━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/10/13(第1069号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
すべての二元性は幻想であり、すべての行為は瞬間的で、
すべての意志は幻想です。意志が幻想であるとわかれば、
すべての行為は自動的に自発的になります。
(『Who Cares?』R.S.Balsekar)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.pariの行為が無ければ(Who Cares?)
2.編集後記
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■1.pariの行為が無ければ(Who Cares?)
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今地上では
いろいろなことが極端化しているようですね。
最近の異常気象による天変地異も、
われわれが知っていた一昔前のものとは
ちょっと別次元のものとも言えるようです。
日本だけではありません。
中国の北京近郊の大洪水にしても、
アメリカ、フロリダ州のハリケーンにしても、
ヨーロッパ、スイスの突風にしても……。
秒速80メートルって、
これまでそんなの聞いたことあります?
たぶん地球の歴史のなかでも、
というかこの近辺宇宙の歴史のなかでも、
今はかなり特別な時期なのでしょう。
もっとも、すべては聞いた話ではあります。
すべては現れに関わる
意識の【見かけ】の話だとも言えます。
神の意志だけが行きわたっているのですから、
あまり気にするほどのことでもないのかも。(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
このところもっぱら
ブレイン・バルドーが編纂した
『誰が構うもんか!?』の記述の沿って
ラメッシ・バルセカールの教えに
身も心も浸ろうとしています。
現象にフォーカスしている“自分”は、
【意識の見かけ】から目が離せなくなっているだけで、
実際は何ひとつコントロールできるわけではない
ということを腑に落としたいわけです。
というのは、
どうも今となってはというか、
あるいはこの歳になるとと言うのか……、
何かを「実現できる」という話よりは、
何も「できることはない」という話のほうが
安らげるし、本当だと思える。
なにより、楽ですしね。(*^_^*)
だから、
「どう考えても、
この現象世界に介入して
何かをできる“自分”なんていない」
という事実に、全身で共振したい。
現象世界のすべてにおいて
「神の意志だけが行きわたっている」、
「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない」、
ということを腑に落としたいのです。
このままでまったく何の問題もない、
という真実性に身を浸したいのです。
バカボンのパパの向こうを張って
「これでいいのだ!」\(^O^)/
と本心で叫びたい。
そのほうが楽だ、という感じがするわけです。
というわけで、
今日も『誰が構うもんか!?』の
前回に続く文面を追っていきたいと思います。
(相変わらず長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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ゲーリー:
私の認識はころころ変わります。
だから私は、
自分の感覚を信じることができないと言うのです。
何かが起こっている、
あるいは起ころうとしているときには、
自分にコントロールがあるように思えます。
でも、
何かがすでに起きてしまうと、
自分にはコントロールできなかったように
思えるのです。
そのことが何であってもかまいません。
ですから、
それは時間の問題です──
私が時間を通じてそれをどう見るかという……
ラメッシ:
だから私は「一日の終わりに」と言うのです。
ゲーリー:
一日の終わりには、
いつも自分をコントロールできなかったように思えます。
ラメッシ:
まさにそこがポイントです。
ゲーリー:
でも、
先を見ると、
自分はコントロールできるように
いつも思えるのです。
ラメッシ:
はい、「いつもそう思えるのです」。
あなたが言っていることは百パーセント正しいです。
「自分」はコントロールできると
「いつも思えるのです」。
『誰がかまうもんか?!』(p205-206)
http://tinyurl.com/22v2o8j
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> ゲーリー
> 何かが起こっている、
> あるいは起ころうとしているときには、
> 自分にコントロールがあるように思えます。
> でも、
> 何かがすでに起きてしまうと、
> 自分にはコントロールできなかったように
> 思えるのです。
一日の初めには、
今日これから自分がすることは
自分がそれをしようと思うから起こる、
ということを当然の前提としています。
つまり、言い方を換えると、
自分の意志がその行為を引き起こす、
と考えているわけです。
ところが一日が終わってみると、
その日自分に起こったことを
自分がコントロールできたという気はしない。
そういうことが起こることを自分が望んだ、
と言える場合もあるかもしれないけれど、
言えない場合もあることは、
われわれは経験的によく知っている。
