━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
☆☆ ☆☆
☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2025/03/23(第1092号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.スクリーンセーバー再論訪
2.編集後記
──────────────────
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1.スクリーンセーバー再論訪
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
現れているものは一切合切がすべて
「私」であり、
同時に「私」は
現れているいかなるモノでもない。
「私」にはいかなる義務も責任もない。
物語の中に入り込みたいのなら、
好きなだけ入り込めばいいし、
入れ込みすぎて辛くなったら
いつでも辞めればいい。
すべては「私」から流れ出した
想像にすぎない。
気づいている現存である「私」以外には
何も存在しないのだから。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
こうして土曜日になると、
誰が読んでいるわけでもない
こういう文章を書くことが起こります。
書いている“自分”に
実際はどんな実体も存在しないように、
読んでいる“あなた”という
なんらかの実体が存在するわけでもありません。
それでもこうやって律儀に、
夢の状況のなかで
“自分”は小突き回され続け、
そして実際はどんな実体も存在しないことを
思い出しては言葉で表現することが起こります。
今となっては長い習慣です。
それでも毎日の日常生活のなかでは
生きてゆくための行為は起こり続けるし、
“自分”が“行為者”であるかのような
習慣的思考も浮上しつづる。(*^_^*)
“自分”などというものには
どんな実体も存在しないのに。
それはただ単に
知覚の対象物として浮上してくる思考にすぎません。
この“自分”という思考については
ルパート・スパイラが『プレゼンス―第2巻』の
【名俳優】という短い章のなかで
スクリーンセーバーという
じつに卓抜な比喩を語っていました。
とても感動して2年半ほど前にも触れています。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol861.html#1
ルパート・スパイラの解説は
次のようなものです。
──────────────────
名俳優
「私」という考えは、
隙間を埋める詰め物のようなものです。
心(マインド)が創造性、愛、探究心、
実用性に満ちた考えで
占められていないとき、
心(マインド)はこの詰め物に頼ります。
創造性、愛、探究心、
実用性に満ちた考えが
終わりを迎えるとすぐに、
心(マインド)は偽の自己、
偽の行為者、偽の考えるもの、
偽の感じるものを作り上げます。
そして、
終わってしまった活動は、
自分の手柄だと主張します。
この架空の分離した自己が、
心(マインド)の基本設定となります。
それはコンピューターの
スクリーンセーバーのようなもので、
スクリーン上に何のドキュメントも
開かれておらず、
退屈に見えるとき、
それを誤魔化すのが役目です。
スクリーンが退屈に見えるのは、
画像の視点から見たときだけです。
なぜなら、
画像にとって、スクリーン上に
自分の知っているものがまったくない、
つまり対象物がまったくないからです。
しかし、
スクリーンそのものが
不在なわけではありません。
それは存在しています。
実際のところ、
スクリーンが、
目に見える画像の唯一の実質です。
心(マインド)の視点から見たときのみ、
不在なのです。
『プレゼンス―第2巻』(p221-222)
─────────────
> 「私」という考えは、
> 隙間を埋める詰め物のようなものです。
> 心(マインド)が創造性、愛、探究心、
> 実用性に満ちた考えで
> 占められていないとき、
> 心(マインド)はこの詰め物に頼ります。
マインドは面白い思いつきに
夢中になっているときは
“自分”というような想念は思い出さないのに、
いざ熱中できる内容が欠如して
いわば「空」なる状態が起ころうとすると
それに対峙する退屈を避けるために
“自分”という想念を引っ張り出します。
> 創造性、愛、探究心、
> 実用性に満ちた考えが
> 終わりを迎えるとすぐに、
> 心(マインド)は偽の自己、
> 偽の行為者、偽の考えるもの、
> 偽の感じるものを作り上げます。
> そして、
> 終わってしまった活動は、
> 自分の手柄だと主張します。
> この架空の分離した自己が、
> 心(マインド)の基本設定となります。
そしてさっきまでの生き生きとした
実用的で創造的な活動は
あたかもすべて“自分”がやったこと
でもあるかのように自慢するのです。
その詐称がやがてとんでもない
災厄に転化することに思い及ばないのです。
現象世界で起こることはすべて
この身体の内部の分離した“自分”が
主人公となって実現している人生なのだ
などと詐称すれば、
それがとんでもない冤罪を呼び寄せることに
どうして気がつかないのだろう。(^_-)
ところがこの詐称が生み出す
虚構の前提に基づく人生には
誰をもカウチポテトに縛りつける
途方もない魅力と中毒性があるらしい。
かくて
その架空の分離した“自分”の偽りの主張が
基本設定となって現象世界を染め上げるのです。
> それはコンピューターの
> スクリーンセーバーのようなもので、
> スクリーン上に何のドキュメントも
> 開かれておらず、
> 退屈に見えるとき、
> それを誤魔化すのが役目です。
それはちょうどコンピューターが
なんらかの実質的な活動をしていないときに
そこにはけっして空白画面などは存在しませんよ、
と誤魔化すために現れる
スクリーンセーバーのようなもの。
> スクリーンが退屈に見えるのは、
