━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2025/03/30(第1093号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.自己であることは物事であること
2.編集後記
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■1.自己であることは物事であること
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すべては「私」から流れ出した
想像にすぎない。
気づいている現存である「私」以外には
何も存在しないのだから。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
われわれは常に何かを求めています。
どういうわけか
ただあるがままの<いま>に落ち着けません。
何かが落ち着ついていないのです。
いや、けっして落ち着けないように
思考が誘導されているのだとも言われます。
いわゆるスピリチュアルな
宇宙存在のチャネリング情報などを見ても
われわれ地球人類は
地球のこれまでの「支配者」によって
常にあるがままの【現存:<いまの在り方>】を否定し、
それに逆らい、抗うように
仕向けられているのだと言われます。
常に何らかのモデルケースを与えられ、
現実にはありえない理想形を模索するように
ミスリードされているのだと。
これまでこの地球社会は
教育、常識、道徳、宗教、科学など
多様な形で思考の枠組みを厳密に管理されてきた。
地球社会は“思考の檻”というバリア
(それこそが究極の暴虐とも言えるもの)で
外宇宙から隔離されてきたのだと。
ただし2012年12月あたりで
そのバリアは完全に排除されたと言われます。
しかしまた、
物事のあり様は一面的には語れません。
悪魔思考の一部レプティリアンの種族に
乗っ取られて以来、
当初理想郷プロジェクトとして企画された
この太陽系第三惑星の地球は、
近辺宇宙からは一種の“流刑地”とも
見なされることになったのでした。
しかし同時に、別の観点からは、
“圧縮学習”の星と
見なされることにもなったようです。
なぜなら、外宇宙存在が
この星の住人として誕生しようとすれば、
他に類例のない過酷な入植条件が課されたからです。
自らの宇宙的IDを完全に忘却する契約書に
承諾のサインをする必要があったのです。
この“思考の檻”で隔離された星には、
自分が誰であるかを完全に忘れなければ
外宇宙からは入ってくることができない。
これははからずも、考えられるかぎりの
過酷な宇宙的実験場を構成するものでした。
宇宙では極端は必ず反転します。
いったん宇宙的流刑地として忘却の淵に沈んだ
かつての理想郷プロジェクトの地は、
今度は宇宙最難関の最終試験場として蘇ります。
この太陽系第三惑星は
宇宙の冒険者たちの叡智を確認する
“圧縮学習”の地となったのです。
この話をpariがはじめて知ったのは
ロバート・モンロー氏の著書の邦訳本
『魂の体外旅行――体外離脱の科学――』
https://www.ascensionkan.com/books/journeyf.html
によってでした。
「アイデンティティーの完全忘却」というのが
どれほど過酷な条件なのか、
この星の住人になってしまった人間には
なかなか理解がしにくいことかもしれません。
なにしろ地球人類には当然かつ普通のことですから。
そしてまた別の観点から言うなら、
“自らの宇宙的ID”という観念自体が
ただの想像にすぎないのかもしれません……。
さて、そんなことを思い出したのは、
今回写経しようと思った章タイトルが
ルパート・スパイラ『プレゼンス―第2巻』の
【自己であることは物事であること】
だったからかもしれません。
ただし
ここでルパート・スパイラが
「自己であること」という言葉で表現しているのは
“自らの宇宙的ID”を思い出すこと
……ではありません。(*^_^*)
それとはまた別のニュアンスだったようです。
「自己であること」というタイトルからは
何らかの“定義を担った存在”であること、
“自分が誰であるかを知っている”こと、
というような意味合いかなと想像しましたが、
それとは違っていました。
ルパート・スパイラが言っているのは、
「気づいている現存」である「自己」が
実際の体験において「自己である」とは、
気づいているその見かけ上の「物事」であることだ
という意味のようです。
