━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2025/03/16(第1091号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.不垢不浄、不増不減
2.編集後記
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■1.不垢不浄、不増不減
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わたしが押さなくても
このあらわれの風景は流れてゆくようです。
わたしが懸命にこの風景を
押さなければならないものでもないらしい。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
「私」がボクになる前の風景のことは
あまり覚えていません。
自分はボクなんだと思い込んでから
思えばいろいろなことがあったのでしょう。
あれはどこに住んでいたときなのか……
幼稚園から家まで泣きながら
父親を追いかけたりしたことがあったような。
それから初めて小学校に登校したときのことも
覚えています。
女の人に「自分の席がわかる?」みたいなことを言われて、
自分の机を自分で見つけたのが嬉しかった。
当時はまだそんな子はあまりいなかったのかも。
それからまだそれほど間がなかったころか、
無人の台所の柱にかかった小さな鏡を見て
“自分”が離れる(or 分裂する)ような恐怖を
はじめて感じたことがありました。
あのときその鏡を見続けられる胆力があったら、
……それはわたしではありません。(*^_^*)
そしてそのボクは本ばかりを読むようになっていた。
そのボクは本屋の息子だったからです。
それからいろいろなことを体験したようだけれど、
それはすべて記憶という名の体験、
“自分(の人生)”の再生・再構築にすぎません。
しかし、一旦そこにのめり込むと
その“自分(の人生)”の再構築は
止めどもない娯楽にもなりえます。
すると現象宇宙という壮大な大伽藍が現前するのです。
前回写経した部分に続いて
ルパート・スパイラは『プレゼンス―第2巻』の
【誰が?】という短い章のなかで
次のように語っています。
──────────────────
……
私たちが知っているのは知ることだけです。
では、
知ることは何からできているのでしょう?
それは気づき、意識、
つまり私たちの自己だけでできています。
では、
知ることを知っているのは何でしょう?
知ることだけです!
それはそれ自身を知っています。
それは私たちの、
純粋で、
直接的で、
親密な体験です。
つまり、
それ自身を知り、
それ自身である意識だけが
常に知られているという体験です。
そして、
このように私たち自身の存在を知るとき、
その中にはわずかな分離や距離、
他者性の印もないため、
それは愛としても知られています。
存在するすべてとは、
知ること、
在ること、
愛することです。
それらはつなぎ目がなくひとつであり、
それらは私たちの自己です。
この知ること、
在ること、
愛することは、
思考、感覚、知覚を通じて変化し、
多種多様な名前と形態を持った
体、心(マインド)、世界として現れます。
このつなぎ目のない意識の一体性が、
ひとたび思考によって、
分離した実体、対象物、他者、世界に
見かけ上分割されると、
欲求、怖れ、動機、原因、結果、
意図、進歩、達成、失敗など、
個人的な試みの全体像が、
ひどく現実味を帯びてきます。
しかしそれらは、
思考が想像した分離した内側にある自己に
とってのみ現実的です。
それはちょうど、
映画の登場人物に起きるトラブルが、
その架空の登場人物にとってのみ
現実的であるのと同じことです。
スクリーンにとっては、
それは現実ではないし、
スクリーンはそのようなトラブルを知りません。
スクリーンはそれ自身だけを知っています。
映画の登場人物たちは、
その架空の登場人物たちにとってのみ
現実的なのです。
同じように、
意識は決して分離した実体や
対象物、他者、世界を知りません。
それらは思考の想像によるものです。
意識はそれ自身だけを知っています。
意識はすでに、
そうであり得るすべてです。
それはつなぎ目のない単一の実質であり、
減ることも、
何かを付け加えることも、
変えたり、
動かしたりすることもできません。
人類の冒険によって何かを得たり、
失ったりすることもありません。
個人としての視点から見ると、
束縛と解放、
覆い隠すことと明らかになること、
知ることと知らないこと、
などが存在します。
しかし、
意識の視点から見れば、
それ自身を知ること、
それ自身であること、
それ自身を愛することしかありません。
夜、
眠りにつくところを想像してみてください。
横たわり、
眠りに落ち、
故郷を離れて偉大な冒険の旅に出る夢を見ます。
旅は何年にも及び、
そして家に帰ります。
目が覚めると、
ただベッドの上で
安らかに横たわっていただけだったと気づきます。
旅をしたとされる人物にとっては、
これは長く奇妙な、
堂々巡りの旅です。
しかし、
ベッドに横になっていた人にとっては、
何も起こらなかったのです。
∞
『プレゼンス―第2巻』(p251-253)
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> 存在するすべてとは、
> 知ること、
> 在ること、
> 愛することです。
> それらはつなぎ目がなくひとつであり、
> それらは私たちの自己です。
現象宇宙というあらわれの世界は
実際は、
「私は在る」という存在感、
透明な鏡面のように静まった意識の海の
波立ちのなかに現れた幻影です。
この幻影のなかで
<存在=意識=気づき>は
「気づく者」“主体”と
「気づかれるもの」“客体・対象物”に
分かれたのです。
つなぎ目のないひとつの「自己」が、
“自分”と“自分以外のもの”を誕生させる
可能根拠を幻想したわけです。
そしてひとつの「自己」が
自らを「知る」ことを意図したのです。
> この知ること、
> 在ること、
> 愛することは、
> 思考、感覚、知覚を通じて変化し、
> 多種多様な名前と形態を持った
> 体、心(マインド)、世界として現れます。
>
> このつなぎ目のない意識の一体性が、
> ひとたび思考によって、
> 分離した実体、対象物、他者、世界に
> 見かけ上分割されると、
> 欲求、怖れ、動機、原因、結果、
> 意図、進歩、達成、失敗など、
> 個人的な試みの全体像が、
> ひどく現実味を帯びてきます。
ひとたび「思考」が
この現実味を帯びてくる幻想世界のなかで
探求・模索の旅を始めると、
そこに止め処はありません。
本屋の息子はpariとなって
その幻影のなかで挫折しなければならなかった。
なぜこんな惨めな挫折が起こらなければならないのか?