いずれにせよ、
自分の“意図”というものがもしあるとしたら、
その自分の“意図”は、
結果として起こったことに織り込まれていて、
起こったことの原因の一部ではあったとしても、
起こった結果そのものを
その“意図”がコントロールできたわけではない。
これは誰もが認めざるをえない事実でしょう。
> ゲーリー
> でも、
> 先を見ると、
> 自分はコントロールできるように
> いつも思えるのです。
しかし、にもかかわらず、
これから先のことについては、
結果をコントロールすることを目指して
“自分”は何かを意図するわけです。
それもまた、避けられません。
> ラメッシ
> はい、「いつもそう思えるのです」。
> あなたが言っていることは百パーセント正しいです。
> 「自分」はコントロールできると
> 「いつも思えるのです」。
未来のことについては、
ついつい、あたかも
「自分」が結果をコントロールできるかのように
自分の行為を意図せざるをえない。
──────────────────
ゲーリー
その両方の場合で「そう思える」のです。
ラメッシ
いいえ違います。
一日の終わりに分析して、
自分はコントロールできなかった
という結論に達するのです。
思考が起こった、
あるいは、
あなたは提案とか何かを聞いた、
何かを見た。
脳は見られたり、
聞かれたり、
考えられたりしたことに反応したのです。
あなたはこの分析を、
自分のどんな行為にも使うことができます。
そして、
一日の終わりに、
自分の個人的な体験から、
それは「自分の」行為ではなかったことを
見いだすのです。
どんな行為であれ、
その行為を分析することが、
私が思うにあなたがする必要のある唯一のサーダナ、
すなわち修行です。
それが私の考えです。
やれるだけ、
このサーダナをやってください──
そしてこのことも、
神の意志と、
その肉体精神機構の運命によるのです。
ですから、
あなたがそのサーダナをやれるだけやっていくと、
どんな行為も本当は「自分の」行為ではない
という結論に至ります。
そして、
もしこのことが来る日も来る日も起これば、
ある時点で
──やはり、それが
神の意志とその肉体精神機構の運命であれば──
「もしゲーリーが何もしていないとすれば、
ゲーリーとは誰か?」
という問いが、
自分の存在のまさに深みからわき起こってきます。
仏陀は言いました。
「そこに行為者はいない」。
これが、
あなたが個人的な体験から到達する結論です──
もしゲーリーが何もしていないならば、
ゲーリーとは誰か?
私とは誰か?
『誰がかまうもんか?!』(p205-206)
──────────────────
> 一日の終わりに分析して、
> 自分はコントロールできなかった
> という結論に達するのです。
> 思考が起こった、
> あるいは、
> あなたは提案とか何かを聞いた、
> 何かを見た。
> 脳は見られたり、
> 聞かれたり、
> 考えられたりしたことに反応したのです。
一日が終わって、
よくよく振り返ってみれば、
その日一日の“自分”の行為が、
頭に浮かんだ思考とか、
誰がから聞いた提案とか、
目に入った何かの刺激や情報に対する、
反応の結果だったことがわかります。
> 一日の終わりに、
> 自分の個人的な体験から、
> それは「自分の」行為ではなかったことを
> 見いだすのです。
“自分”の行為と見なされていたことはすべて、
入ってきた知覚的刺激に対する反応であって、
「自分の」行為と言うにはあまりにも他動的な
不可避の反応でしかなかったことは自明です。
> もしこのことが来る日も来る日も起これば、
> ある時点で
> ──やはり、それが
> 神の意志とその肉体精神機構の運命であれば──
> 「もしゲーリーが何もしていないとすれば、
> ゲーリーとは誰か?」
> という問いが、
> 自分の存在のまさに深みからわき起こってきます。
もしそういう個人的体験が
来る日も来る日も起これば、
自分の行為というもののなかで
もしpariの出番がまったく無かったのだとすれば、
「では、pariとは誰か?」という問いが
自分の存在の深みからわき起こってくる。
──────────────────
「私とは誰か?」、
これはラマナ・マハルシの問いです。
これを問いかけているのは知性ではない
と理解することが、
最も重要です。
知性が尋ねると、
知性が答えを提供します。
そして、
知性が提供した答えに対して、
またもや知性が質問します。
堂々まぐりが続くわけです。
でも、
源泉から問いがわき起こるとき、
源泉の意志とその肉体精神機構の運命であれば、
そのとき、
知性からではなく、
源泉から答えがやってきます。
ある肉体精神機構に与えられた名前以外に、
決してゲーリーがいたことはなかったのです。
ですから、
どんな行為者もいたことがありません。
ゲーリーとそのエゴは存在していません。
もしゲーリーが存在していないとすれば、
何が存在しているのか?
ただ、
源泉だけです。
源泉だけが存在するすべてなのです。
ゲーリー、
私の基本的な考えは、
あらゆる人間は、
源泉が使うプログラムされた道具やコンピュータである、
というものです。
そして、
一人一人の人間コンピュータはユニークです。
一人として同じ人間はいません。
それは、
DNA(遺伝子)と、
一人一人が受け取る条件づけが違うからです。
そして、
人間はその条件づけに対して、
何のコントロールもできません。
遺伝子と条件づけが、
私がプログラミングと呼んでいるものです。
そして、
源泉は、
源泉が望む行為をもたらすために何をするのでしょうか?