同じくアドヴァイタと分類されることになっても、
ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジとは
またずいぶん異なる位相なのかもしれません。
あるいは、
それほど違わないのかもしれませんが。
では、
ルパート・スパイラの言葉をたどってみましょう。
──────────────────
【自己であることは物事であること】
顔に風が当たる感覚は、
あるひとつの感覚です。
しかし、
思考はそれをふたつのものとして概念化します。
思考はこのたったひとつの感覚を、
風と顔という、
ふたつの見かけ上の対象物に分解するのです。
実際はひとつです。
この新しい感覚を「風顔」と呼んでもよいでしょう。
「風顔」を風と顔に分けるのは、
概念的な分割です。
そうすることで、
体験が「私」である顔と、
「私ではない」風に分けられたように見えます。
結果として、
「人」と「世界」は、
ふたつの独立した個別の実体、
もしくは対象物になるように見えます。
このようにして、
体験のつなぎ目のない親密さが、
ふたつの見か上の部分
――内側の自己と外側の対象物、他者、世界――
に分割されます。
私たちは、知り、感じ、知覚する行為によって、
このふたつの部分が結びつけられると想像します。
それゆえ私たちは、
「私はあれとこれを知っている」、
「私は風を感じる」、
「私はあなたを愛している」、
「私は木を見る」などと言うのです。
しかし、
たとえば木を見るとき、
その中には見る者も、
見られるものもありません。
見ている内側の「私」もいなければ、
見られている外側の「木」もないのです。
「私」と「木」は、
思考が体験の現実の上に重ねた概念です。
この場合、
この体験は単に、
「見ること」と呼べるでしょう。
体験することのつなぎ目のない親密さが、
主体と客体、
見る「私」と見られる「木」に分割されるのは、
ただ思考がそうしているにすぎません。
しかし、
気づき、もしくは「私」と、
木の現実は、
ふたつの分離した体験ではありません。
それらはひとつです。
風と顔がひとつの体験であるように、
「私」と「木」もひとつの体験です。
そこには決して、
体験の主体も客体もありません。
常に、つなぎ目のない親密な、
体験することがあるだけです。
もしくは、
見かけ上の「私」と見かけ上の木は、
同じ現実を分かち合っている、
つまり、
同じ現実であると言うこともできます。
概念、思いつきが
それらを表面的に分割しているにすぎません。
しかし、
この見る者と見られるもの、
体験する者と体験されるものの分割は、
実際には決して起こっていません。
分離は幻想です。
それは実際には決して体験されません。
言い換えると、
私は木を見ていないのです。
見るという体験において、
私は木です。
私はその現実です。
私たちが木を体験するとき、
その中に唯一現存している実質は、
見ることです。
そして、見ること
―――もっと一般的に言うと、体験すること――
とは気づきであり、
私たちの自己なのです。
見ている気づきと、
見られているものの現実は、
ふたつの別のものではありません。
それらはひとつで同じです。
ですから、
「私は木をしている」と言うべきでしょう。
つまり、
「気づきである「私」が木をしている」のです。
「私」が私であることと、
「木」が木であることが、
お互いの存在を分かち合っているのです。
自己であることとは、物事であることです。
見かけ上の心、体、世界は、
心/体/世界をしている「私」です。
すべての偉大な宗教は、
この認識に基づいてつくられています。
たとえば、キリスト教では、
「私と父はひとつです」と言いますが、
これはまさしくこの認識を示しています。
つまり、
気づきである「私」は、
これらの文字を見たり、
今この瞬間、何であれ体験されている
すべてのことを体験していますが、
この「私」は、
体験されているすべてのものとひとつです。
すなわち、
「私」は宇宙の現実とひとつなのです。
スーフィズムでは、
「神だけがある」と言います。
ヒンズー教では、
「アートマン(見かけ上の人的な自己)と
ブラフマン(宇宙の究極の実在)はひとつである」
と言います。
仏教では、
「ニルヴァナ[訳注:涅槃、永遠の平安、悩の消滅]と
サンサーラ[訳注:輪廻、苦しみに満ちたこの世界]は
ひとつである」と言います。
これは、
覚醒した数少ない聖者たちだけが知っている
特別な体験ではありません。
これは、
私たちひとりひとりが、
直接、親密に、
