━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/9/29(第1067号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
目覚めの瞬間の純粋な「私」をとらえなさい。
必要なのは、想念が起こる前の純粋な「私」に
注意を固定させ、それを手放さないことです。
なぜなら、純粋な「私」が真我だからです。(『真我』R・マハルシ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.努力と理解(Who Cares?)
2.編集後記
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■1.努力と理解(Who Cares?)
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朝目覚めるとこの肉体精神機構は
これまで見させつづけられてきた
その夢の中に帰ってきます。
肉体精神機構はその夢を見つづける。
その夢を
現実として生きなければならないようです。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
一時お預かりした孵卵器は
もとの持ち主の退院でお返しすることができました。
ただ卵が孵って家にやってきたときのために、
デッキ下の鶏舎空間を作り直しています。
このpariが生きられている現実の中では
pariの立場からするなら
もっと他にやらなければならないことが
あるのかもしれないのに……、
こうして起こっている「リーラ」のなかでは、
登場人物であるpariの行為は
(pariがその一瞬一瞬に想像するような)
pariの都合に沿っては展開しません。
効率を無視した完全主義を条件づけられ、
現象世界の【見かけ】の現実の展開速度には
とうてい追いつけない身体能力で作業を進めていると、
【見かけ】とのちぐはぐさが
さらに際立ってくるような趣もあります。(*-_-*)
『誰が構うもんか!?』のなかほど
「第6章 探求」という章のなかに
【努力と自己改善】という一節があります。
今回はここから今触れてきている言葉をご紹介します。
(相変わらず長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
まずは、
「究極の理解の基礎」である
「心が内側を向く」ということから。
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* * *
究極の理解の基礎は、
まさに次のことです。
心が内側を向くのは、
個人がそれを開始したからでも
努力したからでもなく、
純粋に意識の中の一つの動き、
非個人的な出来事として起こります。
しかしそれは、
高次の神秘的レベルでは「悟り」と称されるもの、
あるいは、
もっと日常的レベルでも少なくとも
「心の平和」と呼ばれているものを、
個人的に達成することへ道をされている
個人的な出来事として、
間違って解釈されています!(CC40)
* * *
『誰がかまうもんか?!』(p193)
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心が内側を向くのは
人間が意図してできるようなことではない。
「心の平和」と呼ばれているものは
人間が個人的に達成できるようなものではない。
この言葉の真実味が
いまさらながらに浸透してきます。
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* * *
自発的で自然な行為の中には、
人や計画のほんのわずかな痕跡さえ
ありえないことはあまり理解されていません。
さらに言えば自発性や自然であることは、
努力することや、
また努力しないように努力することによって
「達成する」ことはできません。
これもまた不可能な袋小路のように思えますが、
実はそうではありません。
努力(あるいは努力しない努力)は欲望、
つまり意志にもとづいていて、
それ自身、
「自分という観念」、
つまりエゴの一つの側面です。
見かけの袋小路を
そのように見るのは分裂した心ですが、
一方、
自発性は分裂した心の欠如と同義語です。(EE214)
『誰がかまうもんか?!』(p193)
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【自発的で自然な行為の中には、
人や計画のほんのわずかな痕跡さえありえない】
自発的で自然な行為というのは
無心の行為なのですね。
「無心」は「努力」によって達成できることではない。
仏陀が人間として可能なかぎりの修行をしたことによって、
ついに諦めに達して、覚醒が起こった。
というお話は、真実であるともないとも言える。
「人間として可能なかぎりの修行」が
「諦め」を引き起こす原因なのではありません。
「人間として可能なかぎりの修行」は
「諦め」が起こる物語のなかで
覚醒の前段階として「源」が設定した場面だということです。
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* * *
すべての二元性は幻想であり、
すべての行為は瞬間的で、
そして、
すべての意志は幻想です。
いったんこれが理解されれば、
人は自発的であろうとするのをやめます。
意志が幻想であるとわかれば、
すべての行為は自動的に自発的になります。
