home > 通信 >人生に目的はあるのか?(R.S2):『アセンション館通信』第1096号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2025/04/20(第1096号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。

 あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
 それを得たり、培ったりする必要はありません。
 あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
 注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。

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◇◇ もくじ ◇◇

1.人生に目的はあるのか?(R.S2)

2.編集後記
──────────────────

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■1.人生に目的はあるのか?(R.S2)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

わかってはいたけれど、

思考が起こり続けるのは……

やはり理解が起こっていないから。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

われながらよく身体が動いていて、

菌ちゃん農法の畝の最後の1本にかかっています。

今朝まだ昏いうち

トイレからベッドに戻ると

枕元のパート・スパイラの邦訳本

『プレゼンス―第2巻』の目次を開いてみました。

【人生に目的はあるのか?】

というタイトルが目について、

どんな内容だったかが思い出せません。
^^^^^^^^^^^^^^^^^
(これ↑がいいのです。(^_-) )

そしてこの短い章を読んでいるうちに

自分が求めていたものが

そこにあることがわかりました。

pariはある時期から

 <何故にすべては始まってしまったのか?>

という疑問に取り憑かれました。

そしてある時期から

その答えが、

じつは「何も起こっていない」

であることも聞いて知っていました。

しかし(もちろんのことですが)、

「じつは何も起こっていない」という答えが

ほんとうに腑に落ちているわけではありません。

だからこそ、こうしてなにかにつけて、

思考が起こるわけですから。

そしてその“思考が起こったとき”ただちに、

「その思考は「誰に」起こったのか?

 もちろん、

 その思考に興味を持っている“自分”にだ。

 では、その“自分”は存在しているのか?

 いや、“自分”は存在していない。

 では、考えることは「真実」とも「幸福」とも

 まったくなんの関わりもないわけだ。

 そんな偽りの思考に興味を持ち続けるのをやめて

 ただ無心でいなさい!」

というサーダナが自動起動してもいません。

そういう状態でもう20年は油を売っています。

この“油売り回路”を突破する可能性に

今朝はじめて触れた感じがあります。

短い章なので

【人生に目的はあるのか?】の全体を写経します。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 人生に目的はあるのか?
 
 
 質問:
 意識は、何か目的や計画があって、このように
 すべての現象をつくり出しているのでしょうか?
 
 
 目的や計画という概念は思考のものであって、
 意識のためのものではありません。
 
 思考によって想像された
 分離した内側の自己にとって、
 人生の究極の目的は、
 愛、平安、幸福です。
 ですから、すべての人が、
 愛、平安、幸福を探し求めるのです。
 けれど、
 内側にあるように見える自己と
 その不可避的な探求によって、
 まさに探し求めている愛、平安、幸福が
 覆い隠されてしまうということが
 理解されていません。
 
 しかし、愛、平安、幸福は、
 私たち自身の存在(ビーイング)を
 知ることのうちに本来備わっています。
 つまり愛、平安、幸福とは、
 存在(ビーイング)を知ることであるのです。
 それは私たちの自己のまたの名にすぎません。
 つまり、愛、平安、幸福は、
 すべての現象の起源、
 実質として存在しています。
 ですから、
 現象の目的とは、
 愛、平安、幸福を得ることだと
 言うことはできません。
 それはすでに現存しています!
 すでにそれらは、
 それらを探し求めている思考の
 完全なる実質なのです。
 
 思考が生じて、
 意識は存在していないと想像し、
 それゆえに、
 愛、平安、幸福も存在していない
 と想像しているだけなのです。
 この思考によって、
 私たち自身の存在の
 つなぎ目のない親密さが、
 内側の自己と外側の世界という
 二つのものになるように見えるのです。
 
 その瞬間から、
 分離したように見える自己は、
 外側にあるように見える世界で、
 失われた愛、平安、幸福を
 探し求めることを運命づけられます。
 そしてこの探求を、
 偉大なる使命、目的、計画にします。
 分離した自己は、
 この目的なり計画なりが
 意識に本来備わっているものだと
 想像しますが、
 そうではありません。
 それは心(マインド)にとってだけです。
 映画の中で起こるドラマは
 映像のためのもので、
 スクリーンのためのものではありません。
 
 ですから、
 もし私たちとは
 分離した内側の自己だと考えるなら、
 愛、平安、幸福を探すことが
 目的であり計画です。
 この探求は、
 分離した自己がすることではありません。
 それは、
 分離した自己そのものです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p-271-272)
──────────────────

> 質問:
> 意識は、何か目的や計画があって、このように
> すべての現象をつくり出しているのでしょうか?

