━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2025/05/11(第1099号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.幸福が夢の中で幸福を探す
2.編集後記
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■1.幸福が夢の中で幸福を探す
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夢の中ではどんどん物語が進んでゆきます。
物語が止まっているということはありません。
止まったら現象することはできませんから。
そういうものですよね。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
一週間の間にあれからまたたくさんの場面が
眼の前を通り過ぎてゆきました。
いわゆる“目覚めの状態”にあるとき
われわれはその(いわゆる)“現実”のなかで
常に何らかの活動に携わっています。
われわれは何をしているのでしょうか?
もちろん、何かを求めているのです。
では、「何」を求めているのか?
ルパート・スパイラはその著
『プレゼンス―第1巻』の「まえがき」を
次のような言葉で始めています。
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【まえがき】
この地球に暮らす60億の人に
「人生で最も大切なものは?」と尋ねたら、
そのほとんどが「幸福」と答えるでしょう。
具体的に大切なパートナー、家族、お金と
答える人もいるかもしれません。
そうだとしても、
人々が求めるのはそれらがもたらす幸福のはずです。
実際、ほとんどの行動は
幸福を手に入れるためのものです。
『プレゼンス―第1巻』(p15)
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そしてその「幸福」というのが何であるのか?
については、
端的にこう述べています。
──────────────────
幸福は、
私たちがもつ性質でもなく、
やってきては去る体験でもありません。
それは本来、
抵抗や不満のない状態であり、
私たちの自己の自然な状態です。
自己から切り離すことのできる
何かではありません。
私たちは幸福そのものなのです。
『プレゼンス―第1巻』(p81)
──────────────────
と。
ニサルガダッタ・マハラジも
われわれが求めているものをこう説明します。
──────────────────
あなたが求めているのは幸福であることだけだ。
あなたのすべての欲望はそれが何であれ、
あなたの幸福への熱望の表現なのだ。
基本的に、
あなたはあなた自身の幸福を望んでいるのだ。
『私は在る』(p229)
──────────────────
(-||-)
そしてその「幸福」がじつは何であるかについて
こう述べています。
──────────────────
あなたの非依存性を自覚し、幸せでありなさい。
あなたに言おう。
これが幸福の秘密なのだ。
あなたの幸せが
ものごとや人びとに依存すると信じることは、
自己の真の本性に関するあなたの
無知によるものなのだ。
自己知識を除いては、
幸せとなるために必要なものは何もない
と知ることが智慧なのだ。
『私は在る』(p523)
──────────────────
つまり、
われわれは自らが幸福であることに関して
自分(の理解)以外のいかなるものにも
依存していないという
絶対の非依存性を語っているわけです。
だからこそマハラジは
幸福に関してこんな処方箋を提示するのです。
──────────────────
あなたはつねに快楽を求め、
苦痛を避けている。
いつも幸福と平和を追い続けているのだ。
あなたの幸福への探求自体が、
あなたを惨めに感じさせているのがわからないだろうか?
ほかの方法を試してみなさい。
苦痛と快楽に無関心でありなさい。
求めず、拒まず、
永遠に存在する「私は在る」のレベルに、
あなたのすべての注意を払いなさい。
すぐにあなたは平和と幸福が
あなたの本性そのものであることを悟るだろう。
何か特定の経路を通してそれを探しだそうとすることが
あなたをかき乱すのだ。
障害を避けなさい。
ただそれだけだ。
探す必要はないのだ。
すでにもっているものを探すことはない。
『私は在る』(p258)
──────────────────
と。
そしてラマナ・マハルシは
自我としてのわれわれが達成する
つかの間の幸福はやがて崩れ去ること。
そしてまた苦闘の後に達成される幸福は
じつは自分本来の状態にすぎないことを
こんなふうに語ります。
──────────────────
【真我実現は至福】
自我の完全性はある時点で突然崩れ去り、
何かを得よう、何かをしようという欲望が
湧き起こります。
それを満たして欲望という渇きが癒されたとき、
自我は幸福になり、
本来の完全性が回復されます。
それゆえ、
幸福とは私たちの本来の状態、
本性なのです。
『真我』(p134)
──────────────────
と。
こういう覚者方が異口同音に告げているのは、
「幸福」とはわれわれの
(つまり自分が存在することを知ってい者の)
本来の状態だということです。
われわれは自分以外の誰にも依存することなく
自分が存在することを知っています。
わたしもそれを知っているし、
あなたもそれを知っています。
われわれが知っていることで唯一自明なのは
自分が「存在する」ということです。
自分が何者であるかはきわめて怪しいですが、
自分が「いる」ことだけは疑いない。(*^_^*)
