━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/9/22(第1066号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
目覚めの瞬間の純粋な「私」をとらえなさい。
必要なのは、想念が起こる前の純粋な「私」に
注意を固定させ、それを手放さないことです。
なぜなら、純粋な「私」が真我だからです。(『真我』R・マハルシ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.サルの心(Who Cares?)
2.編集後記
──────────────────
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■1.サルの心(Who Cares?)
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日々、目まぐるしく事態が変化しますね。
たしかにこの現象宇宙にとって
現在は一種特別な時期なのかもしれません。
われわれ
(つまりリーラのなかの個々の登場人物)
がどんな現象局面に
フォーカスさせられているにせよ、
そのフォーカスにある種の圧力がかかり
その意識の位相が
表現として一種極大化されるのでしょうか。
個々の肉体精神機構のなかで紡がれてきた物語が
一種の花をつけさせられるようなものかもしれません。
“自分”のものとして維持するには
つらすぎる花もあるかもしれませんね。
そしてそれがまた「運命」であり
また別の言い方をするなら、
(サットグルからの)「恩寵」であるのかもしれません。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
相変わらず
賢者の言葉に救いを求めるしか能のないpariが
今回たどり着いたのは
ラメッシ・バルセカールが解説する
「サルの心」でした。
『誰が構うもんか!?』のなかほどに
【第5章 機能する心と考える心】
という章があります。
今回はこの章の記述から
「機能する心」と「考える心」という
非常に強力な観念の意味するところを
この観念の発生通路となった
ラメッシ・バルセカールに解説していただきます。
(相変わらず長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
まずはこの観念の基本的意味合いから
解説していただきましょう。
──────────────────
ラメッシ
知りたがるのは、
行為者という個々の感覚なのです
──「『私』は知りたい」。
それゆえラマナ・マハルシは、
「もし質問がわき起こったら、
それに答えようとせず、
ただ誰が知りたがっているのかを発見しなさい」
と繰り返して言ったのです。
もしあなたが本当に
「誰が知りたがるのか」を探求していったら、
その「誰」は消えてしまうでしょう。
なぜなら、
実際にはどんな「誰」もいないからです。
質問がわき起こるのは
コントロールできないことですし、
あなたが質問を受け取って、
それに水平的に巻き込まれるかどうかも
コントロールできません。
質問がわき起こるのは垂直的な出来事です。
でも、
質問に巻き込まれるのは、
水平的に巻き込まれることです。
ですから、
水平的に巻き込まれることは、
「『誰』が知りたがるのか?」
と質問することで避けることができます。
ゲイル
ということは、
「私は誰か」を探求することは、
水平的な活動なのですか?
ラメッシ
おわかりのように、
「誰が知りたがるのか?」という質問をするのは、
機能する心です。
質問がわき起こるのは垂直的ですが、
考える心が巻き込まれることは水平的です。
機能する心は水平的ではありません。
機能する心は現在の瞬間にとどまります。
ですから、
現在の瞬間において、
機能する心は
「誰が知りたがるのか?」と尋ねるのです。
そして、
考える心がその質問に応じようとしなければ、
そのときには、
その「誰」は消えてしまいます。
これが、
その議論です。
『誰がかまうもんか?!』(p162-163)
──────────────────
> 知りたがるのは、
> 行為者という個々の感覚なのです
止めどもなく
当てずっぽうの思考を繰り出しつづけるのは
一瞬一瞬にわき起こる
「行為者」という感覚なんですね。(*_*) ⌒★?
