home > 通信 >幸福は決してなくならない(R.S1):『アセンション館通信』第1076号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2024/12/01(第1076号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。

 あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
 それを得たり、培ったりする必要はありません。
 あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
 注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。

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◇◇ もくじ ◇◇

1.幸福は決してなくならない(R.S1)

2.編集後記
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■1.幸福は決してなくならない(R.S1)
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pariが見ている夢の中では

目まぐるしくも、けたたましく、

さまざまなことが起こっているように見えます。

何を信じたらいいのやら?

わかりません。

あなたのところではどうですか?

やっぱり……。

時間の秩序が崩壊しはじめているのでしょうか?

地中世界の物理次元の現実が

ある意味、曲がり角に差し掛かっている。

言葉を換えるなら、

“切り替わる”直前なのかもしれませんね。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?

こういう時期に、

まったく違和感を感じることなく、

普段どおりの生活を続けることができるなら、

それはそれですばらしいことでしょう。

けれどもまた、

すべてが疑わしく感じられ、

何を信じていいのかわからなくなったとしても、

それもまた特に悪いことでもないのでしょう。

いまはたしかに、

地球人類にとっては揺るがされるための

特殊な時期とも言えるのでしょうから。

こういう時期は、

起こっていることを特定の観念で意味づけして

その観念をあまり強く握ってしまわないほうが

いいのかもしれませんね。

どんな判断もあまりしっかり握らないほうが

この時期をやりすごしやすいかもしれません。

すべてはただの「あらわれ」ですものね。

自分は「あらわれ」を映し出し、

「あらわれ」に気づいていても、

「あらわれ」そのものではないわけですから。

自分は「あらわれ」そのものだと

言い張るのは思考です。

そうやって思考は不幸を実現し、

幸福を求める旅をつづけるのでしょう。

けれどもじつは思考が捏造したその旅は

それ自体がひとつの「あらわれ」にすぎません。

「気づき」という不動の背景ゆえに

つかのまの【見かけ】として現れているだけで

それ自体は存在していないことを

知らないわけですよね。

「幸福を求める旅」も、

その旅を捏造する「思考」自体も、

「気づき」という不動の背景の中にあらわれた

一瞬の「あらわれ」にすぎません。

それにどんな実体もありません。

ルパート・スパイラの邦訳本

『プレゼンス─第1巻 安らぎと幸福の技術(覚醒ブックス) 』

の中程に、

「幸福は決してなくならない」

というすばらしい章があります。

今回はこの章の最初の部分をご紹介したいと思います。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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  【幸福は決してなくならない】


 質問:よく自分が不幸だとは感じますが、
    常に何かを探しているとは思いません。

 平安と幸福のない状態は
 苦痛や不幸の体験として知られ、
 そこから回復するための模索を伴います。
 苦しみながらも、
 平安や幸福を求めない、
 ということはないはずです。

 気づいている現存である私たちには、
 何の抵抗も何の欠乏もありません。
 気づきは、
 不足や抵抗を知りません。

 体験において
 これが真実であることを確かめるのは簡単です。
 何であれそれを体験するためには、
 まずそれが気づきにあらわれる必要があり、
 気づきにあらわれるためには、
 気づきがそれを肯定する必要があります。

 気づきは、
 体が座っている部屋の
 空っぽの空間になぞらえることができます。
 部屋の空間はそもそも開かれていて、
 空(くう)で、広々としています。
 そこにあらわれる何物にも
 抵抗することができません。
 部屋に何があらわれようと、
 それはすでに空間に「受け入れられて」います。
 何が起きようと、
 それに対して開かれ、
 それを「許す」ことは、
 空間が気ままに帯びる性質ではなく、
 空間に本来備わる性質です。

 私たちの自己、
 つまり気づいている現存は、
 この空間に似ています。
 それは、
 目に見えるすべてのものに対して開かれ、
 空で、
 すべてのあらわれを許し、
 完全に肯定していますが、
 それは私たちの自己そのものであって、
 自己が行う何かではありません。