インプット(入力)です。
インプットとは何でしょうか?
源泉があなたに思考を送ると、
脳はその思考に反応し、
プログラミングに従ってアウトプット(出力)します。
ゲーリーは、
この出力は「自分」の行為だと言います。
でも、
一つ一つの行為を分析すると、
あなたはどんな行為も
「自分の」行為ではないという結論に至ります。
『誰がかまうもんか?!』(p207-208)
──────────────────
> 「私とは誰か?」、
> これはラマナ・マハルシの問いです。
> これを問いかけているのは知性ではない
> と理解することが、
> 最も重要です。
昔、初めてのプーナで
「エンライトンメント・インテンシブ」
というグループワークに参加したことがあったけれど、
あれはpariにとっては
まさに英作文以外のなにものでもなかった。(*-_-*)
> 知性が尋ねると、
> 知性が答えを提供します。
はい。
> そして、
> 知性が提供した答えに対して、
> またもや知性が質問します。
> 堂々まぐりが続くわけです。
まったく。
以後何の疑問も湧いてこなくなるわけでも、
平和が訪れるわけでもない。
> でも、
> 源泉から問いがわき起こるとき、
> 源泉の意志とその肉体精神機構の運命であれば、
> そのとき、
> 知性からではなく、
> 源泉から答えがやってきます。
「私は誰か?」とは
そういう意味合いの問だったわけです。
> ある肉体精神機構に与えられた名前以外に、
> 決してゲーリーがいたことはなかったのです。
「pari」という名称には
この肉体精神機構に与えられた名前
という意味合いしかなかった。
この肉体精神機構に与えられた名前以外に、
「pari」という実体が存在したことなど
一度もなかった。(-_-)
> ですから、
> どんな行為者もいたことがありません。
> ゲーリーとそのエゴは存在していません。
どんな行為者もいたことがない。
「pari」というエゴは
(実体としては)存在していない。
> もしゲーリーが存在していないとすれば、
> 何が存在しているのか?
> ただ、
> 源泉だけです。
> 源泉だけが存在するすべてなのです。
もし「pari」が存在していないとすれば、
何が存在しているのか?
存在するのは源泉のみ。
源泉が存在するすべて。
> 私の基本的な考えは、
> あらゆる人間は、
> 源泉が使うプログラムされた道具やコンピュータである、
> というものです。
人間とは
源泉が使うプログラムされたバイオロボット。
> 一人一人の人間コンピュータはユニークです。
> 一人として同じ人間はいません。
> それは、
> DNA(遺伝子)と、
> 一人一人が受け取る条件づけが違うからです。
個々の人間コンピュータはユニークで、
一人として同じロボットは存在しない。
個々にもっているDNA(遺伝子)と
授けられている条件づけが違うから。
> そして、
> 人間はその条件づけに対して、
> 何のコントロールもできません。
誰一人として
その条件づけに対して何らかの
コントロールを及ぼせる者はいない。
> 遺伝子と条件づけが、
> 私がプログラミングと呼んでいるものです。
このプログラミングは
サイバー空間の表示技術に喩えるなら、
最初期の静止画像のようなホームページを表示していた
HTMLのような静的言語ではなく、
現在の多くのサイト表示を記述している
WordPressのような動的表示のための言語のようなもの。
つまり状況が出現したときに
ダイナミックに即時に反応して表現させる
ためのプログラミング。
> そして、
> 源泉は、
> 源泉が望む行為をもたらすために何をするのでしょうか?
> インプット(入力)です。
> インプットとは何でしょうか?
> 源泉があなたに思考を送ると、
> 脳はその思考に反応し、
> プログラミングに従ってアウトプット(出力)します。
> ゲーリーは、
> この出力は「自分」の行為だと言います。
> でも、
> 一つ一つの行為を分析すると、
> あなたはどんな行為も
> 「自分の」行為ではないという結論に至ります。
そうやって「リーラ」の舞台設定をしておいて、
「神」はそれぞれの登場人物たちに
インプット(入力)を送って、
その個々のバイオロボットから
所期の出力=アウトプット(動的反応)を
導き出している。
そして“個人”という幻想を生じさせて遊んでいる。
なぜなら、
すべての現象、
すべての体験は幻想であって、
実際には意識という観念的想像以外に
実体としての犠牲者が存在するわけではないから。
意識波動の干渉波が消えたとき、
そこには背景としての純粋意識があるだけで、
そこにはもともと誰も存在していないから。
ラメッシ・バルセカールも存在しなければ、
pariも存在しない。
すべての多様性は
一瞬の【見かけ】を生み出す
つかの間の想像として現れるだけ。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
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■ 2.編集後記:
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誰が誰を相手に
何をやっていることやら。(*^_^*)
Who cares!
神の意志だけが行きわたっている。
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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