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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.107 2006,03/12(第107号)
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガは“アセンション情報の広告塔メルマガ”です。

つまり、“アセンション”という言葉の流通拡大を手段として、
地球住民の“集合意識”の基盤を“ゆるめ・ひろげ”ることによって、
地球が向かう新しい光り輝く世界への次元移動を、できるだけ自然で、
スムーズなものにすることを目的に週刊で発行されています。(^_-)


◇◇ このメルマガが想定する“アセンション”◇◇

“アセンション”という言葉を聞いたことがない方は、発信サイトで
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また、特にこのメルマガが想定している“アセンション”という言葉の意味合
いについては
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これまで地球の次元上昇サポートを背後支援に絞ってこられたETの方々が、
ファーストコンタクトに向けて国勢調査を開始されました。
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要するに、グレゴリオ歴2012年12月22日をひとつの仕切として、これからわず
か7年ほどの間に、前後のつながりを辿れなくなるほどの大激変を通過して、
われわれは光り輝く圏域に移行するという、なんともはや嬉しいような、恐ろ
しいようなお話に“悪乗り”して行こう、という楽しい話題を振りまいていま
す。(^^)/

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◇◇ もくじ ◇◇

1.あなたが何ではないかを知ればそれでいい

2.いただいたお手紙から: N.Aさん

3.編集後記:「恥ずかしい」から → (?_?)
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■ 1.あなたが何ではないかを知ればそれでいい
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いやー、今日は思いがけなく出発が遅れました。^^;

日没の早いここではとおに日も暮れて……、暖かかった一日もそろそろ夜寒に
向かおうとしている。

でも、今日は楽しかった。(^-^)

これから一日一日を感謝しながら、こんなふうに生きていきたいなぁ。(-_-;)

(*^_^*)

「私は在る」……。

これ↑、間違いありませんよね。

そして……、

“私があるがゆえに、この私の世界がある”、←これだって間違いない。^^;

一日の内、それを覚えている時間を増やして行くだけ。

こりゃ、楽だ。

簡単だ。

なんて言いながら、また、すぐ忘れるんだけど。^^;

でも、問題ない。

だって、また「私は在る」って思い出せばいいだけなんだも。

そして、じっさい、思い出しさえすれば、じっさい「私は在る」もんね。(^_-)

だって、あなたも今この瞬間に「私は在る」って言えるでしょ。

ウソでも、法螺でもなんでもなしに。

「私は在る」って。(^_-)

というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”にお付き
合いいただく時間がやってまいりました。(^^)/

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか?

もう、勢いで模様替え↑しちゃいました。(^_-)

あはは、大したことじゃないけど。

いや、「私にとっての小さな一歩は、人類にとっての大きな一歩だ……」なん
て話もあるか。^^;

はは、大袈裟、大袈裟。^^;

そもそも、大きい、小さいが、すべて幻想なんだしな。(-_-;)

このところほとんど毎回、ニサルガダッタの『I AM THAT 私は在る』
の文章を引用しているんだけど……、いやー、はまりましたね。

ドツボにはまるんなら、これくらいはまり甲斐のあるドツボはない。

もう、極め付き。

前にも書きましたが、このニサルガダッタの『I AM THAT 私は在る』
という本をわたしにくれたのは、友人のナンダンなんですよね。

本の中には、いろいろナンダンが線を引いてあるところがありました。

本の中で、これは!と思う文章に出会ったりすると、わたしの場合は付箋を貼
ります。

分厚い本なので、この本の場合は最初から通して読むということはしませんで
したけどね。

毎回、適当なところを開いては、そこから読んでいました。

ところが、これが付箋を貼りだしたら、もう切りがない。(@_@)

読むところ、読むところ付箋を貼ることになってしまって、もう止め処もない
ことになってました。

前の病院に入院していたナンダンから電話があったときに、「ナンダン、あれ
は凄い本だね。なんならもう一度読まない? 持っていこうか?」って訊いた
ら、「いや、あんな字の小さな本は、頭がクシャクシャくしてしまって、オレ
は駄目だ」って言われてそのままになっていたんだけど……。

