home > 通信 >私たちが常に望んでいるもの(R.S2):『アセンション館通信』第1085号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2025/02/02(第1085号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。

 あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
 それを得たり、培ったりする必要はありません。
 あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
 注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。

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◇◇ もくじ ◇◇

1.私たちが常に望んでいるもの(R.S2)

2.編集後記
──────────────────

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■1.私たちが常に望んでいるもの(R.S2)
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週に一回こうして『アセ通』を書きつづけて、

「いま、正味の実力として理解されたことって

 何だろう?」

毎週土曜日にこうして書き始めるとき

いつもそんなことを思います。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

あなたはいかがお過ごしですか?

そうですねぇ。

いまでは何となくの雰囲気のように、

自分はいま現在、

実際はマインドが考えられるかぎりの

(あるいは、マインドの想像を超えた)、

最高・最善の理想的状態にいる

という“論理的”結論でしょうか。

それは実力というよりはむしろ、

マインドの決め事として

思い出されることなものかもしれません。

ですから、

「そうとはわかっているけれど、

 それはどういうわけだったっけ?」(?_?)

などという想念が浮上してくることもあります。

そういう思考が起こったとき

その解答として想起される観念は、

ある意味では、

【自分は“何にでも”なれる】ということです。

思い込みが実現しているわけですから。

しかしまた別の意味では、

【実際に「何か」になれるわけではない】

ということにもなります。

というのは、

自分がいまこの瞬間に“なっている”

と思われるその「何か」は

この一瞬だけのつかの間の【見かけ】に

すぎないことも確かだからです。

その「何か」はすぐに失われるのです。

「あらわれ」という【見かけ】は

絶えざる変化に晒されているわけです。

通常われわれがなったつもりになるのは

この身体であり、湧いてくる思考です。

ですから、

もしわれわれが、

「あらわれ」の中の身体や湧いてくる思考を

実際の“自分”として掴んでしまったら、

たちまち体験を苦しむことが始まってしまいます。

身体はさまざまの必要を抱えているので、

絶えずその必要を満たす行動が要求されます。

つまり、

自分がこの身体に「自己同化」した、とか

この身体に「一体化」したと言われる状態です。

もしそのように二元的に理解するのなら、

この身体は単なる知覚の対象物であって、

自分はその身体(=対象物)を知覚している者、

つまり知覚の主体だということになるわけです。

そのような二元的な描写でいうなら、

実際の自分は身体(=対象物)ではなく、

身体を含めたすべての【見かけ】に

気づいている者ということになるでしょう。

その「気づいている者」は

気づきの対象物にはなりえないわけです。

そしてまた、だからこそ、

「気づいている現存」は、

実際はいかなる「あらわれ」にも染まることなく、

いかなる対象物からも解放されているのです。

いまこの瞬間、

想念が湧いているとしたら、

その想念は何を求めているのか?

われわれはつねに何を望んでいるのか?

……。(-_-)

このところしばらく

ルバート・スパイラの表現に添っていますが、

やはり同じ文章がヒットするようです。

これまで何度か引用したことのある

「私たちが常に望んでいるもの」という章で、

以前も前半を写経したことがありますが、
https://www.ascensionkan.com/mm/vol856.html#1

今回もまた、その前半を写経しようと思います。

この章全体は、ルパート・スパイラが

ある女性からの手紙に答えた言葉です。

──────────────────
 
 私たちが常に望んでいるもの
 
 
 質問:
 ときにあなたは、探求や模索の終わりとは、
 愛や幸福の体験であると説明します。
 しかし、そういうふうに言ってしまうと、
 この瞬間がどうあるべきかについて、
 新たな模索のパターンや考えが
 作り上げられてしまうのではないでしょうか。
 
 愛や幸福は、他のすべてのものと同じように、
 やって来ては去っていくように見えます。
 困難で不幸せな瞬間にも、
 愛や幸福が現存するはずだと考えると、
 ただただ、
 現在の状況変えたくなってしまいます。
 そして何か他のものが欲しくなってしまう
 ──つまり、
 さらに何かを探し求めてしまいます。
 