これは、なんか……
すごいことを聴いた感じ。
> それゆえラマナ・マハルシは、
> 「もし質問がわき起こったら、
> それに答えようとせず、
> ただ誰が知りたがっているのかを発見しなさい」
> と繰り返して言ったのです。
これが「私とは何か?」という問の意味ですね。
> もしあなたが本当に
> 「誰が知りたがるのか」を探求していったら、
> その「誰」は消えてしまうでしょう。
> なぜなら、
> 実際にはどんな「誰」もいないからです。
「誰が知りたがるのか?」
そうか……。
> 質問がわき起こるのは
> コントロールできないことですし、
> あなたが質問を受け取って、
> それに水平的に巻き込まれるかどうかも
> コントロールできません。
聖なる催眠にかかっている
「リーラ」の登場人物にとっては
できることは何もない。
> 質問がわき起こるのは垂直的な出来事です。
それは即時に発生する自発的な自然現象。
> でも、
> 質問に巻き込まれるのは、
> 水平的に巻き込まれることです。
しかし、
この即時に発生する自発的な質問から
止めどもない当てずっぽうの思考に駆り立てられるのは
必ずしも不可避の自然現象ではない。
> 水平的に巻き込まれることは、
> 「『誰』が知りたがるのか?」
> と質問することで避けることができます。
ラマナ・マハルシという賢者によって与えられた
「『誰』が知りたがるのか?」という対抗質問で
踏みとどまることができる。
> 「誰が知りたがるのか?」という質問をするのは、
> 機能する心です。
「誰が知りたがるのか?」という質問は
自然の叡智が現象世界に現れたもの。
> 質問がわき起こるのは垂直的ですが、
> 考える心が巻き込まれることは水平的です。
質問がわき起こるのは自発的な自然現象と言えても、
当てずっぽうの思考の連続は
同じ平面を水平的に止めどもなく継続するだけ。
> 機能する心は水平的ではありません。
> 機能する心は現在の瞬間にとどまります。
自然の叡智が現象世界に現れた機能する心は
現在の瞬間にとどまる。
> 考える心がその質問に応じようとしなければ、
> そのときには、
> その「誰」は消えてしまいます。
「誰が知りたがるのか?」という質問に
考える心は当てずっぽうの答えを繰り出せないので
その「誰」が存在しないことが暴露される。
ついで、
われわれ「リーラ」の登場人物が苦しんでいるのは
考える心、つまりサルの心のゆえであることが
説明されます。
──────────────────
ラメッシ
サルの心がなければ、
人生は実にシンプルなものです。
つまり、
あなたがスイッチを切りたいのは、
心そのものではなく、
サルの心です。
こういった理由で、
私は心には二つの面がある
という考えを持っているのです。
一つはサルの心──考える心──
質問し、
答えを提供し、
そして、
これらの答えにさらにまた質問する
ということをえんえんと続ける心です。
これがサルの心、
私が考える心と呼んでいるものです。
心にはもう一つ別の側面があり、
私はそれを機能する心と呼んでいます。
フレディが自分の人生を生きるのに必要なのは、
機能する心です。
機能する心は、
状況のある瞬間に、
なされるべきことをやることにだけ集中します。
なされている仕事が必要かどうかさえ、
関心がありませんし、
結果にも関心がありません。
それは、
ただなされている仕事を
やることにだけ集中していて、
「誰」がその仕事をやっているのかには
関心がありません。
考える心は、
「『私』がこの仕事をやっている。
『私』はその結果はどうなるか
知らなければいけない」と言います。
ですから、
考える心はいつも
未来の結果について考えています。
機能する心は未来に関心がありません。
なぜ機能する心は未来に関心がないのでしょうか?
なぜなら、
未来の結果に関心がある「人」は、
考える心、
エゴだからです。
機能する心においては、
その仕事を行う個人をおらず、
エゴもいません。
ですから、
機能する心において、
仕事をやっている個人がいないのなら、
そのときには、
「誰」が結果を心配するでしょうか?
機能する心においては、
働く個人はいません
──仕事はただなされるのです。
個々の「行為者」は
知りたがっている考える心です
──この仕事がなされたら、
自分に何が起こるのだろうか?
その「自分」こそが、
考える心、
エゴです。
エゴとは、
私の考えでは、
行為者という感覚をもった個人という、
名前と形による自己同一化
──何がこの肉体に起こるにせよ、
「私」がそれをやっていて、
「私」がその結果に苦しむ人である、
というものです。
フレディ
私の中には、
いつも最高の決断をして、
最高の結果を得たいという願望があります
──いつも、いつも、いつもです。
ラメッシ
ですから、
「『私』がその仕事やっている」と言うのは、
常に「自分」
──エゴ、行為者です。
私の考えでは、
考える心──サルの心、
観念化する心を静める唯一の方法は、
個々の行為者はいないということを、
完全に無条件に受け入れることです。
あらゆることはただ起こります。
「自分」がそれをやっている
と考える個々の行為者がいるかぎり、
「その人」は責任と結果について考え、
気にかけることになります。
これが考える心です。
でも、
「自分」が行為者だと感じる「自分」なしに、
手元の仕事に注意を払うことは可能です。
本当の問題は、
どうしたらフレディが、
フレディは決して行為者ではなく、
やっていることはただ起こっているのだという、
完全な無条件の受容に到達するのか、
ということです。
それは実際の個人的体験を通じてです。
フレディが、
「自分が」やってると思っているすべての行為は、
フレディがいるからではなく、
フレディがいるにもかかわらず(!)