それでこの前、ナンダンがホスピス病棟に入るって電話をかけてきたときに、
「あと半年くらい生きられるみたいだ」って言うので、じつはもう一度、ニサ
ルガダッタをもう一度読んでみないか、って言ってみたんです。

そしたら、そのときは意外に素直に、「じゃ、読んでみるか」って言うので、
amazonで自分用の本を注文しました。

またホスピス病棟から電話があったときに「ナンダンの本には、ずいぶん付箋
を貼っちゃったけど、持っていくのは新しい本とどっちがいい?」と訊いたら、
言下に「古い方がいい」というので、今度また、まっさらな、新品の本が手許
にきました。

びっしり付箋が貼ってあった本がなくなって、真新しい本を開いてみたら……。

いやー、これがまたいいのなんのって……。(>_<)

ほんとに。(;_;)

最初の第一節を見たら、もうそこにすべてがあるんだよね。

ちょっと、また、書いちゃう。(*^_^*)

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 1「私は在る」という感覚

 質問者 毎朝、目覚めとともに世界が突然現れるのは、日々体験することで
 す。それはいったいどういうところからやってくるのでしょうか。
 
 マハラジ 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならな
 い。すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提
 としている。
 
                『I AM THAT 私は在る』(p23)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4931449700/
----------------------------------------------------------------------

ね、これ↑いいでしょ。

> 毎朝、目覚めとともに世界が突然現れるのは、日々体験することです。
> それはいったいどういうところからやってくるのでしょうか。

この質問も、とってもいいと思わない? (@_@)

それに対する返答。

> 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。すべて
> の出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提としている。

ってー。(>_<)

これ、堪えられない。

> 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。

これはもう文句なし、絶対の真実だよ。

そうでなかったら、“何か”が“現れ”ようがないじゃんね。

そしたら、そこから自動的に、

> すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提とし
> ている。

って、ことにならざるをえないわけだ。

こりゃもう、文句なしのホント。

これに文句あるヤツは出てこい!! って、感じだよね。

(ま、ま、そう興奮しないで。(^^;) )

----------------------------------------------------------------------
 質問者 目覚める前、私は無意識でした。
 
 マハラジ どういう意味だろう? 忘れてしまったのか、それとも体験しな
 かったのだろうか? たとえ無意識のときでも、あなたは体験しないと言え
 るだろうか? 記憶の忘却、それが存在していないことの証明になるだろう
 か? あなたが存在していなかったと、実際の体験として語ることができる
 だろうか?
 
                『I AM THAT 私は在る』(p23)
----------------------------------------------------------------------

忘れているからといって……、思い出せないからといって……、それが存在し
なかったことの証明になるだろうか?

あなたは、自分が“存在していなかった”という体験を、実際の、自分の体験
として語ることができるだろうか?

(……そんなもの、語れるわけないっしょ。(^_-) )

ここを読んだときねぇ、思わず、むかーし読んだことがある、ある文章を連想
しましたよ。(-_-;)

それは、クラーゲス(1872-1956)というドイツの科学者にして詩人の著書、
『L.クラーゲス 意識の本質のついて』(1963年勁草書房刊 千谷七郎訳)
という本の中にあった文章です。