こういう問いを、

もしミナミAアシュタールのような

外宇宙の意識存在に向けたら、

彼らからは

自らの存在に気づいた「絶対無限の存在」が

自分が何者であるのかを知ろうとして

自分に代わって多様多彩な無限の体験をしてもらうために

われわれという個々の魂を夢見ているのです、

という公式の回答がなされるようです。

プレアデスやシリウスなどの存在たちを含めて、

いわゆる宇宙存在からのチャネリング情報では

現象世界内部の歴史文脈に沿った物語や

さまざまな解像度のその解釈・意味を問題にしていて、

それに先立つものについて

それ以上問題にすることはないようです。

その意味では、

「圧縮学習」の星であるこの「地球」は

ちょっと特異なのかもしれません。

ルパート・スパイラの案内はじつに

深遠なまでにストレートです。

> 目的や計画という概念は思考のものであって、
> 意識のためのものではありません。

「目的」とか「計画」という概念が意味を持つのは

思考が誕生してから後の、

その思考の文脈のなかでの話でしかない、と。

純粋意識である<気づき>には

目的や計画などという時間概念を前提とした

思考の解釈の居場所は存在しません。

> 思考によって想像された
> 分離した内側の自己にとって、
> 人生の究極の目的は、
> 愛、平安、幸福です。

たしかに、

思考が誕生した後には、

その思考によって“分離した内側の自己”という

虚構の視点が想像されます。

その偽りの自己の視点からは

人生の究極の目的は、

愛、平安、幸福になります。

> ですから、すべての人が、
> 愛、平安、幸福を探し求めるのです。

その意味では、たしかに、

われわれは全員、思考のなかで

愛、平安、幸福を探し求めています。

> けれど、
> 内側にあるように見える自己と
> その不可避的な探求によって、
> まさに探し求めている愛、平安、幸福が
> 覆い隠されてしまうということが
> 理解されていません。

しかし、そのように

愛、平安、幸福を探し求めている

想像された“分離した内側の自己”には

まさにその探し求めるそのことによって

愛、平安、幸福が覆い隠されてしまうことが

わかっていないのです。

けれども、じつは

何かを探し求めることは

元々の「自分はいる」と知っている状態を

逸脱することであり、

自らの存在が覆い隠されることなのです。

> しかし、愛、平安、幸福は、
> 私たち自身の存在(ビーイング)を
> 知ることのうちに本来備わっています。

ところが、

「愛」「平安」「幸福」というのは

「自分はいる」と知っていることに

本来的に内在しているのです。

> つまり愛、平安、幸福とは、
> 存在(ビーイング)を知ることであるのです。
> それは私たちの自己のまたの名にすぎません。
> つまり、愛、平安、幸福は、
> すべての現象の起源、
> 実質として存在しています。

言い換えるなら、

「愛」「平安」「幸福」とは

「自分はいる」と知っているということです。

それは「私は在る」のまたの名にすぎません。

つまり「愛」「平安」「幸福」は、

すべての現象が現れるその起源であり、

すべての現象の実質として存在しているのです。

> ですから、
> 現象の目的とは、
> 愛、平安、幸福を得ることだと
> 言うことはできません。

そういうわけなので、

現象の目的が

「愛」「平安」「幸福」を得ることだとは

言えません。

> それはすでに現存しています!
> すでにそれらは、
> それらを探し求めている思考の
> 完全なる実質なのです。

「愛」「平安」「幸福」は

すでに現存しているからです!

「愛」「平安」「幸福」とは

それらを探し求めている思考の実質そのものです。

> 思考が生じて、
> 意識は存在していないと想像し、
> それゆえに、
> 愛、平安、幸福も存在していない
> と想像しているだけなのです。
> この思考によって、
> 私たち自身の存在の
> つなぎ目のない親密さが、
> 内側の自己と外側の世界という
> 二つのものになるように見えるのです。

自分が存在することを知っている状態、

(つまり「愛」「平安」「幸福」)

から流れ出した思考が

意識は存在していないと想像し、

だから、

「愛」「平安」「幸福」も存在していない

と想像しているだけなのです。

そしてそのように想像することで、

元々の「自分はいる」と知っている

どこにも境界線のないその親密さが、

内側の自己と外側の世界という

二つのものに分離したように見えるのです。

> その瞬間から、
> 分離したように見える自己は、
> 外側にあるように見える世界で、
> 失われた愛、平安、幸福を
> 探し求めることを運命づけられます。

するとその瞬間から

身体の内側に分離したように見える自己は、

身体の外側にあるように見える世界で、

失われた愛、平安、幸福を

探し求めなくてはならなくなります。

> そしてこの探求を、
> 偉大なる使命、目的、計画にします。
> 分離した自己は、
> この目的なり計画なりが
> 意識に本来備わっているものだと
> 想像しますが、
> そうではありません。
> それは心(マインド)にとってだけです。
> 映画の中で起こるドラマは
> 映像のためのもので、
> スクリーンのためのものではありません。

すると見かけ上、

身体の内側に分離した自己は、

この探求を、

偉大なる使命、目的、計画にします。

分離した自己は、

この目的なり計画なりが

意識に本来備わっているものだと想像するのです。

しかし、

実際はそうではありません。

目的とか計画という観念の居場所は

心(マインド)の中にしかありません。

映画の中で起こるドラマは

映像の記憶の中に観念として現れるだけで、

スクリーンの中に実在するわけではないのと

同じことです。

> ですから、
> もし私たちとは
> 分離した内側の自己だと考えるなら、
> 愛、平安、幸福を探すことが
> 目的であり計画です。
> この探求は、
> 分離した自己がすることではありません。
> それは、
> 分離した自己そのものです。

