━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
☆☆ ☆☆
☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2024/11/03(第1072号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
すべての二元性は幻想であり、すべての行為は瞬間的で、
すべての意志は幻想です。意志が幻想であるとわかれば、
すべての行為は自動的に自発的になります。
(『Who Cares?』R.S.Balsekar)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.活動する義務を果たす(『真我』)
2.編集後記
──────────────────
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1.活動する義務を果たす(『真我』)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
一週間が巡ってくるのが早いですね。
そしてある意味、
この土曜日のこの時間はとても楽しみです。
なぜなら、
この瞬間だけは大っぴらに、
何も望まなくてもいいからです。(^_-)
なにしろ、「私」は
「在る」ことは間違いないとしても、
その「私」は
いかなる定義も拒絶しているので、
けっして“誰”でもないからです。
“誰”でもない「私」が
いったい何を望むことができるでしょうか?
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
一週間に一度のこの時間は、
何も望まなくてもいい在り方を
ただただ追求するだけでいい時間です。
それはやはりひとつの解放ではあります。
何もしなくてもいい……。
習慣化した何の理由もない焦燥感のゆえに
ややもすると何かを求めて走り出そうとするマインドを、
このときだけは、
「別に何もしなくていいんだ。
浮上するマインドの焦燥感以外に、
今はこれと言ってとくに
対処しなければならない
どんな問題があるわけでもないのだから」
とおおっぴらに言っていいタイミングなのです。
そして好きなだけ
人生はただ夢見られているドタバタ騒ぎでしかない
といったたぐいの理屈を
追求していても許される時間なのです。
一週間に一度、
“自分”の今の理解を整理する探究の時間なのです。
たとえ、それが
メンタルな領域での探求にすぎないとしても。
他の曜日はすべて
肉体としての生存の道を模索せずには、
何らかのしかるべき活動をせずには、
いられないのだから。
身体は誕生のときに烙印された運命にしたがって
為すべき活動をせずにはいられません。
福間巌さんが編纂された『真我』に、
「活動する義務を果たす」ことについて語った
ラマナ・マハルシの言葉があります。
──────────────────
活動する義務を果たす
もしあなたが他の物事を追求せずに
静かにしていられるなら、
それはとても良いことです。
もしそれができないなら、
実現に関するかぎり、
ただ静かにしていることが
何の役に立つと言うのでしょう?
活動する義務があるかぎりは、
その義務を果たしながらも、
真我実現への試みをあきらめてはならないのです。
『真我』(p70)
──────────────────
> もしあなたが他の物事を追求せずに
> 静かにしていられるなら、
> それはとても良いことです。
そうですよねぇ。
それはしかし、
ラメッシ・バルセカールふうの表現を借りるなら、
それなりの修練の実践を通して得られる経験値を
すでに自らのプログラミングとしてもっている
肉体精神機構の誕生でしか起こりえないことです。
少なくともpariにはそれは起こらなかった。
ならば、
> もしそれができないなら、
> 実現に関するかぎり、
> ただ静かにしていることが
> 何の役に立つと言うのでしょう?
> 活動する義務があるかぎりは、
> その義務を果たしながらも、
> 真我実現への試みをあきらめてはならないのです。
このpariのような肉体精神機構の場合は
活動する義務があるので、
その義務は果たす必要があります。
そして「その義務を果たしながら」
なおかつ、身体があるかぎりは
真我実現への試みをあきらめきれずに、
あくせくするしかないわけです。
「真我実現など誰が知る?」
という気持ちが自然に起こるそのときまでは。
『真我』のなかでは、
この「活動する義務を果たす」という短い一節のあとに
「自我なしに修練はできない」という一節がつづきます。
──────────────────
自我なしに修練はできない
真我探求を除いたあらゆる修練が、
それを続けていくために
自我を維持することを前提とし、
自我なしに修練することができません。
自我はその人の修練の状態に応じて
さまざまに異なった微妙な形をとりますが、
修練をしても
自我はけっして破壊されないまま残るのです。
心は存在するかどうかと探求すれば、
心は存在しないということがわかるでしょう。
それが心を制御する方法です。
しかし、
心は存在すると見なした上で、
それを制御しようとすれば、
心が心を制御することになってしまいます。
自我あるいは心を
真我探求以外の修練で破壊しようと試みることは
警官になりすました泥棒が、
泥棒すなわち自分自身を捕まえようと
装っているようなものです。
心はそのような方法にばかり固執することで、
巧みに逃れます。
真我探求だけが、
自我も心も実は存在しないという真実を暴き、
純粋で分割不可能な真我を
実現することができるのです。
真我を実現すれば、
知られるべきことは何も残りません。
なぜなら、
それは完全な至福あり、
それがすべてだからです。
他のどんな修練方法が選ばれたとしても、
そこには常にそれを「する人」がいるはずです。
それは避けられません。
その「する人」とは誰なのか?