それは、わたしがこれまで目にしたことがあるなかで、最も明晰な科学的言葉
で「自我」というものを叙述した文章でした。

いまちょっと、本棚から引っぱり出して引用してみますね。

----------------------------------------------------------------------
  従って個人我は精神そのものではなく、生に結びつけられた精神であるか
 ら、単に考えられることの出来るものであるのみならず、体得され(感じら
 れ)ることの出来るものでなければならない。それ故、疑いなく誰しも自分
 の生きていることを感じるばかりでなく、自分は生きているもの、即ち自分
 の自我であることをも感じている。――自我感情の内実を省察して見るなら
 ば、自我感情とは終始現存在(das Dasein)の感情に外ならないという結論
 が出る。私が自分を一つの自我であると感じるというのは、私は自分が居る
 と感じるのと全く同じことを言っている。此処に自余の一切の感情との根本
 的相違がある。即ち後者は一つ一つがそれの特殊の「色彩」をもつので、私
 がどのような気分であるかを私に知らせてくれるのである。これに対し自我
 感情は単に居るという感情に過ぎないので、何らの色彩をもたないのが一般
 である。どンな情調にもそれに照応する対蹠(たいせき)情調があるのは、
 ちょうど白に対して黒、冷に対して暖、酸味に対して甘味が対立しているの
 と同様である。私は自分を、悲しくも或は楽しくも、忙しくも或は退屈にも、
 活発にも或は怠惰的にも、意気軒昂にも或は消沈にも、尊敬的或は軽蔑的、
 可愛くも或は憎らしくも感じることが出来る。併し私の現存在感情にだけは
 極性対応は全く思いつかれない(なんとなれば、存在しないということは、
 誰しも気づくとおり、単に概念であるに過ぎず、決して体得ではないからで
 ある)。つまり、知覚作用の吾々の分析は、自我感情の内実回省によって、
 このように確証されるのである。
  併しながら一層精密な考察によって、自我の現存在的性格に別の照明が投
 げられる。自我感情には極的対蹠感情はないにしても、別種の対蹠において
 やはり自余の一切の感情がそっくりそれに対立するのである。自我性とは現
 存在であるから、自我性との関係では感情の一切の生起、動揺は自我に出合
 う何ものかとして出現し、その結果どの出合いにおいても自我は出合いに対
 して自分を固必することによって、常に不変なのである。生起の現実に投げ
 込まれて、存在は存在の固必となり、自我感情は自我保存の欲求となる。
 ――自我の存在的性格が物の手本となっているとすれば、自我の固必的性格
 は物の作用的能力の手本、従ってまた「原因」や「力」の手本となる。この
 事についてもニーチェは他の何人(なんぴと)の追随を許さぬほどによく知
 悉していた!
 
           『L.クラーゲス 意識の本質のついて』(p33-34)
----------------------------------------------------------------------

……。(-_-;)

(*^_^*)

あなた、ここ↑、読むのを飛ばしたでしょ。(^_-)

うーん、たしかに、ちょっと文字がいっぱいに詰まっているね。^^;

わたし、昔、こんな難しい本を読んでいたんだなぁ……。

いま、思うとね。

今は、へらへらして、吹けば飛ぶような軽さになっているけれど、昔は、結構、
重かったよね、これは。

で、その分、いまは幸せになっているものなぁ。(*^_^*)

というか、重厚な不幸を深める能力がなくなった、とでもいうのか。^^;

どうも、マインドに力が入らない。(^_-)

昔は、何を思ってこんな難しい文章を読んでいたんだろう。

でもね、この文章、じつに、なかなかスゴイことを言っているんですよ。

たしかに、文字が“濃く”詰まっているし、ちょっと読みにくいかもしれませ
んけどね。

要するに、上の文章で、クラーゲスが言っていることを煎じ詰めればですね、

> 自我感情の内実を省察して見るならば、自我感情とは終始現存在
> (das Dasein)の感情に外ならないという結論が出る。

ということに尽きます。

われわれの“自分という感覚”の“正体”が何であるかをよくよく突き詰めて
みると、それは「現に今在る」という感覚だ、と言っているわけです。

“自分”というものの「根拠」とか「正体」は、それ以外にはない、とまあ、
言うんですよね。

だから、クラーゲスは、もう一度しつこく

> 私が自分を一つの自我であると感じるというのは、私は自分が居ると感じる
> のと全く同じことを言っている。

と、断っているわけです。

“自分”を感じるということと、自分が「居る」と感じるというのは、まった
く同じことだ、って言うんですよね。

……これ、スゴク面白いと思いません?

