自身をその夢見られた自己以外の
> 何かへと「完成し」、
> 仕立てあげることができるだろうか?
これはわれわれが寝ているあいだに見る
個人的な夢の状況で考えればわかりやすそうです。
われわれに夢のなかに現れる登場人物が、
その見られている夢の状況のなかで
自分自身をその夢見られた自己以外の
何かへと「完成し」、
仕立てあげることができるものでしょうか?
いや、それは無理でしょう。(*^_^*)
だって、
彼自身が夢見られているその内容なのですから。
> どうやって影が自分自身を本体へと
> 「完成する」ことができるだろうか?
夢見られている実在の影が、
どうやって自分自身を
夢見ている実在本体へと格上げし、
「完成する」ことができるものでしょうか?
> 夢見ているものが、
> 夢ないし顕現の源泉の本当のアイデンティティを
> 再解明する以外、
> どうやって
> 夢からの「目覚め」がありうるだろうか?
夢見られている夢の登場人物に
自分自身が存在しないことの理解が起こって、
その結果、夢の登場人物の形態が消滅して、
顕現の源泉の本当のアイデンティティが
自明になる以外に、
夢からの「目覚め」がありうるだろうか?
というのです。
> そして、「目覚め」とは、
> 現象世界を個人的に認識する人はおらず、
> すべての現象の本質的性質と目的は
> 単に現象を認識すること、
> つまり、
> この−今−ここにおける機能
> であることを理解することにある。
マハラジの観点からすると、
「目覚め」とは
現象世界を“個人的に認識する人”は
存在していないことが自明になることです。
> つまり、
> 感覚のあるあらゆる存在
> ──すべての経験の
> 潜在可能性の源泉としての私──
> が、肉体精神装置を通じて
> 見かけの宇宙を対象的に経験しているのだ。
このマハラジの説明をあえて冗長に展開すれば
次のようになるでしょうか。
知覚の対象物になりえない絶対的主体性が
あえて自らの顕現の潜在可能性を追求した場合、
すべての経験の潜在可能性の源泉(「私」)は、
自らを“認識可能”にしなければなりません。
この認識の可能根拠が「二元性の原理」という虚構です。
この「二元性の原理」の元型が
経験の潜在可能性の源泉(「私」)の
“主体”と“対象物”への分裂です。
この分裂によって「知ること」は、
「知る者」と「知られるもの」に分裂し、
「知る者」は“別の”「知る者」にとっての
「知られるもの」となることによって、
絶対的主体性の幻影を擬似的に知覚可能できる。
このような幻影を可能にする装置として
発明されたのが“生き物”の肉体精神装置であり、
その肉体精神装置を通じて実現される感覚を使って
見かけの宇宙が対象的に経験されているわけです。
こうして現象世界のなかには“他者”が誕生する。
この実際には存在しない現象世界のなかで
偽実体としての“自分”は経験を苦しむことが
できるようになるわけです。
しかしあまりにもこの虚構の幻影のなかに
深く入り込むとそこから出られなくなる。
しかし、いったい“誰”が幻影のなかに
入り込んだのか?
いったい“誰”が経験を苦しんでいるのか?
本当にそういう“誰か”が存在しているのか?
その状況を解きほぐさなければならない。
> これがいったいどういうことなのかを
> 理解するまさに最初の一歩は、
> 分離した実体としての積極的意志をもった私
> という観念を放棄し、
> プロセスとして認識することと機能すること
> という受け身の役割を受け入れることである。
マハラジは、
この状況を理解する最初の一歩は、
積極的意志をもった“自分”が
分離した実体として存在しているという
観念を放棄して、
すべての現象を
「認識すること」と「機能すること」という
二種類のプロセスとして理解し、
その文脈のなかで「受け身の役割を受け入れる」
ことだと言います。
さて、ここまで状況を説明してから、
マハラジにしてはめったにないことですが
ここで珍しくノウハウを語っています。
──────────────────
では、
いくつかの秘訣を与えることで
あなた方を喜ばせてあげよう。
私が何を言っても、
あなた方は自分の「自己改善」コースを続け、
「秘訣」を探し求め続けることを
私は知っているからだ。
だから、
ノートを開いて、
これから私が言うことを書き留めなさい。
(a)受動態で考え、
話すことを習慣としなさい。
「私は何かを見る」、
「私は何かを聞く」の代わりに、
「何かが見られる」とか、
「何かが聞かれる」というように
受動態に考えたらどうだろうか?
そうすれば、
その認識は現象的実体による
行為にもとづくものではなく、
出来事や起こることに
もとづくようになるだろう。
そのうちに、
偽実体「私」は
背景へ引っ込んでしまうことだろう。
(b)夜寝る前に、
およそ10分間、「あなた」は
肉体−マインドの構造物ではなく、
活動している意識であるという立場で
体とマインドをくつろがせて過ごしなさい。
そうすれば、
睡眠中にこの考えが
あなたの存在に染み入ることだろう。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p199-200)
──────────────────
> では、
> いくつかの秘訣を与えることで
> あなた方を喜ばせてあげよう。
え!ほんとですか?!(@_@) ⌒★?
> 私が何を言っても、
> あなた方は自分の「自己改善」コースを続け、
> 「秘訣」を探し求め続けることを
> 私は知っているからだ。
またー。
> だから、
> ノートを開いて、
> これから私が言うことを書き留めなさい。
いや、ここは
メモするしかないでしょう。(^_-)
> (a)受動態で考え、
> 話すことを習慣としなさい。
> 「私は何かを見る」、
> 「私は何かを聞く」の代わりに、
> 「何かが見られる」とか、
> 「何かが聞かれる」というように
> 受動態に考えたらどうだろうか?
> そうすれば、
> その認識は現象的実体による
> 行為にもとづくものではなく、
> 出来事や起こることに
> もとづくようになるだろう。
> そのうちに、
> 偽実体「私」は
> 背景へ引っ込んでしまうことだろう。
これ、比較的簡単に実行できます。
何をしていても、
「……をしなければ」とか
「……をしよう」とか思う代わりに、
「……するのを見られている」とか
「……するのが聞かれている」とつぶやきます。
そうするとそれだけで、
焦る気持ちや、
巻き込まれる感じが自然に解消します。
“自分”がその行為をしているのではなく、
夢の登場人物が行為させられている状況が
「見られている」のが自明になりますから。(*^_^*)
【そのうち本当に、
偽実体「私」は背景へ引っ込んでしまう】かも。
> (b)夜寝る前に、
> およそ10分間、「あなた」は
> 肉体−マインドの構造物ではなく、
> 活動している意識であるという立場で
> 体とマインドをくつろがせて過ごしなさい。
> そうすれば、
> 睡眠中にこの考えが
> あなたの存在に染み入ることだろう。
これは、まだやっていません。
けっこう、強力かもね。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
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………○…………○…………○………
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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さて、こんなふうに
今日も書かされているところを
見られています。
誰も何もしていない。
意識が意識のリーラを見ているのです。
(-||-)
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
<(__)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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