それが見出されなければならないのです。。
それは見つかるまで、
修練を終えることはできません。
それゆえ、
最終的にはすべての人が、
「私は誰か」を見出さなければならないのです。
実在とは自我が消え去った境地です。
自我のアイデンティティを探し出すことで、
それを破壊しなさい。
自我には実体がないため、
探求すればそれは自動的に消え去ります。
そうすれば、
真理はひとりでに輝き出すでしょう。
真我探求は直接的方法です。
一方、
他のすべての修練方法は
自我を維持しなければできません。
それらの道を選べば多くの疑いが起こり、
究極の問いは
最終的に直面されるまで残るでしょう。
しかし、
真我探求では最後の問いだけが唯一の問いです。
そして、
最初からこの問いなのです。
それゆえ、
この探求にはいかなる修練も必要ありません。。
瞑想は自我が保たれた状態でのみ可能です。
そこには自我があり、
瞑想される対象があります。
そのため、
その方法は直接的とは言えません。
瞑想する主体である自我と
瞑想の対象が存在するかぎり、
それは二元性の中にあるからです。
しかし、
真我は「一なるもの」です。
自我を探り出すこと、
つまりその源を探求することで自我は消滅し、
あとにはただ真我だけが残ります。
これが直接的方法です。
『真我』(p70-72)
──────────────────
> 真我探求を除いたあらゆる修練が、
> それを続けていくために
> 自我を維持することを前提とし、
> 自我なしに修練することができません。
「真我探求」以外のどんな修練にも
その修練をするエゴが必要です。
> 自我はその人の修練の状態に応じて
> さまざまに異なった微妙な形をとりますが、
> 修練をしても
> 自我はけっして破壊されないまま残るのです。
ニューエイジを含めた
ほぼあらゆるスピリチュアル情報が
どこまでも微妙なエゴの洗練に終止するのは
あなたもご存知のとおりです。
> 心は存在するかどうかと探求すれば、
> 心は存在しないということがわかるでしょう。
> それが心を制御する方法です。
一瞬一瞬わいてくる想念以外に
いかなる「心」という実体も存在しないことを
実際に納得できるまで自分で確認するしかない。
結局はここに戻ってくることになる、
とラマナ・マハルシは言うわけです。
> しかし、
> 心は存在すると見なした上で、
> それを制御しようとすれば、
> 心が心を制御することになってしまいます。
そうでないかぎり、
一瞬一瞬の思いを“自分”と見なしたうえで
その「思い」を制御しようとすれば、
どこまでも想念上のアクロバット、
ただの「考えごと」の延長でしかなくなる。
> 自我あるいは心を
> 真我探求以外の修練で破壊しようと試みることは
> 警官になりすました泥棒が、
> 泥棒すなわち自分自身を捕まえようと
> 装っているようなものです。
はい。
自分の尻尾を追う犬にも喩えられます。
> 心はそのような方法にばかり固執することで、
> 巧みに逃れます。
マインド機構は
その部分でしかない一瞬の想念に
コントロールされるほどやわな存在ではない。
“エゴの洗練”にはかぎりがないわけです。
> 真我探求だけが、
> 自我も心も実は存在しないという真実を暴き、
> 純粋で分割不可能な真我を
> 実現することができるのです。
あらゆる想念の源である「私」とは何なのか?
