━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/10/06(第1068号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
目覚めの瞬間の純粋な「私」をとらえなさい。
必要なのは、想念が起こる前の純粋な「私」に
注意を固定させ、それを手放さないことです。
なぜなら、純粋な「私」が真我だからです。(『真我』R・マハルシ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.“自分”の「行為の分析」(Who Cares?)
2.編集後記
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■1.“自分”の「行為の分析」(Who Cares?)
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意識の焦点が現象に向かっているかぎり、
「経験を苦しむ」ことからの
「解放」は起こりえません。
なぜなら、
「経験」とは必ず「誰か」の経験であり、
その“誰か”はかならず
“誰か”であることそれ自体に内在する違和からの
脱出を願っているからです。
ニサルガダッタ・マハラジが語ったように、
“誰か”であるということは
けっして「自然な状態」ではなく、
いわば「脱臼状態」のようなものです。
それはけっして当たり前ではないので、
当人がそれを自覚しているかどうかは別として、
“誰か”は常に
“誰か”であることからの解放を模索しているのです。
その“誰か”が現象を見ているかぎり、
そこには常に何らかの「問題」があるように
思われるものです。
朝、目が覚めるとこの肉体精神機構は
これまで見させつづけられていた
その夢のつづきのなかにまた帰ってきます。
肉体精神機構はその夢を見つづけます。
あなたもご存知のように、
否応なく、
その夢を現実として生きなければならないわけです。(^_-)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
ブレイン・バルドーが編纂した
ラメッシ・バルセカールの対話録の邦訳本
『誰が構うもんか!?』「第6章 探求」から
前回は「心が内側を向く」のは
人間が意図してできるようなことではない、
という文面をご紹介したのでした。
今回はそれに続いてその文脈に関連して
心に響いた箇所をご紹介したいと思います。
(相変わらず長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
“この身体が自分だ”という感覚をもたらす魔法を
ラメッシ・バルセカールは
「聖なる催眠」と名づけていました。
──────────────────
* * *
マーティン:
この聖なる催眠は取り除くことができますか?
ラメッシ:
もちろんです。
確かに。
で、どうやって?
その催眠を創造したパワーだけが
取り除くことができます。
催眠にかかっている人は
その催眠を取り除くことができません。
そして、
探究とは結局そういうことです。
探求とは、
催眠にかかっている人が、
催眠から覚めたいと思って、
どうやったらそれができるかを
知りたいと思うことです。
マーティン:
それは無駄な努力なんですね?
ラメッシ:
そのとおりです。
それがまさに、
私が言っていることです。
それにもかかわらず、
努力が起きていますね、
そうではありませんか、マーティン?
マーティン:
はい。
ラメッシ:
では、
なぜ努力が起こっているのでしょうか?
マーティン:
なぜなら、
催眠が努力もまた創造しているからです。
ラメッシ:
そのとおりです。
まさにそのとおりです。
催眠を創造したパワーが、
その催眠を取り除こうとする努力を
創造しています。
ですから私は、
悟りを求めるどんな個々の探求者もいない
と言いつづけているのです。
マーティン:
それでも、
それはまるで本当のことのように
強く感じられます。
私はこういったことすべてに
巻き込まれつづけていて……
ラメッシ:
それ自体が催眠です。
「私」はマーティンである。
「私」は分離した存在である、
「私」は自分の人生をコントロールしている、
「私」は悟りを達成したい──
これこそ催眠です。
(TM127-128)
『誰がかまうもんか?!』(p199-201)
──────────────────
> この聖なる催眠は取り除くことができますか?
>
> ラメッシ
> もちろんです。
> 確かに。
> で、どうやって?