同じように、
すでにそこにあるものを見るために、
規律、修行、手立てといった、
あるいは何かの決まり文句や思考、
言葉の断言(アファメーション)を
繰り返すといったような努力は、
まったく必要ではないということも、
明確にされなければなりません。
ある中国の哲学者は、
「すべてはタオである」ので、
タオを理解するすべての努力は、
「蛇足」と見なしています。
ニサルガダッタ・マハラジも、
そういった努力を同じような言葉で
言及していたことに気づくのは、
興味深いことです。(EE34)
* * *
『誰がかまうもんか?!』(p194)
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【すべての二元性は幻想であり、
すべての行為は瞬間的で、
そして、
すべての意志は幻想です。】
すべての「意志」は幻想であり、
ゆえに「苦しみ」は
幻想のなかにしか現れないのです。
「幸福」と「不幸」は
幻想のなかで想像され、
捏造されるものです。
そして「幸福」を期待して挫折することが
「苦しみ」なのですね。
なんという当たり前!(*^_^*)
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自分の本性を深く理解すること、
ゆるぎなく確信することだけが、
変容が起こるのに必要なすべてであると、
普通の人が理解するのは非常に困難です。
それは人が、
ただ自分の個人的な努力だけが
人生に何かおもたらすことができると、
幼年期から条件づけられているからです。
赤ん坊でさえ、
自分の空腹が満たされる前に、
泣かなければなりません。
そして今、
彼は、
必要なことは理解することだけであり、
さらに、
「自分」によるどんな努力も
非生産的であると聞かされています。
これは信じられないこと、
きわめて受け入れがたいことです。……
『誰がかまうもんか?!』(p194-195)
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【自分の本性を深く理解すること、
ゆるぎなく確信することだけが、
変容が起こるのに必要なすべてである】
そして自分の本性の「理解」は
人間の「努力」によって達成できるものではない。
> 「自分」によるどんな努力も
> 非生産的であると聞かされています。
その「理解」は、
人間の無意識の不断の努力【にもかかわらず】、
その「努力」の隙間で露頭し、
直感されることがある。
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賢者は、
一片の疑いもなく、
自分が行為の結果をコントロールできないことを
確信しています。
なぜならそれらは、
全体性の中で起こるすべての行為の
一部を形成しているからです。
その人にできることは、
ただ、
自分の注意──自分の機能する心──を
手元の仕事に集中することだけです。
その結果、
考えることが観念化や心配に邪魔されることなく、
自分の能力の最善を尽くして行われる仕事は、
当然、
肉体的疲労も少なく、
ほとんど精神的ストレスもなく、
自然に一番いい状態で遂行されるのです。
* * *
『誰がかまうもんか?!』(p195)
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> 賢者は、
> 一片の疑いもなく、
> 自分が行為の結果をコントロールできないことを
> 確信しています。
わたしはもちろんエゴですが、
それでも
自分が行為の結果をコントロールできないことを
かなり確信しています。
> なぜならそれらは、
> 全体性の中で起こるすべての行為の
> 一部を形成しているからです。
このことは、
デッキ下の鶏舎空間を作成する作業のなかで
個人的に深く体験させられています。
そのときの一瞬一瞬にわき起こる思いのなかで
ある材や道具がそこに持ち込まれたり、
その場にそのまま放置されたりします。
すると次にそこに来たときには
その材が邪魔になったり、
あるいは求める道具が見つからなかったり
するわけです。
そんなことをしていると、
あっという間に半日が過ぎています。
まるで夢のなかで蠢いているイモムシのよう。(^_-)
でも、
夢の登場人物にそれ以上の何ができるでしょうか?
他に「仕方がない」のです。
神の意志だけが行き渡っています。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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読み物として面白ければと思っています。
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■ 2.編集後記:
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【自分の本性を深く理解すること、
ゆるぎなく確信することだけが、
変容が起こるのに必要なすべてである】
変容が起こることを
期待している者がいるかぎりそれは起こらない。
「誰」が「誰」の変容を期待するというのか?
Who cares!
神の意志だけが行き渡っている。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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