ひたすらそれだけを追求する「真我探求」だけが、
“自分”が実体としては存在していないこと、
あらゆる二元性が幻想にすぎない
という真実を暴露することができる。
そして純粋で分割不可能な真我を
実現することができる。
> 真我を実現すれば、
> 知られるべきことは何も残りません。
> なぜなら、
> それは完全な至福あり、
> それがすべてだからです。
あらゆる二元性が幻想にすぎないことがわかれば、
その他に知るべきことなどありません。
なぜなら、
二元性が崩壊したところには完全な至福があり
われわれのすべての焦燥は
まさにその至福を求める右往左往だったのですから。
> 他のどんな修練方法が選ばれたとしても、
> そこには常にそれを「する人」がいるはずです。
> それは避けられません。
はい。
> その「する人」とは誰なのか?
> それが見出されなければならないのです。
まさに。
> それは見つかるまで、
> 修練を終えることはできません。
> それゆえ、
> 最終的にはすべての人が、
> 「私は誰か」を見出さなければならないのです。
最終的には誰もが
「私とは何か?」を見出さなければならない。
> 実在とは自我が消え去った境地です。
「実在」とは
そこに何かを求めるような
「誰か」がいないところ。
> 自我のアイデンティティを探し出すことで、
> それを破壊しなさい。
想念が駆け出そうとしたら、
“誰が”それをしようとしているのかを
見つけようと試みなさい。
「私とは誰か?」を探求して
その「私」を破壊しなさい。
> 自我には実体がないため、
> 探求すればそれは自動的に消え去ります。
“誰”が“何”を求めているのかを確認すれば、
そこには身体に一体化した
「私」という観念があるにすぎない。
「私」というどんな実体も存在しないことがわかる。
> そうすれば、
> 真理はひとりでに輝き出すでしょう。
> 真我探求は直接的方法です。
【眠りから目覚めた瞬間、
対象世界を目にする直前、
そこにはあなたの純粋な真我である
「気づき」の状態があります。
それが知られなければならないのです。】
(-||-)
> 一方、
> 他のすべての修練方法は
> 自我を維持しなければできません。
> それらの道を選べば多くの疑いが起こり、
> 究極の問いは
> 最終的に直面されるまで残るでしょう。
> しかし、
> 真我探求では最後の問いだけが唯一の問いです。
> そして、
> 最初からこの問いなのです。
> それゆえ、
> この探求にはいかなる修練も必要ありません。。
「真我探求」には
“探究する当人”の存在は必要ない。
ただ、
誰が「私」を名乗っているのかを確認する
非個人的な観照があるだけです。
> 瞑想は自我が保たれた状態でのみ可能です。
> そこには自我があり、
> 瞑想される対象があります。
> そのため、
> その方法は直接的とは言えません。
> 瞑想する主体である自我と
> 瞑想の対象が存在するかぎり、
> それは二元性の中にあるからです。
「自己」の存在を前提して行われる瞑想では
瞑想する主体である自我と
瞑想の対象が存在しており、
それは二元性の中にあります。
瞑想が微妙なエゴの洗練に終止するのは
そのためです。
> しかし、
> 真我は「一なるもの」です。
しかし実在である「真我」は「一なるもの」。
> 自我を探り出すこと、
> つまりその源を探求することで自我は消滅し、
> あとにはただ真我だけが残ります。
> これが直接的方法です。
「真我探求」とは、
その二つ目のない「一なるもの」のなかで
誰が「私」を名乗っているのかを確認する
非個人的な観照があるだけです。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
起こることになっていることが起こる。
土曜日のこの時間だけは
まったく何のやましさも感じずに
そう思うことができます。
そしてそう思うことができると、
実際に気が楽になります。
「神の意志だけが行きわたっている」のです。
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2024 paritosho
──────────────────
|