それは他の誰に確かめる必要もなく、
自分自身が知っています。
ただ自分が存在することに気づいている
意識本来のこの自然な状態を、
古来ヒンドゥー教では
「サット・チット・アーナンダ」
「存在・意識・至福」という3つの言葉で
表してきたようです。
そして自ら進んで自覚的に
ただ「いる」だけ、
存在するだけの状態に留まることを
覚者がたは勧めているようなのです。
ところが
ひとたび自らが存在することに気づいた意識は、
ただその状態にとどまっていられるかというと
それはなかなか至難の業であるようです。
なぜなら、
意識はただちに空想しはじめるからです。
たとえば、マハラジの言葉によれば
それはこんな感じです。
──────────────────
意識のなかに存在が立ち現れるとともに、
あなたが何であるか、
また何に成るべきかという観念も立ち現れる。
これが欲望と行動を生み、
何かに成るという過程がはじまるのだ。
成ることには、
明らかにはじまりも終わりもない。
なぜなら、それは毎瞬毎瞬、
新たにはじまるからだ。
創造と欲望が停止したとき、
成ることはやみ、
あれやこれとして在ることは純粋な存在へと溶け去る。
それは表現することのできない、
ただ体験することだけが可能なものだ。
『私は在る』(p523)
──────────────────
ここで
> 成ることには、
> 明らかにはじまりも終わりもない。
> なぜなら、それは毎瞬毎瞬、
> 新たにはじまるからだ。
> 創造と欲望が停止したとき、
とわずか5行の中に簡単に叙述されている文面の
上の4行と最後の5行目の間には
現象世界という夢のなかでは
永劫とも言えるほどの時間のギャップが
あるかもしれないのです。
「毎瞬毎瞬、新たにはじまる創造と欲望」は、
そう簡単には「停止」に至ってくれないからです。
マハルシはこんなふうに言います。
──────────────────
快いものを見るとき、
そこには幸福があります。
それは自己本来の幸福です。
その幸福はあなたと異なったものでもなければ、
あとになって得られるものでもありません。
喜びで満たされているとき、
あなたは純粋な真我の中に沈み込んでいます。
そして、
その状態が自己に本来備わった
至福を顕わにするのです。
しかし、
この至福が
何か他の物事や出来事によって起こった
という考えを起こすとき、
問題が生じます。
実際、
至福はあなたの内にあります。
心(マインド)が満たされているとき、
無意識ながらも
あなたは真我の内に潜り込んでいるのです。
もしあなたが意識的にそうするなら、
それが真我実現です。
私はあなたが真我であるハートの内に、
意識的に潜り込むことを願っているのです。
『真我』(p133-134)
──────────────────
と。(-||-)
> 実際、
> 至福はあなたの内にあります。
実際は、
至福は気づいている現存の自然な状態として
われわれの中に在ります。
> 心(マインド)が満たされているとき、
> 無意識ながらも
> あなたは真我の内に潜り込んでいるのです。
われわれが現象世界という夢のなかで
心が満たされた状況にある瞬間、
たとえ本人がそれを意識していないとしても、
実際は、一瞬外側の顕現の中に
どんな出来事も求めていないために
気づきに元々内在している幸福が露呈したにすぎません。
> もしあなたが意識的にそうするなら、
> それが真我実現です。
もしわれわれが自ら意図して自覚的に
現れという幻影の中に何ひとつ求めないなら
それが真我実現です。
> 私はあなたが真我であるハートの内に、
> 意識的に潜り込むことを願っているのです。
そしてラマナ・マハルシは
われわれが自ら意図して想念が起こるその場所に
意識的に潜り込むことを願っている、
と言うのです。
どうやら、われわれは、いわば
本来の真実の「幸福」が
夢のなかで幻影の“幸福”を探し求めている
といった状況にあるようです。
では、それは簡単に辞められるのか?
いえ、それを辞めることが起こるためには
自分が何であるかの理解が
完全でなければならないのです。
ただそういう話を聞いたことがある、
というだけではそれは起こりません。
ただそういう話をじっくり考えたことがある、
というだけではそれは起こりません。
マハラジが言うように、
何かに成るという想念の発生には
明らかにはじまりも終わりもありません。
毎瞬毎瞬、
新たにはじまる創造と欲望の想念を
発生するその現場で現行犯逮捕し
その想念を現場でキャンセルできるようになる
必要があるようなのです。
「そんなことができるのか!?」(@_@) ⌒★?
と訊くなら、
賢者は
できるかできないかにかかわらず
あなたがそれを望むなら、
あなたはそうしなければならない、
と言うでしょうね。(*^_^*)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
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■ 2.編集後記:
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幸福が夢のなかで幸福を探す
(-_-;)
幻影の中に“幸福”を求めるとき
気づきに内蔵されている「幸福」は
覆い隠されるように見える。
幻影の中に一瞬満足できる状況が生まれると
気づきが内蔵する「幸福」の覆いが薄れて
幸福が体験される。
でもそれが外的状況ゆえの“幸福”と誤解されると、
われわれは新たな模索に巻き込まれる……。
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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