ニサルガダッタは、「私とは何か」について真実、言えるのは、「私は在る」
ということだけだ、というわけでしょ。

それ以外の、私は“あれ”だ、私は“これ”だというのは、すべて「幻想」だ
というわけですものね。

なぜなら、その“あれ”や“これ”はすべて時空のなかに存在していて、マイ
ンドの構築物だから、それは束の間の現象、つまり幻の存在であり、その意味
でそれは「非在」だから、と。

「私」は“あれ”だとか「私」は“これ”だとかいうときの、その「私」と、
それ以外の“あれ”や“これ”の関係について、クラーゲスはこんな言い方を
します。

> 此処に自余の一切の感情との根本的相違がある。

「自我感情」と、その他のいっさいの感情はまったく違うんだ、と。

なぜかと言うと、「自我感情」以外のいっさいの感情は二元性の“彩り”を持
っているからだ、というわけです。

> 即ち後者は一つ一つがそれの特殊の「色彩」をもつので、私がどのような気
> 分であるかを私に知らせてくれるのである。

「私」は“辛い”、「私」は“嬉しい”、「私」は“恥ずかしい”、「私」は
“バカ”だ、「私」は“チョン”だ、と。(*^_^*)

> どンな情調にもそれに照応する対蹠(たいせき)情調があるのは、ちょうど
> 白に対して黒、冷に対して暖、酸味に対して甘味が対立しているのと同様で
> ある。私は自分を、悲しくも或は楽しくも、忙しくも或は退屈にも、活発に
> も或は怠惰的にも、意気軒昂にも或は消沈にも、尊敬的或は軽蔑的、可愛く
> も或は憎らしくも感じることが出来る。

ところが、自我感情(=「私」)に関しては……、

> これに対し自我感情は単に居るという感情に過ぎないので、何らの色彩をも
> たないのが一般である。

「(私は)在る」の一張羅で、全然変わり映えがない、と。(*^_^*)

> 併し私の現存在感情にだけは極性対応は全く思いつかれない(なんとなれば、
> 存在しないということは、誰しも気づくとおり、単に概念であるに過ぎず、
> 決して体得ではないからである)。

(@_@)

なんと!!

ね、聞いた? この言葉。

> なんとなれば、存在しないということは、誰しも気づくとおり、単に概念で
> あるに過ぎず、決して体得ではないからである

これ、これ↓と同んなじじゃない?

> あなたが存在していなかったと、実際の体験として語ることができるだろう
> か?

(@_@)

ね。

だから、このニサルガダッタの言葉を聞いた瞬間、一瞬のうちに、昔読んだこ
とがあるクラーゲスの言葉が甦ったんだよね。

> なんとなれば、存在しないということは、誰しも気づくとおり、単に概念で
> あるに過ぎず、決して体得ではないからである

って言葉が。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 私は常に記憶と習慣をもった「誰か」です。それ以外の「私は在る」
 を私は知りません。
 
 マハラジ 何かがあなたを知ることから妨げているのだろうか? 他の人が
 知っていることを知りたいと思ったとき、あなたはどうするだろう?
 
 質問者 彼らの指導のもとに、その知識の源泉を探るでしょう。
 
 マハラジ あなたにとって、あなたが単なる身体に過ぎないのか、あるいは
 何かそれ以外のものなのかを知ることは、重要ではないだろうか? あるい
 はまったく何ものでもないかも知れないということを? あなたが抱えてい
 るすべての問題は、あなたの身体の問題――食事、衣服、家、友人、名前、
 名声、安全、生存だということがわからないだろうか? これらの問題すべ
 ては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去るのだ。
 
                『I AM THAT 私は在る』(p23)
----------------------------------------------------------------------

> マハラジ 何かがあなたを知ることから妨げているのだろうか? 他の人が
> 知っていることを知りたいと思ったとき、あなたはどうするだろう?

親切だよねぇ。(-_-;)

そしてこれ……、

> あなたが抱えているすべての問題は、あなたの身体の問題――食事、衣服、
> 家、友人、名前、名声、安全、生存だということがわからないだろうか?

う。(-_-;)

> これらの問題すべては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去
> るのだ。

(@_@)

----------------------------------------------------------------------
 質問者 私がこの身体ではないと知ることが何の役に立つというのでしょう
 か?
 