 こうしてお手紙を書いているのは、
 愛し、愛されたいという欲求の
 落とし穴にずっとはまってきたからです。
 私は長い間、自分が探しているのは
 そのような愛だと信じてきました。
 今でもまだ、
 私の中の一部がそれを欲しています。
 実際、私は今ここに座って、
 愛を求めて泣いているのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p93)
──────────────────

> 困難で不幸せな瞬間にも、
> 愛や幸福が現存するはずだと考えると、
> ただただ、
> 現在の状況変えたくなってしまいます。
> そして何か他のものが欲しくなってしまう
> ──つまり、
> さらに何かを探し求めてしまいます。

わかりますよね。

地球上の大部分の人間は同意するはずです。

その彼女に対してルパート・スパイラは

こう語りかけます。

──────────────────
 
 (ルパート・スパイラ)
 愛、平安、幸福とは、
 あらゆる抵抗と模索が
 溶け去るさまを描写した言葉にすぎません。
 それは、
 分離と他者性の崩壊、
 つまり、
 私たちの本質を味わうこと、
 それがそれ自身を味わうことです。
 客観的な性質を持っていないという意味で、
 愛、平安、幸福は、
 客観的なものではありません。
 ですから、
 愛、平安、幸福とは、
 心(マインド)や体の体験ではありませんが、
 それらに強い影響を与えます。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p94)
──────────────────

ルパート・スパイラの定義では

【愛、平安、幸福とは、
 あらゆる抵抗と模索が
 溶け去るさまを描写した言葉にすぎません】

ということになります。

すると

> それは、
> 分離と他者性の崩壊、

を意味するわけですから、

そもそも、

分離も他者も存在しないという

ことを前提した上での話です。

そこに物語や関係というものは存在しません。

つまり、

愛、平安、幸福とは、

【私たちの本質を味わうこと、
 それがそれ自身を味わうことです。】
 
ということになります。

曹洞禅の澤木興道師なら

「自分が自分を自分する」と言うでしょうか。

ルパート・スパイラが語る

愛、平安、幸福とは

そのような文脈の言葉ですから、

> 客観的な性質を持っていないという意味で、
> 愛、平安、幸福は、
> 客観的なものではありません。

ということになります。

にもかかわらず、

愛、平安、幸福といった観念は

> 心(マインド)や体の体験ではありませんが、
> それらに強い影響を与える

わけです。

──────────────────
 模索と抵抗により、
 私たちの本質、
 気づいている現存が覆い隠され、
 それゆえに、
 愛、平安、幸福も覆い隠されてしまいます。
 愛、平安、幸福は、
 気づきに本来備わっているもの、
 というよりむしろ。
 それはは気づきであるからです。
 
 気づいている現存としての本質を忘れ、
 自分は分離した自己なのだと
 想像することによって、
 私たちは世界にさまよい出て、
 関係性の中に愛を、
 状況の中に平安を、
 対象物の中に幸福を探し求めます。
 
 この模索は、その性質上、
 当然ながら不愉快のものです。
 ──それは苦しみという活動であり、
 分離した内側の自己を定義づけるものです。
 実際には、
 分離した模索する自己は存在しません。
 分離してるように見える自己とは、
 抵抗/模索という活動なのです。
  
 『プレゼンス―第2巻』(p94)
──────────────────

> 気づいている現存としての本質を忘れ、
> 自分は分離した自己なのだと
> 想像することによって、
> 私たちは世界にさまよい出て、
> 関係性の中に愛を、
> 状況の中に平安を、
> 対象物の中に幸福を探し求めます。

