━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2025/1/12(第1082号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.自己だけが在る(R.S1)
2.編集後記
──────────────────
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■1.自己だけが在る(R.S1)
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土曜日が来るとまた少し元気になる。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>をいかがお過ごしでしょうか?
ルバート・スパイラの『プレゼンス─第1巻』に
【自己だけが在る】
という一節があります。
もともとこの本に詳述されているような内容は
ここに書かれていることを何が何でも理解したい、
“自分”の心底からの理解として腑に落としたいと
望んでいる読者にしか意味のない内容です。
縁のない方がこの本を手に取ることはないでしょうし、
たまたま何かの偶然で手にしたところで、
無縁の方がこの本の内容に衝撃を受けることも
読み続けることもありえないはずです。
ですから
たとえ表面的な論理としてであれ
この本に書かれていることが理解されたのなら、
その読者は、
実際に存在するのは絶対的主体としての唯一無二の
永遠の「気づき」だけであることは
了解してしまったはずなのです。
なぜなら、
絶対的主体としての「気づき」なしには、
何ひとつ存在できないことは
もう紛れもないわけですから。
つまり“気づかれることなく”、
「気づき」の外に、
客観的に存在するものなど
百パーセントありえないことが
わかってしまったわけです。
われわれが経験するものはすべて
「気づき」が気づいているからこそ存在している。
すべての経験は「気づき」の対象物なのです。
では、その「気づき」とは何なのか?
それは“自分が存在することを
自ら知っている者”です。
つまり、「私」であり「あなた」です。
と言っても、
「私」とか「あなた」という
個別の「気づき」が存在するわけではない。
身体の内側にいる内部の“自分”というのは
思考が捏造した偽りの観念にすぎません。
身体は「気づき」の対象物であり、
(「気づき」の)“対象物”(客体)が
「気づき」の主体であることなど
ありうるはずがない。
ということは、
個性とか多様性を前提とした「世界」は、
虚構の概念の中にしか存在しない偽りであることは
自明になったわけです。
実際に存在する「気づき」は
唯一無二の絶対的主体のみです。
つまり、
全現象に気づいているのは
唯一無二の永遠の絶対的主体である
「気づき」しか存在していないわけです。
かくて、そのあたりの消息を伝えるために
「気づき」は一人しかいない、
とは言わずに、古来
【二人目は存在しない「気づき」】という
不思議な表現で語られてきたわけです。
ふう。
つまり、「これ」に気づいている者は
二人はいないのです。
「私」の体験に気づいている存在も
「あなた」の体験に気づいている存在も
永遠の絶対的主体である
同じ唯一無二の「気づき」なのです。
ふう。(-_-)
しかし、
pariがこのような文章を書けるからと言って、
それはpariが体験のあらゆる幻想性を
卒業しているということを意味しません。
つまり、
『プレゼンス─第1巻』を著した
ルバート・スパイラに起こっている理解は
そのテキストを週一で写経している
pariの現実としては起こっていない……
という可能性があります。
なぜなら、
“pariの身体”を通じて起こる体験のなかで
pariの(「気づき」の焦点である)注意は
ほとんどつねに現象に向けられており、
つねに対象物だけが気づかれているために、
本来の「気づき」のエネルギーが
思考が想像する諸対象が織りなす物語のなかで
浪費され尽くしているからです。
だから、
(pariという現象のなかで起こっている)
論理の表面的な理解では
【自己だけが在る】ことを知りながら、
その内実である「愛」と「やすらぎ」が
起こっていないわけです。
というわけで今回は
【自己だけが在る】というこの一節にしがみついて、
ご紹介したいと思います。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
【自己だけが在る】
私たちの存在(ビーイング)は、
開かれた、空(くう)の、
透明な現存(プレゼンス)です。
注意はいつも何かに向けられています。
けれど、
私たちの自己には客観的なものが何もないため、
注意を向けることはできません。
注意はいつも、
思考、感情、感覚、知覚といった
対象物に向けられています。
すべての方向性が取り除かれると、
注意は、私たちの自己である、
気づいている現存としての姿を現します。
ここで私たちの自己に
注意を向けようとするかもしれませんが、
そこに見つかるのは、
いかに微細であろうとも、
また別の対象物にすぎません。
私たちの注意、
そのアイデンティティを、
思考、感情、感覚、知覚といった
対象物に与えるのをやめにしましょう。