 マハラジ あなたが身体ではないと言うことでさえ、まったくの真実とは言
 えない。ある意味では、あなたはあらゆる身体、ハート、マインドのすべて、
 またそれ以上なのだ。
 「私は在る」という感覚の中に深く入っていきなさい。
 そうすればあなたは見いだすだろう。
 忘れ去ってしまったものを見つけだすにはどうするだろう? 
 思い起こすまでマインドにとどめておくのだ。
 「私は在る」という存在の感覚が最初に現れる。
 それがどこからやってくるのか、自分に尋ねなさい。
 あるいは、それをただ静かに見守りなさい。
 「私は在る」という感覚の中にマインドが動じることなく定まったとき、表
 現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。
 何度も何度も試みることだ。
 そうすれば、「私は在る」という感覚は、常にあなたと共にある。
 あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけ
 だ。
 こういった自己同一化は、あらゆる誤解を招く。
 そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤ってきたのだ。
 
                『I AM THAT 私は在る』(p24)
----------------------------------------------------------------------

> 「私は在る」という感覚の中に深く入っていきなさい。

う。(;_;)

> 「私は在る」という感覚の中にマインドが動じることなく定まったとき、表
> 現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。

わった。

> 何度も何度も試みることだ。

う。

> そうすれば、「私は在る」という感覚は、常にあなたと共にある。

しってる。

> あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけ
> だ。

わってる。(;_;)

----------------------------------------------------------------------
 質問者 では、私とはいったい何なのでしょうか?
 
 マハラジ あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。
 あなたが何なのかを知る必要はない。
 なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは概念としてしか
 表せないため、自己知識といったものはあり得ないからだ。
 それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せな
 い。
 あなたに言えることは、「私はこれではなく、あれでもない」ということだ
 けだ。
 意図をもって、「これこそが私だ」と言うことはできない。
 それは全く意味をなさない。
 あれやこれ、と指し示すことができるものは、あなたではありえない。
 何かほかのものだとさえ言えない。
 あなたは知覚や想像を超えた何かだ。
 それにもかかわらず、あなたなしでは想像も知覚もあり得ない。
 あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観
 察する。
 そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないということを示唆
 しているのだ。
 あなたなしで知覚や体験が可能だろうか? 
 体験とは必ず何かに帰属するものだ。
 誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。
 体験者なくして体験はありえない。
 体験者が体験にその実在性を与えるのだ。
 あなたが体験できないもの、それに何が価値があるというのだろう?
 
                『I AM THAT 私は在る』(p24)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4931449700/
----------------------------------------------------------------------

> 質問者 では、私とはいったい何なのでしょうか?

けっぱれ。

> マハラジ あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。

うん、わった。

> あなたが何なのかを知る必要はない。

う。

> なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは概念としてしか
> 表せないため、自己知識といったものはあり得ないからだ。

う。

> それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せな
> い。

う。

> あなたに言えることは、「私はこれではなく、あれでもない」ということだ
> けだ。

わった。

> あなたは知覚や想像を超えた何かだ。

(-_-)

> それにもかかわらず、あなたなしでは想像も知覚もあり得ない。

う。

> あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観
> 察する。そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないというこ
> とを示唆しているのだ。

(-_-)

> あなたなしで知覚や体験が可能だろうか? 

いや。

> 体験とは必ず何かに帰属するものだ。
> 誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。

(@_@)

> 体験者なくして体験はありえない。
> 体験者が体験にその実在性を与えるのだ。

うん。

> あなたが体験できないもの、それに何が価値があるというのだろう?

うん。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 体験者としての存在の感覚、「私は在る」という感覚もまた体験で
 はないでしょうか?
 
 マハラジ 明らかに、体験されたすべてのことは体験だ。
 そしてすべての体験のなかに体験者が現れる。
 記憶が連続するという幻想を与えるのだ。
 実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。
 そして同一であるという感覚は、すべての体験者と体験との関係の根底にお
 いて共通の要因があるためだ。
 同一性と連続性は同じものではない。
 ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は
 同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々であ
 りながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。
 この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」
 なのだ。
 
                『I AM THAT 私は在る』(p24)
----------------------------------------------------------------------

> そしてすべての体験のなかに体験者が現れる。

(-_-)

> 記憶が連続するという幻想を与えるのだ。

(-_-;)

> 実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。

(@_@)

> そして同一であるという感覚は、すべての体験者と体験との関係の根底にお
> いて共通の要因があるためだ。
> 同一性と連続性は同じものではない。

(@_@)

> ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は
> 同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々であ
> りながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。

おー。

> この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」
> なのだ。

う。

----------------------------------------------------------------------
 質問者 どのようにしてそれを得るのでしょう?
 