> 画像の視点から見たときだけです。
> なぜなら、
> 画像にとって、スクリーン上に
> 自分の知っているものがまったくない、
> つまり対象物がまったくないからです。
> しかし、
> スクリーンそのものが
> 不在なわけではありません。
> それは存在しています。
しかし空白画面が退屈だというのは、
その空白画面の上に投影される画像の観点からの
解釈にすぎない。
映し出される画像の立場からすると
空白画面というのはまったく理解の外にある。
何が自分を映し出しているかを知らない
映し出された対象物にしてみれば、
この背景が露出した空白画面というのは
まったく理解できない。
それは退屈であり、
むしろなにやら恐ろしくもある。
しかし画像に理解できないからと言って
画像の背景に空白画面が存在しないわけではない。
その空白画面という背景があるからこそ
すべての画像が存在できているのだから。
> 実際のところ、
> スクリーンが、
> 目に見える画像の唯一の実質です。
> 心(マインド)の視点から見たときのみ、
> 不在なのです。
そして真実はといえば
その空白画面こそが
目に見えるすべての画像の唯一の実質にほかならない。
ただ映し出される画像の観点から見たときのみ
その空白画面は「何も無い」と見えるにすぎない。
─────────────
同じように、
心(マインド)の視点から見ると、
心(マインド)は見かけ上の
対象物しか知らないので、
気づきは退屈なものに見えます。
本当は気づきが
自らの実質であることを、
心(マインド)は知らないし、
知ることもできません。
この気づきの
見かけ上の空虚さを避けるため、
心(マインド)は偽の現存、
偽のアイデンティティ、
つまり
分離した内側にある自己を作り上げ、
真の気づきの現存の真似をします。
偽の自己は、
心(マインド)が考えたり、
想像したり、感じたり、
知覚したりする合間に
取り組めるものを与えてくれます。
この偽の自己が、
私たちの体験の
背景になるように見えます。
それはいつでも存在し、
他のあらゆる知覚と知覚の間、
そしてそれらの中を
流れているように見えます。
それは名俳優なのです。
体験の本質をより深く探求していけば、
偽の自己は
体験の永遠の背景ではないことが
ますますはっきりとしてきます。
それはむしろ、
体験そのものの
無数に変化する表情のひとつです。
スクリーンセーバーは、
すべてのドキュメントの背景でも
実質でもないことが
はっきりとわかるのです。
それは単に画像の一つ、
ドキュメントと同じようなものです。
『プレゼンス―第2巻』(p222)
──────────────────
> 同じように、
> 心(マインド)の視点から見ると、
> 心(マインド)は見かけ上の
> 対象物しか知らないので、
> 気づきは退屈なものに見えます。
> 本当は気づきが
> 自らの実質であることを、
> 心(マインド)は知らないし、
> 知ることもできません。
> この気づきの
> 見かけ上の空虚さを避けるため、
> 心(マインド)は偽の現存、
> 偽のアイデンティティ、
> つまり
> 分離した内側にある自己を作り上げ、
> 真の気づきの現存の真似をします。
コンピューターにおける
画像とその真の背景である空白画面の関係と同じく、
見かけ上の対象物しか知らない
マインドの観点からすると、
取り付く島のない気づきは退屈なものに見える。
自分が気づきが映し出した一場面にすぎないことを
マインドは知らないし、知ることもできない。
かくて、
気づきの見かけの空虚さを避けるために
マインドは自分用の偽りのアイデンティティ、
つまり分離した内側にある自己を捏造して
真の背景である「気づいている現存」の真似をする。
> 偽の自己は、
> 心(マインド)が考えたり、
> 想像したり、感じたり、
> 知覚したりする合間に
> 取り組めるものを与えてくれます。
> この偽の自己が、
> 私たちの体験の
> 背景になるように見えます。
> それはいつでも存在し、
> 他のあらゆる知覚と知覚の間、
> そしてそれらの中を
> 流れているように見えます。
> それは名俳優なのです。
マインドが夢中になれる
創造的・機能的な活動をしていないとき、
コンピューターのスクリーンセーバーのように
偽りの自己が現れて
あたかも他のすべての体験の
背景であるかのようにふるまいはじめる。
あたかも
他のあらゆる知覚と知覚の間を流れており、
すべてを取り仕切っているのが
身体の内部の“分離した自分”であるかのように。
> 体験の本質をより深く探求していけば、
> 偽の自己は
> 体験の永遠の背景ではないことが
> ますますはっきりとしてきます。
実際に起っていることを詳細に調べると、
体験の永遠の背景が
その偽りの自己でないことがわかる。
> それはむしろ、
> 体験そのものの
> 無数に変化する表情のひとつです。
その偽りの自己は、
実際は体験そのものの一部分、
無数に変化する表情のひとつにすぎない。
> スクリーンセーバーは、
> すべてのドキュメントの背景でも
> 実質でもないことが
> はっきりとわかるのです。
> それは単に画像の一つ、
> ドキュメントと同じようなものです。
それはコンピューターのスクリーンセーバーが
すべての画面の背景ではなく、
ましてやその実質などではなく、
単に画像のひとつにすぎないのと
同じようなもの。
すべての冤罪を引き寄せるのは
途方もない愚かさ、無知とも言えるけれど、
実際は、
その無知は存在していない。
現れては消える一瞬の想像にすぎない。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
こうして毎週書かれた言葉は、
刺抜きのトゲのように、
偽りの自己同化を解除してくれます。
誰がやっているわけでもありません。
ただこういうことが起こっている。
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2025 paritosho
──────────────────
|