 気づきは肯定しか知りません。
 思考が立ち上がらないかぎり、
 現状のあらわれを否定し、
 抵抗するものはありません。
 思考がなければ模索はなく、
 現状への抵抗もなく、
 現状を他の何かに置き換えようとする
 衝動もありません。

 思考が立ち上がらなければ、
 体験はあまりに親密で、
 それが「何か」、
 つまり、
 体、心、世界、「状況」などとして
 知られることもありません。

 そこには体験することの、
 言葉にできない、
 純粋でつなぎ目のない親密さだけがあります。
 この親密さには欠乏感が漂う場所はなく、
 そのためにそれは幸福として知られ、
 抵抗する余地もなく、
 そのためそれは平安として知られ、
 分離し自他を分かつことはなく、
 そのためそれは愛として知られます。

 こうしたことから、
 平安、幸福、愛は、
 私たちの自己、
 気づきの本来の性質であると言えるのです。
 実際、
 それは性質ですらありません。
 平安、幸福、愛は、
 気づきそのもの、
 つまり、
 私たちの自己に与えられた、
 もうひとつの名前なのです。

       ∞  

 『プレゼンス─第1巻』(p129-131)
──────────────────

> 質問:よく自分が不幸だとは感じますが、
>    常に何かを探しているとは思いません。

この質問者の感覚は理解できますよね。

「自分が不幸だと感じること」が、

即「自分が幸福を願っていること」とは、

結びついていないということだと思います。

ルパート・スパイラは、

そのあたりから丁寧に解きほぐしてゆきます。

> 平安と幸福のない状態は
> 苦痛や不幸の体験として知られ、
> そこから回復するための模索を伴います。

「不幸」の感覚というのは、

実際は、

「不幸」からの回復の模索を伴っているのだと。

> 苦しみながらも、
> 平安や幸福を求めない、
> ということはないはずです。

たとえ本人が自覚していなくとも、

苦しみは平安や幸福の追求を内包しているわけです。

> 気づいている現存である私たちには、
> 何の抵抗も何の欠乏もありません。
> 気づきは、
> 不足や抵抗を知りません。

現実に「気づいている」われわれの本質は、

実際は、

「あらわれ」に「気づいている」だけであって、

「あらわれ」に何も求めてはいない。

そもそも「あらわれ」に何かを求めたら、

「あらわれ」に「気づく」ことはできないから。

われわれの本質である

現実に「気づいている」【現存】には

何の欠乏もないので、何に抵抗してもいない。

われわれの本質である【現存】は

不足も抵抗も知らない。

> 体験において
> これが真実であることを確かめるのは簡単です。

それを体験的に確かめる(理解する)のは簡単。

> 何であれそれを体験するためには、
> まずそれが気づきにあらわれる必要があり、
> 気づきにあらわれるためには、
> 気づきがそれを肯定する必要があります。

何かを体験するには

まずその何かに気づく必要があり、

「気づき」が何かに気づくためには、

「気づき」がそれを肯定する必要があるから。

> 気づきは、
> 体が座っている部屋の
> 空っぽの空間になぞらえることができます。

「気づき」は

空っぽの空間になぞらえることができる。

> 部屋の空間はそもそも開かれていて、
> 空(くう)で、広々としています。
> そこにあらわれる何物にも
> 抵抗することができません。
> 部屋に何があらわれようと、
> それはすでに空間に「受け入れられて」います。
> 何が起きようと、
> それに対して開かれ、
> それを「許す」ことは、
> 空間が気ままに帯びる性質ではなく、
> 空間に本来備わる性質です。

部屋の空間はそこに何があらわれようと、

「お前は入ってくるな」と言って

それに抵抗することはできない。

そこに何が現れようと

それは部屋の空間に「受け入れられて」いる。

そこに現れるどんな「もの」、

どんな「こと」に対しても

部屋の空間は開かれており、

それらすべてをあらかじめ「許して」いる。

そこにあらわれるどんな「もの」、

どんな「こと」も「許す」ということは、

部屋の空間がそのときの気分で選択することではなく、

部屋の空間の本質そのものだから。

> 私たちの自己、
> つまり気づいている現存は、
> この空間に似ています。
> それは、
> 目に見えるすべてのものに対して開かれ、
> 空で、
> すべてのあらわれを許し、
> 完全に肯定していますが、
> それは私たちの自己そのものであって、
> 自己が行う何かではありません。