なされているのです。
そしてあなたは、
フレディがいつも自分の望むものを
得ているわけではないことを知っています。
ですから、
起こることを
フレディは決してコントロールできませんし、
あなたは、
そのことを自分の実際的体験、
個人的体験から知っています。
フレディはいつ責任と結果の重荷を
感じなくなるのでしょうか?
それは、
フレディが、
自分はどんなおこないの行為者でもなかった
と完全に確信するときです。
フレディは決して行為者ではありませんし、
フレディだけでなく、
誰も行為者ではありません。
どんな人間も行為者ではありません。
フレディ
誰がこの結論に達するのですか?
ラメッシ
まさにそこです。
最初にこの結論に達する「人」はエゴ、
「自分」が行為者だと考えていた「人」です。
しだいに、
「自分」は存在していない
という結論に達した「私」、エゴは、
ある期間にわたって、
「自分」は何もやっていないという
個人的な体験にますます気づくようになります。
それから、
エゴはますます弱まり、
もしそれが源泉の意志であるなら、
エゴは崩壊するのです。
エゴが崩壊したら、
この肉体精神機構は
どうやって機能するのでしょうか?
その答えは
──肉体精神機構は、
まさに今までとまったく同じように、
機能しつづけるということです。
以前は、
この肉体精神機構を通じて
機能していたのは源泉でした。
そして、
未来にも、
この肉体精神機構を通じて
機能し続けるのは源泉です。
以前、
フレディは、
「自分」が機能していると考えていました。
でも今、
フレディは、
「自分」は機能していないことを知っています。
機能それ自体は、
過去と同じように未来へ継続していきます。
フレディ
私には、
自分自身の面倒を見なければいけない
という信念があります。
ラメッシ
そのとおりです。
ですから、
それ自身の面倒を見るのは、
機能する心です。
機能する心は状況に応じ、
必要なことをやりつづけます。
それゆえ、
フレディは、
自分の行為に責任のある、
社会に受け入れられた人物として継続するのです。
すると、
何が起こるでしょうか?
行為や行動は起こり、
それらは神、
すなわち源泉の意志ということです。
一つ一つの肉体精神機構についての神の意志とは、
妊娠の瞬間に刻印されたその肉体精神機構の運命
と私が呼んでいるものです。
人生とは何でしょうか?
私の考えでは、
人生はただ、
大勢の肉体精神機構の集合であり、
それらを通じて源泉は機能しています。
私たちはただ
起こっていることを受け入れるだけです。
私たちは、
なぜ源泉がそれがやっていることをやっているのか、
決して知ることはできません。
なぜでしょうか?
それは、
なぜ神がそれをやっているのか、
もしあなたがそれを知りたいと思うなら、
創造された対象(客体)が、
主体である創造者の意志を知りたがっている、
ということになります。
どうしてそんなことが可能でしょうか?
ですから、
エゴという怪しげな才能
──行為者という感覚、考える心──
を与えられている創造された対象物にできるのは、
ただ神の創造の素晴らしさを
受け入れることだけです。
なぜ神は、
それがやったことをやったのか、
対象物とエゴは
理解しようとすることさえできません。
なぜなら、
創造された対象は、
主体である創造主の意志を
決して知ることができないからです。
* * *
『誰がかまうもんか?!』(p165-169)
──────────────────
> あなたがスイッチを切りたいのは、
> 心そのものではなく、
> サルの心です。
これこそが
ラメッシ・バルセカールを通じて明かされた
強力な理解です。
> 私は心には二つの面がある
> という考えを持っているのです。
> 一つはサルの心──考える心──
> 質問し、
> 答えを提供し、
> そして、
> これらの答えにさらにまた質問する
> ということをえんえんと続ける心です。
> これがサルの心、
> 私が考える心と呼んでいるものです。
われわれは、これで無用に苦しんでいた。
> 心にはもう一つ別の側面があり、
> 私はそれを機能する心と呼んでいます。
> フレディが自分の人生を生きるのに必要なのは、
> 機能する心です。
【人生を生きるのに必要なのは機能する心】
(-||-)
> 機能する心は、
> 状況のある瞬間に、
> なされるべきことをやることにだけ集中します。
「思考」の役割はここにあって、
人生の目的や理由を探求するのに
「思考」は適した能力ではない。
> なされている仕事が必要かどうかさえ、
> 関心がありませんし、
> 結果にも関心がありません。
> それは、
> ただなされている仕事を
> やることにだけ集中していて、
> 「誰」がその仕事をやっているのかには
> 関心がありません。
【ただなされている仕事をやることにだけ集中】
「リーラ」の中ではそれだけで十分。
> 考える心は、
> 「『私』がこの仕事をやっている。
> 『私』はその結果はどうなるか
> 知らなければいけない」と言います。
> ですから、
> 考える心はいつも
> 未来の結果について考えています。
これがすべての苦しみの根幹だった。
全体を“自分”の都合に合わせようとすること。
> 機能する心は未来に関心がありません。
そんなことは
全体のシナリオを書いている作者に任せればいいこと。
> なぜ機能する心は未来に関心がないのでしょうか?