> その催眠を創造したパワーだけが
> 取り除くことができます。
> 催眠にかかっている人は
> その催眠を取り除くことができません。
いわゆる「悟り」が起こって
自分(という行為者)が存在していなかったことが
自明になる状態というのは、
人間が意図して実現できるようなことではなく
源泉だけが起こせることだというのは、
ラメッシ・バルセカールを含む
古来のアドヴァイタのグルたちに共通する
普遍的理解のようです。
> そして、
> 探究とは結局そういうことです。
> 探求とは、
> 催眠にかかっている人が、
> 催眠から覚めたいと思って、
> どうやったらそれができるかを
> 知りたいと思うことです。
世の中の一般的通念としての「探求」とは、
“自分”(人間)が悟りたいと思って、
どうやったら悟れるのかを
知りたいと思うことだ、と。
そして人間は
“自分”がそれを望んで
自ら努力をしていると思っているわけです。
> マーティン
> それは無駄な努力なんですね?
>
> ラメッシ
> そのとおりです。
> それがまさに、
> 私が言っていることです。
われわれの個人的な夢の場合で類推するなら、
それは言ってみれば、
夢のなかの登場人物が
その夢のなかでどんなに努力したところで
彼がその夢から覚めて
夢の外に出てくることができるだろうか?
といったような事態に当たるでしょうか。
それは彼がどれほど望んでも
可能なことでないのは自明です。
しかし、
知的にそう理解したからといって
努力することが終わるわけでないことも、
ご存知のとおりです。
> それにもかかわらず、
> 努力が起きていますね、
> そうではありませんか、マーティン?
>
> マーティン
> はい。
>
> ラメッシ
> では、
> なぜ努力が起こっているのでしょうか?
>
> マーティン
> なぜなら、
> 催眠が努力もまた創造しているからです。
>
> ラメッシ
> そのとおりです。
> まさにそのとおりです。
努力することは
聖なる催眠の構造的デザインのなかで
不可避的に起こっているわけです。
> 催眠を創造したパワーが、
> その催眠を取り除こうとする努力を
> 創造しています。
知覚の対象物であるわれわれ人間が
自分を創造している主体に戻りたいと望むように、
聖なる催眠そのものがデザインされている。
> ですから私は、
> 悟りを求めるどんな個々の探求者もいない
> と言いつづけているのです。
実際に起っている事実に即すなら、
われわれ人間はひたすら消えたくないだけです。(*^_^*)
> マーティン
> それでも、
> それはまるで本当のことのように
> 強く感じられます。
たしかに。
> 私はこういったことすべてに
> 巻き込まれつづけていて……
まったくです。(*-_-*)
> ラメッシ
> それ自体が催眠です。
> 「私」はマーティンである。
> 「私」は分離した存在である、
> 「私」は自分の人生をコントロールしている、
> 「私」は悟りを達成したい──
> これこそ催眠です。
同意します。
(-||-)
この催眠を解除するために
ラメッシ・バルセカールが勧めるサーダナ(修行)は
“自分”の「行為の分析」です。
ラメッシ・バルセカールはここで、
彼が使う「エゴ」という観念の含意を説明します。
──────────────────
行為の分析──唯一のサーダナ(修行)
ラメッシュ
では、
名前と形との自己同一化は、
それ自体は無害なものですが、
それがどうして、
あなたが神であることへの
それほど巨大な障害となりうるのでしょうか?
エゴとは、
私がその観念を使うときは、
単なる名前と形との自己同一化ではなく、
分離した存在、
各自の行為をおこなう分離した行為者としての
名前と形との自己同一化です。
それが本当の障害です。
つまり、
単なる名前と形との自己同一化ではなく、
分離した個々の行為者、
すなわち他の個々の行為者から分離した
個々の行為者としての
名前と形との自己同一化こそが障害なのです。
わかりますか?
