home > 通信 >「鏡」の中の“鏡像”(Who Cares?):『アセンション館通信』第1071号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2024/10/27(第1071号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。

 すべての二元性は幻想であり、すべての行為は瞬間的で、
 すべての意志は幻想です。意志が幻想であるとわかれば、
 すべての行為は自動的に自発的になります。
 (『Who Cares?』R.S.Balsekar)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。

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◇◇ もくじ ◇◇

1.「鏡」の中の“鏡像”(Who Cares?)

2.編集後記
──────────────────

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■1.「鏡」の中の“鏡像”(Who Cares?)
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この時期、

地球上でもいろいろ起こっていますね。

われわれがいつも気にかけ、

また問題にしているのはすべて

現象世界の話であることは間違いありません。

そして現象世界は永遠に変化しています。

つまり、

“誰か”が現象世界を問題にし、

その“誰か”が現象世界に何かを期待するかぎり、

その“誰か”は永遠に安らぐことはないわけです。

「誰」が「何を」求めているのか?

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?

ブレイン・バルドーが編纂した本

『誰が構うもんか!?』のごく最初のほうに

「第3章 現象」という章があります。

ちなみにその直前の章のタイトルは

「第2章 意識は存在するすべてである」

というのです。

そして、この「第3章」では

その唯一実在している「意識」が

どのように「現象」として姿を現すのか?

ということに関するラメッシ・バルセカールの

根本的理解がこの上なく簡潔に

叙述されているのです。

──────────────────
 
 第3章 現象
 
 
 ラメッシ
 存在するすべては意識です。
 それは、
 現象がそこから生じてくる源泉です。
 現象の機能とは、
 私たちが知っているような人生であり、
 現象の機能においては、
 個人の意志ゆえに起こることは何もありません。
 神の意志でなければ、
 何ごとも起こりえないのです。
 そして、
 私がここで「神」というのは、
 源泉を意味しています。
 
 ですから、
 まず第一に、
 存在するすべては源泉です。
 それを意識と呼んでもいいし、
 ラマナ・マハルシの言うように、
 真我と呼んでもいいですし、
 あなたが好きなように呼んでかまいません。
 でも、
 それが意味しているのは、
 一つの源泉――
 二番目のない一なるものであることを
 理解するようにしてください。
 存在するすべては、
 そこからこの現象が生じてくる源泉であり、
 現象とは、
 対象物全体のことです。
 人間は、
 個人的行為者という余分で怪しげな感覚の才能、
 つまりはエゴのことですが、
 それをもつ対象物の一つの種です。
 繰り返します。
 人間は、
 現象界の対象物全体を形成する
 その他すべての対象物と並んで、
 対象物の一つ、
 対象物の一つの種にすぎません。
 
 『誰がかまうもんか?!』(p58-59)
──────────────────

この一連の文脈のなかで語られていることは

きわめて単純です。

ですから、

ここでラメッシ・バルセカールが提出している

「意識」と「現象」に関する観念を、

できることなら(少なくとも論理的には)、

まったく疑問の余地が残らないほどに

腑に落としたいものだと思います。

> 存在するすべては意識です。
> それは、
> 現象がそこから生じてくる源泉です。

インド古来のアドヴァイタの伝統を受け継いで、

ラメッシ・バルセカールは

存在するのは「意識」(つまり「気づき」)

だけであると言います。

じゃあ、

「現象」として姿を現す「気づき」の対象物は、

「気づき」の外側に、

「気づき」とは別のものとして

存在しているのではないのか?というなら、

ラメッシ・バルセカールは、

「気づき」の外側に、

「気づき」とは“別のもの”として

存在しているものなど何もない、と言います。

何しろ、存在するのは唯一「意識」

(つまり「気づき」)だけなのだから、と。

たとえばの話、

もし、「気づき」の外側に、

「気づき」とは“別のもの”として

何らかの“対象物”が存在していると仮定した場合、

しかし、そのような“対象物”は

いったい“どこに”存在できるというのか?

だって、“誰”にも“何”にも気づかれないで、

どうやって“対象物”だけで存在できるんですか?