それらを消し去る必要はありません。
そこに注意を向け、
アイデンティティを付与するのを
やめるだけでいいのです。
するとやがて、
私たちの本質は、
思考、感情、感覚、知覚ではない
ということがはっきりします。
いわばこうして、
私たちの自己に帰還するのです。
『プレゼンス─第1巻』(p68-69)
──────────────────
> 私たちの存在(ビーイング)は、
> 開かれた、空(くう)の、
> 透明な現存(プレゼンス)です。
われわれは普段
自分の実体である「気づき」を
意識的に体験してはいません。
> 注意はいつも何かに向けられています。
それはわれわれの意識的な注意が
いつも「何か」に向けられているからです。
> けれど、
> 私たちの自己には客観的なものが何もないため、
> 注意を向けることはできません。
しかしわれわれの実体としての自己には
客観的なものが何もないため、
われわれは自分の実体に
注意を向けることはできません。
> 注意はいつも、
> 思考、感情、感覚、知覚といった
> 対象物に向けられています。
そのため
われわれの注意はいつも、
思考、感情、感覚、知覚といった
対象物に向けられることになります。
> すべての方向性が取り除かれると、
> 注意は、私たちの自己である、
> 気づいている現存としての姿を現します。
つまり、
注意からすべての方向性が取り除かれないかぎり
私たちの自己である気づいている現存は
その姿を現さないということです。
> ここで私たちの自己に
> 注意を向けようとするかもしれませんが、
> そこに見つかるのは、
> いかに微細であろうとも、
> また別の対象物にすぎません。
そこでわれわれは
なんとか自分の注意を
自分の実体としての自己に向けようと
試みるかもしれません。
しかしそのような意図的に努めてみても
そこで見つかるのは
いかに微細であろうともまた別の対象物にすぎません。
> 私たちの注意、
> そのアイデンティティを、
> 思考、感情、感覚、知覚といった
> 対象物に与えるのをやめにしましょう。
いっそ、
自分の注意を
思考、感情、感覚、知覚といった
対象物に向けること自体をやめて
そういう対象物に
自分のアイデンティティを付与することを
やめにしましょう。
> それらを消し去る必要はありません。
> そこに注意を向け、
> アイデンティティを付与するのを
> やめるだけでいいのです。
思考、感情、感覚、知覚といった
対象物そのものを消し去る必要はありません。
それらに注意を向け、
その対象物にアイデンティティを付与すること、
つまりそれらの思考、感情、感覚、知覚を
自分だと思うことをやめるだけでいいのです。
> するとやがて、
> 私たちの本質は、
> 思考、感情、感覚、知覚ではない
> ということがはっきりします。
そうしていると、
やがてわれわれの本質は
そのような思考、感情、感覚、知覚などの
対象物ではないことがはっきりします。
> いわばこうして、
> 私たちの自己に帰還するのです。
そうすることで
われわれは自分の自己に帰還できます。
──────────────────
すると、思考、感情、感覚、知覚が私たちを、
私たちがすでにそうであるもの以外に
変えることはできないのだとわかります。
そして、
現状に対する実用的な反応として
求められないかぎり、
目に見える課題は消失します。
思考、感情、感覚、知覚との関わりが
穏やかになるなかで、
私たちはいつのまにかそれらの影響力を
軽減させることになります。
私たちの存在は、
思考が存在と反目させてきた、
思考、感情、感覚、知覚のもつれから解かれ、
常にそうである、
ありのままの姿を現します。
しかしながら、
分離した自己と真の自己の
ふたつの自己があるのではありません。
真の自己が存在する唯一の自己であり、
思考、感情、感覚、知覚に
がんじがらめになることで、
別の自己、
限界を抱え、分離し、内側に位置づけられた
自己が存在するかのように見えていただけなのです。
けれど、
限界のある自己など存在しません。
映画の上映が始まったときに
スクリーンが景色にはならないように、
気づきである私たちの真の自己が
分離した自己になることはありません。
体と心(マインド)の対象物に注意を向け、
アイデンティティを付与するのをやめると、
存在からはこれらの付着物が徐々に
削ぎ落とされていきます。
私たちが注意を向けるものが栄えます。
私たちが注意を向けるものが
私たちの現実になるのです。
気づいている現存(プレゼンス)という
私たちの自己に注意を向けると、
注意は方向性や焦点、
緊張から解き放たれ、
現存(プレゼンス)そのものとしての姿を現します。
探されていた何かは、
探しているそのものであったことが
明らかになるのです。
∞
『プレゼンス─第1巻』(p69-70)
──────────────────
> すると、思考、感情、感覚、知覚が私たちを、
> 私たちがすでにそうであるもの以外に
> 変えることはできないのだとわかります。
そのように
思考、感情、感覚、知覚などの対象物を
自分だと思い込むのをやめていると、
やがてそのような対象物は
私たちを
その実体である「気づき」以外のものに
変えることなどできないことがわかります。
> そして、