即座に体験できることなのです。
しかし、
私たちはそれに気づいていなかったかもしれません。
『プレゼンス―第1巻』(p120-123)
https://amzn.to/2PYQzlZ
──────────────────
> 顔に風が当たる感覚は、
> あるひとつの感覚です。
> しかし、
> 思考はそれをふたつのものとして概念化します。
> 思考はこのたったひとつの感覚を、
> 風と顔という、
> ふたつの見かけ上の対象物に分解するのです。
> 実際はひとつです。
> この新しい感覚を「風顔」と呼んでもよいでしょう。
顔に風が当たる感覚は、
実際の経験の感覚内実としては
動きを伴った涼しさを連想させる
ひとつの感覚です。
> しかし、
> 思考はそれをふたつのものとして概念化します。
> 思考はこのたったひとつの感覚を、
> 風と顔という、
> ふたつの見かけ上の対象物に分解するのです。
しかしわれわれはこのひとつの感覚を
すぐに「風」と「顔」という
ふたつの見かけ上の対象物に関連づけて
結果的にそのひとつの感覚から
「風」と「顔」という
ふたつの対象物を連想(捏造)するわけです。
> 実際はひとつです。
> この新しい感覚を「風顔」と呼んでもよいでしょう。
実際の体験内実はひとつの感覚なのだから、
それにあえて名前をつけるのなら
「風顔」とでも呼ぶべきかもしれません、と。
これ、とってもイメージがあって
面白い表現ですね。
> 「風顔」を風と顔に分けるのは、
> 概念的な分割です。
> そうすることで、
> 体験が「私」である顔と、
> 「私ではない」風に分けられたように見えます。
> 結果として、
> 「人」と「世界」は、
> ふたつの独立した個別の実体、
> もしくは対象物になるように見えます。
この「風顔」とも言うべき
風が当たるひとつの感覚を
「風」と「顔」に概念的に分割することで、
実際に体験されたひとつの感覚から
体験した「私」である顔と
体験された「私ではない」風への分割が起こる。
その結果、
体験する「人」と
体験される「世界」という
ふたつの独立した個別の実体(対象物)が
見かけ上誕生することになります。
> このようにして、
> 体験のつなぎ目のない親密さが、
> ふたつの見か上の部分
> ――内側の自己と外側の対象物、他者、世界――
> に分割されます。
このようにして
実際に体験されたひとつの感覚から
内側の自己と外側の対象物、他者、世界
といったふたつの見かけ上の部分への
分裂が想像される(起こる)わけです。
> 私たちは、知り、感じ、知覚する行為によって、
> このふたつの部分が結びつけられると想像します。
> それゆえ私たちは、
> 「私はあれとこれを知っている」、
> 「私は風を感じる」、
> 「私はあなたを愛している」、
> 「私は木を見る」などと言うのです。
この体験する側(主体)と
体験される側(客体・対象物)というふたつの部分は、
感覚だけでなく、
その他の知ったり、感じたりする体験に適用され、
「私はあれとこれを知っている」、
「私は風を感じる」、
「私はあなたを愛している」、
「私は木を見る」といった言い方が普遍化します。
> しかし、
> たとえば木を見るとき、
> その中には見る者も、
> 見られるものもありません。
> 見ている内側の「私」もいなければ、
> 見られている外側の「木」もないのです。
しかし、
もし立ち止まって
その場で体験内実をじっくり調べれば、
実際には
木を見る体験の中には
見る者も、見られるものも存在していない。
見ている内側の「私」もいなければ、
見られている外側の「木」も存在していません。
> 「私」と「木」は、
> 思考が体験の現実の上に重ねた概念です。
> この場合、
> この体験は単に、
> 「見ること」と呼べるでしょう。
「私」とか「木」というのは、
体験の現実の上に思考が覆い被せた概念です。
この体験はただ、
「見ること」と呼べばいいだけです。
見る「私」と見られる「木」と言っているのは、
ただ思考がそう言っているにすぎません。
実際には
木という見かけに気づいている
というひとつの体験が起っているだけです。
風と顔がひとつの体験だったように、
「私」と「木」もひとつの体験です。
けっして
体験の主体も客体も体験されてはいません。
見かけに気づいているという
ひとつの体験することがあるだけです。
あるいは
「木」という見かけに気づいている場合なら
見かけ上の「私」と見かけ上の木が
同じ現実を分かち合っている、
つまり同じひとつの現実だと言ってもいい。