明らかに、

「気づき」の外側に、

「気づき」とは“別のもの”として

存在できる“対象物”などありえないわけです。

ということは、

あらゆる「気づき」の“対象物”は、

「気づき」そのものから生じているわけです。

それが「意識」(つまり「気づき」)を

「源」とか「源泉」と呼ぶ理由です。

> 存在するすべては、
> そこからこの現象が生じてくる源泉であり、
> 現象とは、
> 対象物全体のことです。

存在するすべては

現象(つまり対象物全体)が生じてくる源泉。

要するに、

実際は、

「意識」(つまり「気づき」)しか存在していない

ということです。

> 人間は、
> 個人的行為者という余分で怪しげな感覚の才能、
> つまりはエゴのことですが、
> それをもつ対象物の一つの種です。

われわれはあたかも“自分”が

気づいている当人(気づきの主体)

であるかのように誤解しているけれども、

実際は、

“自分”が気づきの主体だと誤解させられている

対象物の一つの種にすぎない、と。

──────────────────
 それから、
 現象の機能のなかで、
 「誰も」何もしていない――
 という二番目の基本的な観念が生じます。
 源泉の意志、
 神の意志でないかぎり、
 何も起こりえないということです。
 エゴは幻想であり、
 個人的行為者という感覚は幻想なのです。
 これが究極の理解です。
 
 究極の理解とは、
 「源泉とは別のものとされ、
  そして源泉と一つのものとなるエゴは存在しない」
 ということです。
 あなたが、
 「私は『私は在る』というものだ」
 と言うかぎり、
 その「私」は、
 源泉から分離しています。
 私が言っているのは、
 「私」――
 「自分」を意味するような「私」は、
 まったく存在しないということです。
 エゴは源泉と一つにはなりません。
 エゴは決して存在したことがなかったということを、
 無条件に全面的に受け入れると、
 エゴが源泉のなかに消えます。
 
       *  *  *
 
 『誰がかまうもんか?!』(p59)
──────────────────

人間というのは

「“自分”は気づきの主体だ」と

誤解させられている対象物の一つの種にすぎない、

という理解が生じると、

たちまち

> 「誰も」何もしていない――
> という二番目の基本的な観念が生じる

とラメッシ・バルセカールは言います。

これまで“自分”が選択して、

“自分”が決断して、

“自分”がその決断を実行に移している

と思ってきたけれど、

いったん、その途方もない自惚れが

紛れもなく幻想だったとわかってしまうと、

実際は、

「誰も」何もしていなかった、

という基本的な観念が生じる、と。

言葉を換えると、

> 源泉の意志、
> 神の意志でないかぎり、
> 何も起こりえない

という理解が明けそめる、と。

これまであれほどにも重要な関心事だった

> 「自分」を意味するような「私」は、
> まったく存在しない

ことがはっきりしてしまった。

「エゴ」が悟るなどということは起こりえない。

なにしろ、

そもそも「エゴ」など

どこにも存在していなかったのだから。

そのことを

> 無条件に全面的に受け入れると、
> エゴが源泉のなかに消えます。

ただし、

【無条件に全面的に受け入れると】(-_-;)


では、

「気づき」の対象物が

「気づき」そのものから生じるというようなことが

いったいどんなふうにして可能なのか?

ということに関して、

ラメッシ・バルセカールは

古代インドの賢者アシュターヴァクラの聖典

『アシュターヴァクラ・ギーター』の表現を

引用して次のように叙述しています。

──────────────────
 
  鏡の表面が、
  鏡に映し出されるイメージの
  内側と外側に存在するように
  至高の真我は、
  肉体の内側と外側に存在する。
    (『アシュターヴァクラ・ギーター』19)
 
 アシュターヴァクラ* はこの重要な一節で、
 非現象である私たちは、
 物でもなければ、
 また人称代名詞が暗示せざるをえない対象でもなく、
 むしろ映画を映し出すスクリーンのような
 過程というか背景であると指摘しています。
 
 * 訳注 アシュターヴァクラ Ashtavakra 
     古代インドの賢者。アシュターヴァクラとは、
     サンスクリット語で「八つの障害」という意味で、
     彼がそう呼ばれたのは、その体に八つの障害が
     あったからだと言われている。
 
 背景がなければ、
 現象もまったく起こるはずがありません。
 とはいえ、
 現象の顕現においては「背景」
 ──意識──そのものが現象の原因となり、
 それを作り上げているのです。
 ここでのポイントは、
 非個人性へ完全に「引っ込む」のでないかぎり、
 「私とは誰か、または何か」を考えることは、
 自分が現象から非現象へ単に移動する、
 といった程度の意味しかないだろうということです。
 それでは
 想像上の束縛を導いている
 自己という観念による条件づけを打ち破る力は、
 もてないでしょう。
 回心として知られているこの驚くべき変換を
 さらに引き起こしやすくするのは、
 ただ非個人性へとまっすぐ引っ込むことだけです。
 そのことによって、
 見かけの個人は決して存在したことがなく、
 本質的に幻想でしかないという確信が、
 突如として即座に生まれるのです。
 