というわけで、

自分とは身体の内側の分離した自己だと考えるなら、

愛、平安、幸福を探すことが

目的であり計画だということになります。

しかしその場合も、

この探求は分離した自己が“する行為”ではなく、

むしろ“分離した自己”そのものと言えるでしょう。

──────────────────
 しかし、
 私たちは分離した内側の自己ではない
 ということが明らかになると、
 それと同時に、
 見かけ上の自己の目的、計画によって
 最終的に達成されることは、
 あらゆる現象の起源、本質として、
 あらゆる現象に先立って、
 またその間にも
 存在していることがわかります。
 それは、
 心(マインド)が目論んで
 達成されたのではありません。
 それは心(マインド)の目論みが消えたとき、
 姿を現します。
 実際、心の目論みが、
 探し求められている愛、平安、幸福を
 覆い隠してしまうのです。
 
 愛、平安、幸福の探求が、
 探求されている愛、平安、幸福を、
 まさに覆い隠してしまいます。 
 愛、平安、幸福の探求は、
 たいまつを手に持って
 暗闇を探すようなものです。
 
 けれども、
 私たちとは分離した内側の自己である
 と考えているかぎり、
 こうした目論みは避けられません。
 なぜなら、
 この見せかけの自己自体が、
 まさに主たる目論みだからです!
 
 つまり、
 意識はそれ自身を、
 愛、平安、幸福として知っており、
 それはあらゆる現象の源であり実質です。
 しかし、
 見かけの個人にとって、
 愛、平安、幸福は宿命です。
 
 すなわち、
 意識にとって目的や計画はありません。
 分離したように見える
 内側の自己にとっては
 目的や計画はあります。
 といっても、
 見かけ上の自己が
 計画を立てるのではありません。
 見かけ上の自己そのものが計画なのです。
 
 分離したように見える内側の自己とは、
 幸福の探求そのものです。
 私たちの真の自己、
 気づいている現存(プレゼンス)、
 意識とは、
 内側の自己が探し求めている
 幸福そのものです。
 
 幸福が計画を立てることなど
 できるでしょうか?
 幸福はすでに、
 そのために
 すべての計画が立てられたものなのです。
 
 『プレゼンス―第2巻』(p273-274)
──────────────────

> しかし、
> 私たちは分離した内側の自己ではない
> ということが明らかになると、
> それと同時に、
> 見かけ上の自己の目的、計画によって
> 最終的に達成されることは、
> あらゆる現象の起源、本質として、
> あらゆる現象に先立って、
> またその間にも
> 存在していることがわかります。
> それは、
> 心(マインド)が目論んで
> 達成されたのではありません。
> それは心(マインド)の目論みが消えたとき、
> 姿を現します。
> 実際、心の目論みが、
> 探し求められている愛、平安、幸福を
> 覆い隠してしまうのです。

けれども、いったん

自分は“分離した内側の自己”などではありえない

とわかると、

その見かけ上の“自己”が

目的や計画を立てて最終的に達成されることは

実際はあらゆる現象に先立って

あらかじめ現存していることがわかります。

それはその時々に現れる思考が

目論んで達成できるようなものではなく、

そのような目論みが消えたとき

その背景として現存している

真の「自己」が姿を現すことだからです。

ただ、思考が現れて

愛、平安、幸福を探し求め始めた瞬間に

それが覆い隠されていただけなのです。

【愛、平安、幸福の探求は、
 たいまつを手に持って
 暗闇を探すようなものです。】

しかし、

自分は“分離した内側の自己”だと

想像しているかぎりは

そのように目論むことは避けられません。

その意味では

“分離した内側の自己”という見せかけ自体が

目論見の本体とも言えるでしょう。

「自分はいる」と知っている意識は

自分が愛であり、

平安であり、

幸福であることを知っています。

それがあらゆる現象の源であり実質です。

そのことを知っている純粋な意識に

どんな目的も計画もありません。

分離したように見える内側の自己は、

まさに幸福の探求そのものです。

私たちの真の自己、

気づいている現存は、

想像された内側の自己が探し求めている

幸福そのものです。

想像に注意を払うかぎり

物事は起こりつづけます。

そこではいろいろな目論見が

発生し続けることでしょう。

想像が止まったら、

何も起こっていないのです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

  ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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 存在は幸福と同じであり、
 幸福は存在と同じである。
 ムクティ(解脱)という言葉は非常に魅惑的だ。
 人はなぜ探求するのだろうか?
 そこに束縛があると信じるために
 解脱を探し求めるのである。
 だが事実は、
 そこに束縛はなく、ただ解脱だけがある。
 なぜそれを解脱と名づけておいて、
 それから探しに出かけるのだろうか?
 
 『あるがままに』(p37)
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(-||-)

今日も遅くなりました。

おやすみなさい。

(-||-)


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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