われわれの普段の注意は

つねに「あらわれ」に焦点を合わせているので、

自分はただ「あらわれ」に「気づいている」だけで、

けっして「あらわれ」の中に「いる」のではない

ということを忘れてしまう。

そして、

自分は「気づいている現存」だ

ということを忘れた途端に、

われわれは世界にさまよい出て、

関係性の中に愛を探し求め、

状況の中に平安を探し求め、

対象物の中に幸福を探し求めてしまう、と。

それがそれは苦しみという活動であり、

分離した内側の自己の定義そのものだと。

そして実際には、

分離した模索する自己というような者は

実体としては存在していないわけです。

つまり、

分離しているように見える自己とは、

実際は、抵抗し、模索するという

活動そのもののことなのです。

──────────────────
 求めていた関係性や状況、
 対象物が見つかると、
 模索は一時的に終わりを迎えます。
 この溶解において、
 私たちの本質が輝きだします。
 いわば、ほんの束の間の
 (実際は心がそこにいないので
  時を越えた瞬間ですが)
 気づいている現存(プレゼンス)が
 それ自身を味わうのです。
 
 この時を越えた瞬間は、
 愛、平安、幸福として
 知られているものです。
 それは、
 美や理解としても知られています。
 それが私たちの本質であり、
 それはそれ自身を
 ありのままに知っています。
 それは内側の自己の感覚によって、
 見かけ上、
 変化させられることもありません。
 
 心(マインド)が再び目覚めると、
 それはこの非客観的な
 愛、平安、幸福の体験を
 誤って解釈します。
 この体験が起きたとき
 心(マインド)は不在だったのですが、
 関係性や状況、対象物のおかげで
 そのような体験ができたと考えるのです。
 
 こうして、
 主体/客体という考え方が戻ってくると、
 愛、平安、幸福は
 再び覆い隠されてしまいます。
 思考は再び旅に出て、
 新しい関係性、状況、対象物を探し求め、
 愛、平安、幸福の体験が
 再現されることを願います。
 思考は、関係性や状況、
 対象物がこのような体験を
 作り出したのだと誤って信じているのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p95)
──────────────────

ところが、

身体の内部の分離した自己、

模索する自己など実際は存在していなくても、

われわれは

自分が<気づき>であることを忘れて、

世界にさまよい出て、

関係性の中に愛を探し求め、

状況の中に平安を探し求め、

対象物の中に幸福を探し求めてしまいます。

すると、ときには

その求めていた関係性や状況が、

「あらわれ」の中に見つかったように思われる。

すると、その瞬間、

一時的に模索が終わるわけです。

そういった瞬間に

抵抗や模索と言った煙幕が消えたために

私たちの本来の安らぎと幸福が輝きだします。

けれども、

心(マインド)が再び目覚めると、

思考はこの非客観的な

愛、平安、幸福の体験を

あたかも

関係性や状況といった対象物のおかげで

そのような体験ができたかのように

誤解してしまのです。

そうやって目覚めたマインドのなかで

主体/客体という考え方が戻ってくると、

愛、平安、幸福は

再びその思考の煙幕の陰に覆い隠されてしまう。

思考は再び旅に出て、

新しい関係性、状況、対象物を探し求め、

愛、平安、幸福の体験が

再現されることを願うことになる。

──────────────────
 しかし、
 愛、平安、幸福を作り出すのは、
 関係性や状況、対象物ではありません。
 気づいている現存である
 私たちの本質に本来備わっている、
 根底にある愛、平安、幸福は、
 抵抗し模索する思考が停止することで
 輝きだします。
 すなわち、
 抵抗/模索の停止によって、
 私たちの本質は
 それ自身をありのままに知り、
 味わうことができるのです。
 抵抗/模索という活動によって、
 見かけ上、
 本質が覆い隠されることがなくなるからです。
 
 それゆえ、
 私たちの自己、
 気づいている現存がやって来ては
 去っていくものではないのと同じように、
 愛、平安、幸福も、
 やって来ては去っていくものではありません。
 しかし、それらはときおり
 覆い隠されているように見えます。
 
 ですから、もし、私とは
 分離した内側の自己であると考えれば、
 必ずや、関係性や状況、
 対象物といった領域の中に、
 愛、平安、幸福を
 探し求めることになるでしょう。
 実際、分離した自己とは、
 愛、平安、幸福の模索なのです。
 