気づいている現存というわれわれの自己は

空っぽで、開かれていて、

どんな「あらわれ」に対しても抵抗しないという意味で

この空間と似ている。

すべてのあらわれを許し、

完全に肯定しているというのは、

われわれの自己そのものであって、

現存というわれわれの自己が

時々の気分で行う選択ではないから。

> 気づきは肯定しか知りません。

「気づき」はすべての現れをあらかじめ肯定し、

あらかじめ受け入れている。

> 思考が立ち上がらないかぎり、
> 現状のあらわれを否定し、
> 抵抗するものはありません。

そこに思考が立ち上がって、

現在現れているものを否定し、

それに抵抗しないかぎり、

われわれの自己そのものである「気づき」は

それを否定することもなければ、

それに抵抗することもない。

> 思考がなければ模索はなく、
> 現状への抵抗もなく、
> 現状を他の何かに置き換えようとする
> 衝動もありません。

思考が立ち上がって

現状の「あらわれ」を否定したり

現状の「あらわれ」に抵抗したりしないかぎり、

われわれの自己である「気づき」が、

現状の「あらわれ」を否定したり、

現状の「あらわれ」に抵抗したり、

現状を他の何かに置き換えようと

したりすることはない。

> 思考が立ち上がらなければ、
> 体験はあまりに親密で、
> それが「何か」、
> つまり、
> 体、心、世界、「状況」などとして
> 知られることもありません。

現状の「あらわれ」に対する

そのような否定や、抵抗や、

そこからの回復の模索は、

もっぱら立ち上がった「思考」ゆえに起こったこと。

「思考」がなければ、

体験自体はあまりに親密な

境目のない何かであって、

身体も、心も、世界も知られてはいない。

> そこには体験することの、
> 言葉にできない、
> 純粋でつなぎ目のない親密さだけがあります。

体験自体の中には

いかなる境界線も分離も存在せず、

そこには観念化されることのない

純粋でつなぎ目のない親密さだけがある。

> この親密さには欠乏感が漂う場所はなく、
> そのためにそれは幸福として知られ、
> 抵抗する余地もなく、
> そのためそれは平安として知られ、
> 分離し自他を分かつことはなく、
> そのためそれは愛として知られます。

その純粋でつなぎ目のない親密さは

どんな欠乏感もない幸福感であり、

どんな抵抗も感じられない安らぎであり、

どんな自他の分離もない愛として感じられる。

> こうしたことから、
> 平安、幸福、愛は、
> 私たちの自己、
> 気づきの本来の性質であると言えるのです。

つまり、

安らぎ、幸福、愛とは

われわれの本質である「気づき」に

本来備わっている性質だと言える。

> 実際、
> それは性質ですらありません。
> 平安、幸福、愛は、
> 気づきそのもの、
> つまり、
> 私たちの自己に与えられた、
> もうひとつの名前なのです。

安らぎ、幸福、愛は

「気づき」の性質というよりは、

「気づき」そのもの、

われわれの「自己」のもうひとつの名前と言える。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

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【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

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■ 2.編集後記:
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「気づき」はすべてに対して開いており、

すべての「あらわれ」を受け入れている。

否定のしようはありません。

存在するのは唯一「気づき」だけ。

「神の意志だけが行きわたっている」のです。

要するに、在るのは愛だけ。

しかもそうでありながら、

地上の見かけの現実は

一種の曲がり角に差しかかっているようです。

物理次元の3Dホログラム投影機である

この身体の生存を護るためには、

三週間ほどをやり過ごすための食糧とエネルギーの

準備が必要なのかもしれません。

そして自分が「何もの」でもないことを知りながら、

安心して起こる出来事をやりすごしてゆく

そんな珍しいタイミングなのかもしれませんね。

今日も遅くなりました。

おやすみなさい。

(-||-)


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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