> 現状に対する実用的な反応として
> 求められないかぎり、
> 目に見える課題は消失します。
このようにして
思考、感情、感覚、知覚などの対象物を
自分だと思い込むのをやめていると、
現状に対する実用的な反応として
必要な場合などを除けば、
目に見える課題は消失します。
> 思考、感情、感覚、知覚との関わりが
> 穏やかになるなかで、
> 私たちはいつのまにかそれらの影響力を
> 軽減させることになります。
そうするなかで
思考、感情、感覚、知覚との関わりが
穏やかになってくると、
気がついたらいつのまにか
それらの影響力は軽減しているものです。
> 私たちの存在は、
> 思考が存在と反目させてきた、
> 思考、感情、感覚、知覚のもつれから解かれ、
> 常にそうである、
> ありのままの姿を現します。
われわれの在り方は
思考、感情、感覚、知覚のもつれから解かれ、
われわれ本来の「気づき」という実体が
ありのままの姿を現します。
> しかしながら、
> 分離した自己と真の自己の
> ふたつの自己があるのではありません。
> 真の自己が存在する唯一の自己であり、
> 思考、感情、感覚、知覚に
> がんじがらめになることで、
> 別の自己、
> 限界を抱え、分離し、内側に位置づけられた
> 自己が存在するかのように見えていただけなのです。
しかし実際は
もともと分離した自己と真の自己という
ふたつの自己があったわけではなく、
「気づき」という真の自己が
もともと存在している唯一の自己です。
思考、感情、感覚、知覚といった
これまで注意を向けてきた知覚の対象物と
一体化してきたことで
限界を抱え、分離し、内側に位置づけられた
別の自己が存在するかのように
見えていただけなのです。
> けれど、
> 限界のある自己など存在しません。
> 映画の上映が始まったときに
> スクリーンが景色にはならないように、
> 気づきである私たちの真の自己が
> 分離した自己になることはありません。
実際は
もともと限界のある自己など存在しません。
映画の上映が始まっても
スクリーンが景色にはならないように、
たとえ対象物を知覚していても
「気づき」であるわれわれの真の自己が
分離した自己になることはありません。
> 体と心(マインド)の対象物に注意を向け、
> アイデンティティを付与するのをやめると、
> 存在からはこれらの付着物が徐々に
> 削ぎ落とされていきます。
身体や思考といった対象物に注意を向け、
それにアイデンティティを付与する習慣をやめると、
それまで存在に付着していたそれらの対象物が
徐々に削ぎ落とされていきます。
> 私たちが注意を向けるものが栄えます。
> 私たちが注意を向けるものが
> 私たちの現実になるのです。
われわれが注意を向け
気づいているものが栄えるのです。
自分が注意を向けるものが
自分の現実になるのです。
> 気づいている現存(プレゼンス)という
> 私たちの自己に注意を向けると、
> 注意は方向性や焦点、
> 緊張から解き放たれ、
> 現存(プレゼンス)そのものとしての姿を現します。
われわれが気づいている現存という
自己に注意を向けると、
それまで対象物の方向性や焦点に
拘束されていた注意は、
その緊張から解き放たれ、
「気づき」そのものとしての姿を現します。
> 探されていた何かは、
> 探しているそのものであったことが
> 明らかになるのです。
それまで探求されてきたものは
探求者の実体そのものであったことが
明らかになるのです。
──────────────────
私たちの自己に帰還することで、
体と心(マインド)は、
「私−分離した内側にある自己」
という考えがもたらしたさまざまな緊張と収縮から
解き放たれます。
この弛緩は自己の体験ではなく、
体と心(マインド)のレベルにおける余韻です。
体と心(マインド)は普段、
「私−分離した内側にある自己」という考えの
表現であり派生である、
緊張と収縮の状態にあります。
しかしながら、
私たちはこの緊張と収縮の状態に
あまりに慣れすぎており、
もはやそれをそのように認識していません。
普通になっているのです。
これは、
身を守るために長い間拳を握っていて
そのことに気づかなくなり、
拳を握っているにもかかわらず
リラックスしていると錯覚するのに似ています。
「私−分離した内側にある自己」
という考えが引き起こす緊張と収縮が
体と心(マインド)に浸透しているにもかかわらず、
私たちはそのことに気づかずにいるのです。
私たちの自己に帰還することにより、
体と心(マインド)には弛緩の波が訪れ、
緊張と収縮は解かれて、
軽やかで広がりのある性質が立ち上がります。
これは強力で、
涙や笑いといった
際立った体の反応を伴う場合もあれば、
穏やかな場合もあります。
いずれにせよ、
軽やかで広がりにあるこの性質は
やがて普通のこととなり、
そのように感じることもなくなります。
緊張と収縮という
慣れ親しんだ状態とは異なるために、
はじめは異常に感じられたのです。
そして、
それはやがて当たり前の状態になります。
解放された自己は、
開かれた、空(くう)の、
透明な現存(プレゼンス)へと還ります。
そして、
自己に本来備わっている幸福と平安が、
体、心(マインド)、世界の
あらゆるあらわれににじみ出てきます。