そのひとつの体験内実を
思考が
「私」が「木」を見ていると、
ふたつの「見かけ」に表面的に分割しているだけです。
実際に「見る者」と「見られるもの」、
「体験する者」と「体験されるもの」という
ふたつの実体への分割が
起こっているわけではありません。
それは実際にはけっして体験されていない
幻想にすぎません。
言い方を換えると
「私」が「木」を見ているのではなく、
見るという体験において、
私は木になっているということです。
「私」とはそこで起こっていることです。
私たちが木を体験するとき、
その中に唯一現存している実質は、
見ることです。
見ること、体験することとは
気づいていることあり、
つまりは、私たちの自己です。
見ている気づきと、
見られているものの現実は、
ふたつの別のものではありません。
それらはひとつで同じです。
そういうわけなので、むしろ
「私は木をしている」と言うべきでしょう。
つまり、
「気づきである『私』が木をしている」のです。
「私」が私であることと、
「木」が木であることが、
お互いの存在を分かち合っているのです。
自己であることとは、物事であることです。
> 見かけ上の心、体、世界は、
> 心/体/世界をしている「私」です。
心、体、世界という見かけは、
心/体/世界をしている「私」の姿です。
> すべての偉大な宗教は、
> この認識に基づいてつくられています。
> たとえば、キリスト教では、
> 「私と父はひとつです」と言いますが、
> これはまさしくこの認識を示しています。
> つまり、
> 気づきである「私」は、
> これらの文字を見たり、
> 今この瞬間、何であれ体験されている
> すべてのことを体験していますが、
> この「私」は、
> 体験されているすべてのものとひとつです。
> すなわち、
> 「私」は宇宙の現実とひとつなのです。
> スーフィズムでは、
> 「神だけがある」と言います。
> ヒンズー教では、
> 「アートマン(見かけ上の人的な自己)と
> ブラフマン(宇宙の究極の実在)はひとつである」
> と言います。
> 仏教では、
> 「ニルヴァナ[訳注:涅槃、永遠の平安、悩の消滅]と
> サンサーラ[訳注:輪廻、苦しみに満ちたこの世界]は
> ひとつである」と言います。
地球上の偉大な宗教は
すべてこの認識に基づいてつくられています。
キリスト教では、
「私と父はひとつです」と言います。
スーフィズムでは、
「神だけがある」と言います。
ヒンズー教では、
「アートマン(見かけ上の人的な自己)と
ブラフマン(宇宙の究極の実在)はひとつである」
と言います。
仏教では、
「ニルヴァーナとサンサーラはひとつである」
と言います。
気づきである「私」は、
いま、これらの文字を見たり、
体験されているすべてのことを体験していますが、
この「私」は、
体験されているすべてのものとひとつです。
すなわち、
「私」は宇宙の現実とひとつなのです。
> これは、
> 覚醒した数少ない聖者たちだけが知っている
> 特別な体験ではありません。
> これは、
> 私たちひとりひとりが、
> 直接、親密に、
> 即座に体験できることなのです。
これはなにも、
ごくわずかの覚醒した聖者だけが知っている
特別な体験ではなく
私たち一人ひとり誰もが
自分で実際に、親密に、
即座に体験できることなのです。
> しかし、
> 私たちはそれに気づいていなかったかもしれません。
ただ
誰もがそれをいますぐ望むわけでは
ないかもしれませんが。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
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■ 2.編集後記:
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こうして毎週写経していると
書かれている言葉に
共振するということは起こります。
それをできるだけ最大限にしたいとも望みます。
それを誰かが望んでいるというのではなく、
ただそういうことが起こっている
というだけです。
偽りの自己同化が溶けるなら嬉しい、と。
誰がやっているわけでもありません。
ただこういうことが起こっています。
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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