 マハラジ それを得る必要はない。
 なぜなら、あなたがそれなのだ。
 あなたがそれに機会を与えれば、それがあなたを得るだろう。
 非実在のものへの執着を解き放ちなさい。
 そうすれば、実在はそれ自身へと即座に速やかに入り込んでいくだろう。
 自分自身の存在をあれやこれや想像するのを止めることだ。
 そうすれば、あなたがすべてのハートであり、源泉であるという認識は明ら
 かになるだろう。
 それと共に選択でも、偏愛でも、執着でもない、すべてのものを愛すべき、
 そして愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。
 
                『I AM THAT 私は在る』(p24)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4931449700/
----------------------------------------------------------------------

> 質問者 どのようにしてそれを得るのでしょう?

そう。

> マハラジ それを得る必要はない。

(?_?)

> なぜなら、あなたがそれなのだ。

(>_<)

> あなたがそれに機会を与えれば、それがあなたを得るだろう。

(;_;)

> 非実在のものへの執着を解き放ちなさい。

う。

> そうすれば、実在はそれ自身へと即座に速やかに入り込んでいくだろう。

(-_-)

> 自分自身の存在をあれやこれや想像するのを止めることだ。

あ。(@_@)

> そうすれば、あなたがすべてのハートであり、源泉であるという認識は明ら
> かになるだろう。

(-_-)

> それと共に選択でも、偏愛でも、執着でもない、すべてのものを愛すべき、
> そして愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。

(-||-)

m(_ _)m


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■ 2.いただいたお手紙から: N.Aさん
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お気が向いたときに、たまに何か書いていただけると嬉しいです。
なにか、ご要望など伺えるとありがたいです。
E-mail:pari@jk2.so−net.ne.jp
まで、お願いします。(↑コピペできないアドレスでご免なさい。)

こちらなら↓コピペできます。
E-mail:parichan@gmail.com

勝手に掲載させていただくかもしれません。もちろん、掲載は困る、と書いて
おいていただければ、そんなことはしませんが。^^;

ハンドル名(=ここでの掲載名)もお願いしますね。


       …………○…………○…………○…………


今回は、N.Aさんからメールをいただきました。(^^)/

掲載許可をいただきましたので、早速、ご紹介します。

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 pariさん
 
 いつもメルマガありがとうございます。
 いつぞやメールをさしあげたN.Aです。
 引越しましたので、アドレスなんかも変わったのですが、毎週メルマガは読
 ませていただいてます。
 
 僕は船井幸雄さんのHPもよく覗いているのですが、最近感じることがありま
 す。
 船井さんがたくさん紹介するものの中にも「これは?」と思うものも見受け
 られます。
 しかし、それが船井さんの役割で、自分にとって疑わしいと感じるものでも
 誰かには必要なものなのだろう、と。
 最近はそう思うようになりました。
 だから、自分が素直に受け入れられるものもそうでないものも、判断したり
 批評したりしないという態度が身につきつつあります。
 そういった視点で観ると、なにやらpariさんのなさっていることもそれに近
 いのかなー、なんて感じております。
 
 前置きが長くなりましたが、
 余計なお世話と知りつつも、今回ちょっと気になる表現があったのでメール
 いたしました。
 ↓これです。
 
 > 片や、日本の古神道には、そういうお釈迦さんの教え自体を「仏魔」とい
 > うふうに評する「意味」づけもある。
 
 前にもpariさんがこのことに触れてましたので、ちょっとひっかかてるのか
 な?と感じたのです。
 「日月神示」を読まれてのことだと思いますが、「日月」の神様はお釈迦さ
 んの教え自体を否定されてはいないと思います。
 僕の解釈では、「仏魔」は教えを伝えようとする人たちが持つ人を支配しよ
 うとする想念だと思います。
 あるいは現代の「宗教」に附帯するエネルギー、「パワーかフォースか」で
 いえば「フォース」、といったものを指しているように思えます。
 いかがでしょうか?
 