その行為者としての分離が問題なのです。
『誰がかまうもんか?!』(p201-202)
──────────────────
> エゴとは、
> 私がその観念を使うときは、
> 単なる名前と形との自己同一化ではなく、
> 分離した存在、
> 各自の行為をおこなう分離した行為者としての
> 名前と形との自己同一化です。
> それが本当の障害です。
ラメッシ・バルセカールは、
自分が「エゴ」という言葉で意味しているのは
単なる肉体精神機構との一体化ではなく、
「分離した行為者」という観念をともなった
肉体精神機構との一体化のことだと言います。
では、どうすれば、
その独立した個々の行為者という観念を
取り除くことができるのか?
──────────────────
それなら、
どうすれば
自分はこの肉体精神機構を通じて起こる
行為をおこなっている者である、
という考えを取り除くことができるのでしょうか?
私の考えによれば、
答えは、
まず最初に自分は、
分離した行為をしている
他者から分離したしている個人ではないことを、
知性で理解しなければなりません。
それから、
個人的な体験によって、
その必然的結論を
無条件に受け入れるようにすべきです。
最初に、
自分は分離した行為者ではないという
知的理解がやってきます。
それから、
個人的体験から、
この観念が非常に深く染み込み、
無条件で完全に受け入れられる理解となります。
さて、
どうやってそのことは可能になるのでしょうか?
ティム
人は、
行為を分析する練習をすることができると、
あなたは言いました。
そして、
これをすることで、
エゴを弱められると言いました。
ラメッシ
エゴがそれを始めます。
そしてその過程で、
エゴはますます弱まります。
ティム
それからある時点で、
質問が源泉から直接されると、
あなたは言いました。
ラメッシ
質問がわき起こるのです!
それが意味するのは、
エゴが弱まって、
質問することさえできないほどだということです。
ある種の修行では、
エゴはますます強まる可能性があります。
でも、
私の考えによると、
私が提案しているこの過程では、
エゴは何もしていない
──何もすることができない──
行為はただ起こるのだ、
という個人的な体験からの理解が
ますます大きくなるにつれて、
エゴはますます弱まります。
そして、
最後には死ぬのです。
『誰がかまうもんか?!』(p202-203)
──────────────────
> 私の考えによれば、
> 答えは、
> まず最初に自分は、
> 分離した行為をしている
> 他者から分離したしている個人ではないことを、
> 知性で理解しなければなりません。
“自分”の行為のなかでどれほどの部分が
本当に“自分”が選択していると言えるのか?を
つぶさに分析して、
まず、知的に理解しなくてはならないと言います。
> それから、
> 個人的な体験によって、
> その必然的結論を
> 無条件に受け入れるようにすべきです。
そして日々の個人的体験によって
その結論を深く浸透させてゆかなくてはならない。
> 最初に、
> 自分は分離した行為者ではないという
> 知的理解がやってきます。
まず、知的に納得する。
> それから、
> 個人的体験から、
> この観念が非常に深く染み込み、
> 無条件で完全に受け入れられる理解となります。
それからその知的理解を
個人的体験として無条件に完全に受け入れるまで
自分のなかに浸透させなければならない。
> さて、
> どうやってそのことは可能になるのでしょうか?
>
> ティム
> 人は、
> 行為を分析する練習をすることができると、
> あなたは言いました。
> そして、
> これをすることで、
> エゴを弱められると言いました。
それまでのエゴの確信が揺らいでくる。
> ラメッシ
> エゴがそれを始めます。
> そしてその過程で、
> エゴはますます弱まります。
そして、
エゴはますます自信を失ってくる。
> ティム
> それからある時点で、
> 質問が源泉から直接されると、
> あなたは言いました。
>
> ラメッシ
> 質問がわき起こるのです!