体と心(マインド)は、
開かれた、空の、
透明な性質を表現し始め、
さらには世界も真の自己の親密さを反映して、
親しみを表現し始めます。
分離した内側にある自己という信念と、
それにまつわる感情にはいつか終わりが来ますが、
この悟りが体、心(マインド)、世界の
現れにおいて持つ影響力には終わりがありません。
それはどこまでも続き、
決して終わらない、
啓示の旅です。
『プレゼンス─第1巻』(p70-72)
──────────────────
> 私たちの自己に帰還することで、
> 体と心(マインド)は、
> 「私−分離した内側にある自己」
> という考えがもたらしたさまざまな緊張と収縮から
> 解き放たれます。
われわれが「気づき」という
本来の自己に帰還すれば、
われわれの身体と心も、
“内部の自己”という思考がもたらした
さまざまな緊張と収縮から解き放たれます
> この弛緩は自己の体験ではなく、
> 体と心(マインド)のレベルにおける余韻です。
> 体と心(マインド)は普段、
> 「私−分離した内側にある自己」という考えの
> 表現であり派生である、
> 緊張と収縮の状態にあります。
われわれの身体と心は
普段“内部の自己”という観念から派生する
緊張と収縮の状態にあります。
そのためこの緊張と収縮からの解放は
自己の体験ではなく、
身体とマインドのレベルにおける余韻と言えます。
> しかしながら、
> 私たちはこの緊張と収縮の状態に
> あまりに慣れすぎており、
> もはやそれをそのように認識していません。
> 普通になっているのです。
普段われわれは
あまりにこの緊張と収縮の状態に
慣れすぎているために、
それを特に緊張や収縮とは
認識していないのです。
> 私たちの自己に帰還することにより、
> 体と心(マインド)には弛緩の波が訪れ、
> 緊張と収縮は解かれて、
> 軽やかで広がりのある性質が立ち上がります。
> これは強力で、
> 涙や笑いといった
> 際立った体の反応を伴う場合もあれば、
> 穏やかな場合もあります。
われわれが「気づき」という
本来の自分の実体に帰還すると
身体とマインドに弛緩の波が訪れます。
緊張と収縮は解かれて、
さまざまなタイプの反応を伴いながら
軽やかで広がりのある性質が立ち上がります。
> いずれにせよ、
> 軽やかで広がりにあるこの性質は
> やがて普通のこととなり、
> そのように感じることもなくなります。
> 緊張と収縮という
> 慣れ親しんだ状態とは異なるために、
> はじめは異常に感じられたのです。
> そして、
> それはやがて当たり前の状態になります。
軽やかで開いたこの状態は
やがて普通のこととなり、
当たり前の状態になります。
> 解放された自己は、
> 開かれた、空(くう)の、
> 透明な現存(プレゼンス)へと還ります。
本来の「気づき」として解放された自己は
開かれた、空(くう)の、
透明な現存へと還ります。
> そして、
> 自己に本来備わっている幸福と平安が、
> 体、心(マインド)、世界の
> あらゆるあらわれににじみ出てきます。
そして
自己に本来備わっている幸福と平安が、
われわれが体験する
身体、マインド、世界の
あらゆるあらわれににじみ出てきます。
> 体と心(マインド)は、
> 開かれた、空の、
> 透明な性質を表現し始め、
> さらには世界も真の自己の親密さを反映して、
> 親しみを表現し始めます。
身体とマインドは
開かれた、空の、
透明な性質を表現しはじめ、
世界も真の自己の親密さを反映して、
親しみを表現しはじめます。
> 分離した内側にある自己という信念と、
> それにまつわる感情にはいつか終わりが来ますが、
> この悟りが体、心(マインド)、世界の
> 現れにおいて持つ影響力には終わりがありません。
思考がもたらした偽りの観念
“分離した内側にある自己”という信念や
それにまつわる感情はいつかは終わります。
しかし、
この「気づいている現存」という悟りが
身体やマインド、世界のあらわれ方に
もたらす影響力には終わりがありません。
> それはどこまでも続き、
> 決して終わらない、
> 啓示の旅です。
それはけっして終わることのない
啓示の旅です。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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………○…………○…………○………
キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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【自己だけが在る】
このたったひとつの表現を取り上げても、
ラマナ・マハルシの表現、
ニサルガダッタ・マハラジの表現、
ラメッシ・バルセカールの表現、
ルパート・スパイラの表現と、
それぞれに違うものですね。
あなたはどの表現に
いちばん親和性を感じますか?
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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