 軽く受け流されても結構ですが、できればpariさんのご意見もお聞かせくだ
 さい。
 最近、世の中ではいろんなアクションが出てきて面白くなってきてますね。
 
 では、お体に氣をつけてメルマガ続けてください。
 もちろん、pariさんの自由意志で。
 
 感謝をこめて。
 
 N.A
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N.Aさん、掲載許可ありがとうございました。m(_ _)m

> 引越しましたので、アドレスなんかも変わったのですが、毎週メルマガは読
> ませていただいてます。

ありがとうございます。

> 僕は船井幸雄さんのHPもよく覗いているのですが、最近感じることがありま
> す。

はい。

> 船井さんがたくさん紹介するものの中にも「これは?」と思うものも見受け
> られます。
> しかし、それが船井さんの役割で、自分にとって疑わしいと感じるものでも
> 誰かには必要なものなのだろう、と。
> 最近はそう思うようになりました。

なるほど。

> だから、自分が素直に受け入れられるものもそうでないものも、判断したり
> 批評したりしないという態度が身につきつつあります。

わかる気がします。

> そういった視点で観ると、なにやらpariさんのなさっていることもそれに近
> いのかなー、なんて感じております。

そんな。(>_<)

> 前置きが長くなりましたが、
> 余計なお世話と知りつつも、今回ちょっと気になる表現があったのでメール
> いたしました。

はい。

> ↓これです。
> 
> > 片や、日本の古神道には、そういうお釈迦さんの教え自体を「仏魔」とい
> > うふうに評する「意味」づけもある。

ああ、ここですか、なるほど。

> 前にもpariさんがこのことに触れてましたので、ちょっとひっかかてるのか
> な?と感じたのです。

よく憶えていらっしゃって。(*^_^*)

たしかに、以前にも書いたことがあります。

> 「日月神示」を読まれてのことだと思いますが、「日月」の神様はお釈迦さ
> んの教え自体を否定されてはいないと思います。

なるほど。

> 僕の解釈では、「仏魔」は教えを伝えようとする人たちが持つ人を支配しよ
> うとする想念だと思います。

なるほど、そういう解釈ですか。

> あるいは現代の「宗教」に附帯するエネルギー、「パワーかフォースか」で
> いえば「フォース」、といったものを指しているように思えます。

なるほど、そう言われてみれば、わかる感じもしますね。

> いかがでしょうか?
> 
> 軽く受け流されても結構ですが、できればpariさんのご意見もお聞かせくだ
> さい。

わかりました。^^;

> 「日月」の神様はお釈迦さんの教え自体を否定されてはいないと思います。
というこのご意見↑、わたしもそうかもしれないと思います。

で、とても無責任な言い方なのですが、たぶん、あの文脈でのわたしの関心は、
“「日月」の神様がお釈迦さんの教えを否定”したかどうかには、あまり、な
かったのではないかと思います。^^;

メールでもちょっと書きましたが、自分が『日月神示』を読んでいた頃には、
「仏魔」という言葉が触れられていることにも気づきませんでした。

今でも、その言葉がどこに書かれているのかを知りません。

わたしが
> 片や、日本の古神道には、そういうお釈迦さんの教え自体を「仏魔」とい
> うふうに評する「意味」づけもある。
というふうに書いたのは、『火水伝文』のお伝え人の言葉を連想してのこと
でした。

そのとき聞いた言葉に、(おっしゃるような)“人を支配しようとする想念”
のエネルギーを、わたしが感じたということはあるかもしれません。^^;

ただ、あの文脈で触れようとしたのは、たぶん、それが誰の言葉、誰の理解、
ということよりは、この世を「苦界」とする解釈自体を(たとえば、それが、
お釈迦さんの理解・解釈だったとして)否定するような理解・解釈も、同じよ
うにありうるんだな、ということだったように思います。