> なぜなら、
> 未来の結果に関心がある「人」は、
> 考える心、
> エゴだからです。
映画の登場人物は
映画のシナリオの一部の演者であって、
シナリオを作成する役割じゃない。
> 機能する心においては、
> 働く個人はいません
> ──仕事はただなされるのです。
「機能する心」は
自分が作者じゃないことを知っている。
> 個々の「行為者」は
> 知りたがっている考える心です
> ──この仕事がなされたら、
> 自分に何が起こるのだろうか?
> その「自分」こそが、
> 考える心、
> エゴです。
「行為者」というのは
登場人物に発生した誤解。
> エゴとは、
> 私の考えでは、
> 行為者という感覚をもった個人という、
> 名前と形による自己同一化
> ──何がこの肉体に起こるにせよ、
> 「私」がそれをやっていて、
> 「私」がその結果に苦しむ人である、
> というものです。
この誤解が
途方もない苦しみを生み出す。
> 私の考えでは、
> 考える心──サルの心、
> 観念化する心を静める唯一の方法は、
> 個々の行為者はいないということを、
> 完全に無条件に受け入れることです。
御心がなされますように。
(-||-)
> あらゆることはただ起こります。
> 「自分」がそれをやっている
> と考える個々の行為者がいるかぎり、
> 「その人」は責任と結果について考え、
> 気にかけることになります。
> これが考える心です。
それが勘違いしたサルの心。
> でも、
> 「自分」が行為者だと感じる「自分」なしに、
> 手元の仕事に注意を払うことは可能です。
おお!
> 本当の問題は、
> どうしたらフレディが、
> フレディは決して行為者ではなく、
> やっていることはただ起こっているのだという、
> 完全な無条件の受容に到達するのか、
> ということです。
まさに。(@_@)
> それは実際の個人的体験を通じてです。
【実際の個人的体験を通じて】
(-||-)
> フレディが、
> 「自分が」やってると思っているすべての行為は、
> フレディがいるからではなく、
> フレディがいるにもかかわらず(!)
> なされているのです。
(*@_@*)
> 最初にこの結論に達する「人」はエゴ、
> 「自分」が行為者だと考えていた「人」です。
> しだいに、
> 「自分」は存在していない
> という結論に達した「私」、エゴは、
> ある期間にわたって、
> 「自分」は何もやっていないという
> 個人的な体験にますます気づくようになります。
なるほど。
> それから、
> エゴはますます弱まり、
> もしそれが源泉の意志であるなら、
> エゴは崩壊するのです。
(-||-)
> 人生とは何でしょうか?
> 私の考えでは、
> 人生はただ、
> 大勢の肉体精神機構の集合であり、
> それらを通じて源泉は機能しています。
「リーラ」。
> 私たちはただ
> 起こっていることを受け入れるだけです。
> 私たちは、
> なぜ源泉がそれがやっていることをやっているのか、
> 決して知ることはできません。
どうしてですか?
> それは、
> なぜ神がそれをやっているのか、
> もしあなたがそれを知りたいと思うなら、
> 創造された対象(客体)が、
> 主体である創造者の意志を知りたがっている、
> ということになります。
ああ。
> どうしてそんなことが可能でしょうか?
(*-_-*)
> ですから、
> エゴという怪しげな才能
> ──行為者という感覚、考える心──
> を与えられている創造された対象物にできるのは、
> ただ神の創造の素晴らしさを
> 受け入れることだけです。
御心のままに。
> なぜ神は、
> それがやったことをやったのか、
> 対象物とエゴは
> 理解しようとすることさえできません。
> なぜなら、
> 創造された対象は、
> 主体である創造主の意志を
> 決して知ることができないからです。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【「自分」が行為者だと感じる「自分」なしに、
手元の仕事に注意を払うことは可能です。】
これが可能だということを
初めてリアルに感じはじめたような。
ありがたいことです。
(-||-)
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
<(__)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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