 おそらくこういうわけで、
 アシュターヴァクラは
 意識に対する鏡の比喩をもち出したのでしょう。
 意識は鏡同様にすべてを映し出しますが、
 何も保持せず、
 それ自身の中には認識できるどんな存在もないからです。
 つまり、
 意識は
 私たちが現象的対象物として現れるものの背景ですが、
 しかし、
 それ自身は何の対象でもありません。
 ちょうど鏡の映像が、
 どんな存在ももたない単なる見かけでしかなく、
 鏡は存在していても
 映像には決して影響されないように、
 精神肉体装置(肉体精神機構)は
 意識の中の見かけにすぎず、
 それ自身独立した存在をもたないのです。
 精神肉体装置がそこから現れる意識は、
 その中の対象物の見かけには決して影響されません。
 
 アシュターヴァクラはこの一節で、
 顕現した現象のイメージや見かけに関連づけて、
 非顕現である絶対存在の
 超越的側面を明らかにしています。(DO33-34)
 
 
       *  *  *
 
 
 『誰がかまうもんか?!』(p61-62)
 http://tinyurl.com/22v2o8j
──────────────────

> アシュターヴァクラ* はこの重要な一節で、
> 非現象である私たちは、
> 物でもなければ、
> また人称代名詞が暗示せざるをえない対象でもなく、
> むしろ映画を映し出すスクリーンのような
> 過程というか背景であると指摘しています。

「非現象である私たち」という言葉で、

いわば「真我」としてのわれわれを

指しているのでしょう。

つまり純粋な「気づき」としてのわれわれは、

【映画を映し出すスクリーンのような
 過程というか背景である】

というのです。

> 背景がなければ、
> 現象もまったく起こるはずがありません。

たしかに、

現象が起こるためには

そのための背景が必要でしょう。

「何か(つまり現象)」が起こりうるためには、

その「現れる『何か』ではないもの」が必要です。

その不動の背景に対して

その背景とは異なった何かが「変化」として現れるわけです。

そしてその不動の「背景」が、

そこに現れる「変化」に「気づいて」もいる。

しかも、

> 現象の顕現においては「背景」
> ──意識──そのものが現象の原因となり、
> それを作り上げているのです。

現れる「変化」に気づいている「背景」が、

実際は、その現象の原因となって

その「変化」自体を呼び起こしている。

> 意識は
> 私たちが現象的対象物として現れるものの背景ですが、
> しかし、
> それ自身は何の対象でもありません。

しかもその「背景」自体は何の対象でもない。

なぜなら、

その気づいている「背景」以外には

何も存在していないからです。

> ちょうど鏡の映像が、
> どんな存在ももたない単なる見かけでしかなく、
> 鏡は存在していても
> 映像には決して影響されないように、
> 精神肉体装置(肉体精神機構)は
> 意識の中の見かけにすぎず、
> それ自身独立した存在をもたないのです。

それはまるで、

現れる「現象」が

鏡のなかにだけ生じているようなものです。

普通の鏡の場合なら、

鏡のなかに“鏡像”が現れる場合は、

鏡の外にその“鏡像”として反映される

元の「対象物」が実体として存在しているはずです。

普通の鏡の場合なら、

鏡のなかに“鏡像”は、

鏡の外に実体として存在するその「対象物」の

反映なのですから。

しかし、

唯一「意識」しか存在しないこの現実においては、

「気づき」である「背景」以外に、

いかなる「気づき」の“対象物”も存在しません。

つまり、

「現象」(つまり“全対象物”)は、

「気づき」である「背景」のなかにしか存在しないのです。

「現象」(つまり“全対象物”)は、

「背景」という「鏡」のなかの“鏡像”としてしか

存在していない。

> 精神肉体装置がそこから現れる意識は、
> その中の対象物の見かけには決して影響されません。

“鏡像”を見ることをやめて、

ただ「背景」という「鏡」であることに満足すれば、

どんな“鏡像”に染まることもなく、

どんな夢も見る必要はない。

>  鏡の表面が、
>  鏡に映し出されるイメージの
>  内側と外側に存在するように
>  至高の真我は、
>  肉体の内側と外側に存在する。
>    (『アシュターヴァクラ・ギーター』19)

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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手にとっていただけました?(^^;)

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【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

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■ 2.編集後記:
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「意識」の【見かけ】に興味があるかぎり、

虎はいつまでも口を開けたまま

パクっと頭を食べはしないのでしょう。

「神の意志だけが行きわたっている」。

想像が生み出す幻想のなかで

右往左往している方が楽しいのだろうか?

今日も遅くなりました。

おやすみなさい。

(-||-)


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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