伝わっているかどうか、ちょっと心許ないですが (*^_^*)、自分自身では、さ
っぱり瞑想などしていないにも関わらず、わたしは、瞑想自体を否定するよう
な見解にそれまで触れたことがありませんでした。

ですから、そういう見解を古神道の神さまの“メッセージ”として初めて聞い
たときには、それなりのショックだったのです。

おっしゃるように、じつは、それは“「日月」の神様”の見解ではないのかも
しれません。

しかし、それは、(少なくともその場で)客観的に“物証”で確かめられるよ
うなことでもありませんから、自分の中の“響き”で判断するよりしようがな
いことだという体験ではありました。

その意味では、たとえそれが“「日月」の神様”の見解であっても、同じこと
なのです。

だから、たぶん、あの文脈で触れたかったことは、それが本当に“「日月」の
神様”の見解であるかどうかということよりは、そのような見解もありうるこ
とだ、ということだったのではないかと思います。^^;

いろんな見解があるらしい、ということを感じます。

“刺抜きの刺”である「瞑想」を担ぐような教えを高いとか低いとか、または
神々と人間たちが手を取り合って一緒に遊ぶような歓喜の世界を高いとか低い
とか、そういうふうに評価する見解に触れたことがあります。

もうそうなると、大丈夫そうな、間違いなさそうな、信頼できそうな見解や、
見解の保持者を見つけることは至難の業になります。

もう、そのときどきの自分の“好み”で行くより仕方がなさそうだ、という気
もします。^^;

はっきりはわかりませんが、もしかしたら、そんな気分があって、書いた文脈
だったかもしれない、という気もします。

いや、ほんとに、その時々の気分で書いているだけなので、どんなことが言い
たい気分だったのかも、よくわからないという面もあるんですがね。(^^;)

ご返答になったかどうか……。

N.Aさん、メールありがとうございました。

m(_ _)m


       …………○…………○…………○…………


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■ 3.編集後記:「恥ずかしい」から → (?_?)
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この頃、自分があまりにも恵まれている、ということを感じながら生きていま
す。

いや、ほんとに、「恥ずかしながら……」というところですが。

でも、最近ちょっと思いついたことがあるんですよ。(^-^)

これまで、一瞬、恥ずかしくなると、思わず「サヨナラダケガジンセイサ」と
いう言葉を口走っていました。

ときには、一日に何度も。(*^_^*)

でも、最近、もう卒業しようじゃないか、と思いつきました。

それは、“恥ずかしい”というのが、「私は恥ずかしい」だと気がついたから
です。

でも、冗談じゃない!

「私は恥ずかしい」なんてものじゃない。(^_-)

「neti neti」です。

「あれでもない、これでもない」

私は、“恥ずかしい”なんてもんじゃない。

私は、そんなもんじゃない。

そんなことは言えない。

私について真実言えることは、ただひとつ。

「私は在る」

だけです。(^_-)

だから、これから自分を“恥ずかしい”なんてものに自己同化しそうになった
ら、即座に、本来の位置に戻すことにします。

「私は在る」

と。

(-||-)

……。

(-_-)

というわけで今回も……。

前号に続いて、著者のご了解を得ている「祈願文」という内容の文章を掲載さ
せていただきます。

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17.2001.7.7 地球さんへ

            【 祈 願 文 】 

56億年の永きにわたり、多くの魂に学舎を提供されてきた、地球さん、
本当にありがとうございました。
満身創痍でボロボロになりながらも、一言の愚痴も言わず、ただひたすら
大いなる愛で耐えてこられたあなたに、深く感謝いたします。
もうすぐ光の次元へ戻られるとのことですが、一日も早く傷を癒され、
元気な姿で光に還られますよう心よりお祈りいたします。
天の父よ、天の母よ、どうか私達の祈りを聞き入れ、地球さんにたくさんの
癒しの光をお送り下さい。

           海よ山よ空よ森よ川よ    よみがえれ

         生きとし生けるもの全て  よみがえれ

            地球よ         よみがえれ
------------------------------------------------------------------

<(_ _)>

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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pari♪jk2.so-net.ne.jp(“♪”→“@”に。m(_ _)m)
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