 しかし、
 遅かれ早かれ、
 私たちが探しているものは、
 対象物の領域には
 見つからないということを
 理解しなければなりません。
 これは単に、
 私たち自身の存在(ビーング)を
 知るということです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p95-06)
──────────────────

しかし実際は、

「あらわれ」のなかの関係性や状況が

愛、平安、幸福を作り出しているのではなく、

抵抗し模索する思考が停止することで

私たちの本質に本来備わっている、

根底にある愛、平安、幸福が輝きだしたのだと

ルパート・スパイラは言うわけです。

「気づいている現存」という私たちの自己が

やって来ては去っていくものではないのと同じく、

愛、平安、幸福も、

実際は来たり去ったりするものではない。

けれども、

自分は分離した内側の自己だと考えるかぎり、

関係性や状況、対象物といった領域の中に、

愛、平安、幸福を探し求めることになるのです。

けれども、

遅かれ早かれ、いつかは、

自分が探しているものは、

対象物の領域には見つからないということを

理解しなければならない。

それが自分が誰であるか、

自分が「気づいている現存」だという

自分の存在(ビーング)を知ることなのだと。

──────────────────
 一休みして、
 関係性や出来事、対象物に
 焦点を当てるのをやめてみましょう。
 あなたの自己、
 あなた自身の存在が静かに現存し、
 すべての体験の背後で
 光り輝いていることに気づいてください。
 それは平安そのものです。
 それは愛と幸福の住処です。
 
 愛、平安、幸福を、
 体や心の体験とは考えないでください。
 愛、平安、幸福は透明です。
 
 困難で不快な状況の真っ只中でさえ、
 気づいている現存(プレゼンス)が
 背後で静かに輝いているのです。
 
 それと親しんでください。
 私たちは完全に親密に、それなのです。
 私たちが常に、
 真に望んでいるのはそれだけです。
 すべての関係性において、
 それだけが求められています。
 
 距離や他者性の感覚がないので、
 それは愛として知られています。
 動揺することがないので、
 それは平安として知られています、
 欠乏感がないので、
 それは幸福として知られています。
 
 しかし、
 それはもっと単純に言えば、
 「私」として知られています。
 それであってください。
 それと友達になってください。
 それとともに生き、
 それを愛し、
 そこでくつろいでください。
 
       ∞
 
 『プレゼンス―第2巻』(p96-97)
──────────────────

「あらわれ」のなかに

自分を愛してくれる対象、

自分が愛するる対象を探し求めるのを

一休みしましょう、

とルパート・スパイラは語りかけます。

関係性や出来事、対象物に

焦点を当てるのをやめてみましょう。

実際はすべての体験の背後に

われわれの本当の自己、

われわれ自身の存在が静かに現存し、

光り輝いていることに気づきましょう、と。

それは平安そのものです。

それが愛と幸福があるところなのです。

思考が困難で不快な状況の

真っ只中にいるときでさえ、

本当のあなたである「気づいている現存」が

背後で静かに輝いているのです。

それと親しんでください。

われわれはまさにそれそのものなのです。

われわれが実際に

つねに望んでいるのはそれだけです。

思考が何を望んでいるように見えても、

本当にわれわれが求めているのはそれだけです。

そこには距離や他者性の感覚がないので、

それは愛として知られています。

動揺することがないので、

それは平安として知られています、

そこには欠乏感がないので、

それは幸福として知られています。

もっと単純に言えば、

それは「私」として知られています。

それであってください。

それとともに生き、

それを愛し、

そこでくつろいでください。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

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■ 2.編集後記:
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われわれは望みうる最高・最善の

ゴールにいるようです。

ただ思考に注意を向け、

いいように鼻面を引き回されるのを

遠慮するだけです。

われわれは実際は

【私たちが常に望んでいるもの】

それ自体であり、

そのゴールに立っているのですから。

(-||-)

今日も遅くなりました。

おやすみなさい。

(-||-)


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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