こんなもの、無くてもいいではないか。
<何故にすべては始まってしまったのか?>
という仮想の問いのなかで迷子になる以外に
なかったわけです。
> しかしそれらは、
> 思考が想像した分離した内側にある自己に
> とってのみ現実的です。
> それはちょうど、
> 映画の登場人物に起きるトラブルが、
> その架空の登場人物にとってのみ
> 現実的であるのと同じことです。
> スクリーンにとっては、
> それは現実ではないし、
> スクリーンはそのようなトラブルを知りません。
> スクリーンはそれ自身だけを知っています。
> 映画の登場人物たちは、
> その架空の登場人物たちにとってのみ
> 現実的なのです。
しかしその問いは、
それを問う架空の登場人物にとってしか
存在していなかったわけです。
pariとは現存する主体ではなく、
記憶のなかで再生・再構築され続けていた
たんなるひとつの対象物、
映画のなかの架空の登場人物にすぎなかった。
> 同じように、
> 意識は決して分離した実体や
> 対象物、他者、世界を知りません。
> それらは思考の想像によるものです。
> 意識はそれ自身だけを知っています。
対象物、他者、世界とは
ただの思考の想像にすぎなかったわけです。
> 意識はすでに、
> そうであり得るすべてです。
> それはつなぎ目のない単一の実質であり、
> 減ることも、
> 何かを付け加えることも、
> 変えたり、
> 動かしたりすることもできません。
> 人類の冒険によって何かを得たり、
> 失ったりすることもありません。
「自己」、
つまり意識はすでにあり得るすべてです。
不生不滅、
生まれることもなければ、滅びることもなく、
不垢不浄、
汚れることもなければ、清まることもない。
不増不減
増えることもなければ、減ることもない。
無無明亦
無明というものもなければ
無無明尽
無明が尽きるということもない。
無智亦無得
智慧というものもなければ、
何かを得るということもない。
> 個人としての視点から見ると、
> 束縛と解放、
> 覆い隠すことと明らかになること、
> 知ることと知らないこと、
> などが存在します。
> しかし、
> 意識の視点から見れば、
> それ自身を知ること、
> それ自身であること、
> それ自身を愛することしかありません。
想像のなかで冒険の旅に出る個人の視点では
束縛もあれば解放もありうるわけですが、
唯一の実在「意識」の観点から見れば、
自らを知り、
自らであり、
自らを愛することしかありません。
> 夜、
> 眠りにつくところを想像してみてください。
> 横たわり、
> 眠りに落ち、
> 故郷を離れて偉大な冒険の旅に出る夢を見ます。
> 旅は何年にも及び、
> そして家に帰ります。
> 目が覚めると、
> ただベッドの上で
> 安らかに横たわっていただけだったと気づきます。
夢の中の長旅は
ただのくたびれもうけ。(*^_^*)
でもそうなることになっているのなら、
それを避けることもできません。
> 旅をしたとされる人物にとっては、
> これは長く奇妙な、
> 堂々巡りの旅です。
> しかし、
> ベッドに横になっていた人にとっては、
> 何も起こらなかったのです。
実際は、
何も起こらなかったのです。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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読み物として面白ければと思っています。
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■ 2.編集後記:
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週にいちどのこの無礼講。
まあ、よう続くわ。
すべては想像の中にしかありません。
こういう観点が本屋の息子に起こっている。
誰がやっているわけでもありません。
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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