> それが意味するのは、
> エゴが弱まって、
> 質問することさえできないほどだということです。
このサーダナの過程がある程度進むと、
エゴはだんだん以前のような
自信をもった主張ができなくなってくる。
そしてついには質問すらできなくなってくる。
> ある種の修行では、
> エゴはますます強まる可能性があります。
ニューエイジ系のエゴの洗練は
つねにエネルギーを外側に向けること、
自分の感情を実現すること、
つまり自己実現に向かいます。
> でも、
> 私の考えによると、
> 私が提案しているこの過程では、
> エゴは何もしていない
> ──何もすることができない──
> 行為はただ起こるのだ、
> という個人的な体験からの理解が
> ますます大きくなるにつれて、
> エゴはますます弱まります。
しかし、
ラメッシ・バルセカールが勧める
自分の「行為の分析」というサーダナでは、
エゴは何もしていないことが
だんだん自明になってくる。
そのことを日々の個人的体験で確認してゆくと
その体験からの理解が大きくなるにつれて
エゴはますます弱体化してゆく。
> そして、
> 最後には死ぬのです。
そして、
それが源泉の意志であるなら、
それがその肉体精神機構の運命であるなら、
エゴは死滅する。
では、
一日の終りに「行為を分析する」とは、
具体的にはどういうことなのか?
ラメッシ・バルセカールは
次のような例を挙げて説明します。
──────────────────
ラメッシュ:
単純な行為を例にとってください。
あなたはここを出て、
どこか知らないレストランへ食事に行くことにします。
一日の終わりに、
行為が起こったままに
このすべての行為を分析してみると、
いくつかの思考がやってきて、
あなたはそれに
何のコントロールもできなかったことに
気づくでしょう。
それはらどんなものだったでしょうか?
「私は空腹である。
私は何かを食べたい。
でも私は今あまりお金を持っていないので、
美味しい料理を
比較的安い値段で食べることができる、
清潔なレストランを見つけたい」。
それから、
あなたは誰かに尋ねるのです。
「このあたりに適当なレストランがありますか?」。
すると誰かが
「あるよ、角を曲がったすぐのところに」
と言います。
で、何が起こったのでしょうか。
そこには思考の連続がありました。
脳は、
あなたがコントロールできない
さまざまな状況に従って、
これらの思考に反応しました──
空腹が起こります。
自分の条件づけにより、
あなたはおいしくて清潔な食べ物が好きです。
あなたは、
部屋にほとんどのお金を残して気づきました。
そこで、
脳は存在する状況に反応し、
誰かに道を尋ねます。
「このあたりに適当なレストランがありますか?」。
ですから、
それはどのくらいが「あなた」の行為で、
どのくらいが
あなたをそのレストランへと導いた状況や
条件づけの連鎖だったのでしょうか?
そしてあなたは、
次のような結論に達します。
「それは『自分』の行為ではなかった。
『私』は突然空腹になり、
一連の状況によって、
『私』はあるレストランへ導かれて、
それに対して
『私』は何のコントロールもできなかった」。
『誰がかまうもんか?!』(p204-205)
──────────────────
なるほど。(-_-;)
こうして毎日“自分の行為”を分析すれば、
それがどれほど“自分の”行為だったのかを
嫌でも自覚させられるでしょうね。
> それはどのくらいが「あなた」の行為で、
> どのくらいが
> あなたをそのレストランへと導いた状況や
> 条件づけの連鎖だったのでしょうか?
いったい“自分”なるものが
その行為に関与していたと言えるのかどうか?
もし“自分”の関与などというものが
なかったことがわかってしまったら、
では、
“自分”とは、
『私』とは、
いったい何なのか?(-_-;)
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ラメッシ・バルセカールの手法って
やっぱり現代人向けの手法なんでしょうね。
手の内をすべて見せながら、
しかもエゴの逃げ場をどこにも残しません。
すごいです。
可能性無きにしもあらず。(^_-)
自分がやっていることって何かある?
でも、まだまだ変容が起こることを
期待している者がいるからなぁ。(-_-;)
(*^_^*)
「誰」が「誰」の変容を期待しているのか?
Who cares!
神の意志だけが行きわたっている。(*^_^*)\ゴン←……(\/U)
ッテぇ!(/_;)
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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