home > 通信 >個人的自己とは(「静寂」6):『アセンション館通信』第1105号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2025/06/15(第1105号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。

 あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
 それを得たり、培ったりする必要はありません。
 あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
 注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。

──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.個人的自己とは(「静寂」6)

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1.個人的自己とは(「静寂」6)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

高木悠鼓さんの邦訳本

『ハートの静寂』

に浸っています。

ロバート・アダムズという賢者の言葉は

圧倒的なパワーを感じさせるだけではありません。

それがとてもありがたいのは、

その言葉がわれわれにも理解可能な

親切で綿密な方法論としても展開されていることです。

ラマナ・マハルシが説く「真我探求」は、

賢者の沈黙を理解できない

われわれ衆生のために説かれた言葉として、

アドヴァイタ・ヴェーダーンタ界隈で

ひときわ偉大な輝きを放っています。

しかし、いかんせん、そのラマナの言葉でさえ

深い物質性の闇に囚われたpariなどには

希薄すぎる指示としか映らないとも言えます。

そのラマナの教えのエッセンス、

「真我」の教えの核心だけを厳選したという

福間巌さんの編纂本『真我』を読んでさえ、

pariなどは、いまいち手の届かない敷居の高さと

指示の希薄さを感じざるをえませんでした。

しかし、そもそもラマナ・マハルシは

21世紀初頭の日本人に向かって語りかけている

わけではありませんでした。

その意味で、ロバート・アダムスの言葉は

ほぼpariと同時代のアメリカ人探求者に向かって

語られたものでした。

高木悠鼓さんの「訳者あとがき」の最後に、

この賢者の略歴がつぎのように紹介されています。

──────────────────
 ロバート・アダムス Robert Adams (1928〜1997)
 アメリカの非二元系の教えの賢者。1928年、ニュー
 ヨークに生まれる。幼少時からシッディ(霊能力)に
 恵まれ、ベッドの横に、のちにラマナ・マハルシだと
 わかる老人がいつも立っていたという。中学生のとき
 に、覚醒体験が起こり、以後世俗的物事への一切の関
 心を失う。パラマハンサ・ヨガナンダの導きでインド
 へ渡り、最晩年のラマナ・マハルシといっしょに過ご
 す(ロバート・アダムスはラマナ・マハルシに実際は
 会っていなかったという証言もある)。ラマナの死後、
 インド各地を放浪し、1960年代にアメリカに戻り、
 アメリカ各地で教え、1997年にセドナで亡くなる。
 関連サイト http://robertadamsinfinityinstitute.org/
──────────────────

またその記述の筆者は詳らかにされていませんが、

「訳者あとがき」より少し前に置かれている

「本書について」という一節には

──────────────────
 『ハートの静寂』は、ロバート・アダムスの三〇年間
 の教えの最後の六年間に、彼が少数のカリフォルニア
 の聴衆に語ったものからアーナンダ・デヴィが編集し
 たもので……
──────────────────

という説明があります。

当時のアメリカ人の条件づけを知り尽くした

賢者を通じて語られる真我の言葉は、

同時代の日本人の条件づけをもつpariにとっても、

格段に綿密で老婆親切を尽くした表現と

なっていたのでした。

ラマナ・マハルシの「真我探求」というのは

そのように理解し、

そのように実践すればいいのか、(@_@) ⌒★?

という感じでした。

高木悠鼓さんは「訳者あとがき」で

──────────────────
 本書の内容については、
 「私とは何か」の本質については、
 他の非二元系の先生や賢者が言っていることと
 ほとんど同じであるが、
 先ほども書いたように、
 「私とは何か」の本質に目覚める方法として、
 「自己問いかけ」の方法を、
 これ以上詳しく説明できないくらい詳細に説明している。
 「自己問いかけ」という方法が合う人には、
 とても役に立つだろうと思っている。
──────────────────

と書かれていますが、まさにそのとおりです。

高木悠鼓さんは本書では

「アートマ・ヴィチャーラ」について

「自己問いかけ」という訳語を採用されています。

pariにとってもこのロバート・アダムスの

「自己問いかけ」の解説は、

ここまで微に入り細を穿って綿密に説明してもらえば

さすがの凡俗にも理解できるという感じでした。


今回は『ハートの静寂』の前半にある

「8章 慈悲深い自己問いかけ」から

その最初の出だしの部分を紹介させていただきます。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )


──────────────────
 
 8章 慈悲深い自己問いかけ 
 
 
 自分は肉体である、
 マインドである、エゴであると信じながら、
 
 あとどれほど人生を生きるのか考えてみてください。
 
 そして、自分が今まで経験してきた状況、
 苦痛、歓喜、二元性も。
 
 あなたは今、こういったすべての物事は、
 本当のあなたではない「私−思考」、
 個人的自己に所属しているものだ、
 とわかり始めています。
 
 あなたは完全な自由で、個人的自己とは絶対的に
 何の関係もありません。
 
 あなたはただ自分に問いかけなければなりません。
 
 この個人的自己とは何か? 
 
 それはどこから来たのか? 
 
 それはどうやって起こったのか? 
 
 どうやってそれは私をしっかりと掴み、
 自分は人間である、と私に信じさせたのか? 
 
 どうやってそれは、私が生まれ、それゆえ私は
 死ななければならない、と私に信じさせるのか? 
 
 この個人的自己とは何か? 
 
 それはどこから来たのか? 
 
 あなたが個人的自己、「私−思考」を追跡すると、
 
 個人的自己はけっして存在したことがなかった、
 とわかり始めます。 
 
 それはけっして生まれませんでした。
 
 それは絶対的な何もなさです。
 
 そして、あなたは輝くばかりに幸福になり、
 愛に満ち、平和に満ちます
 
 『ハートの静寂』(p124-125)
──────────────────

(-||-)

> 自分は肉体である、
> マインドである、エゴであると信じながら、
> 
> あとどれほど人生を生きるのか考えてみてください。


この章はこのまったく無駄のない

本質だけの問いかけからはじまります。


> そして、自分が今まで経験してきた状況、
> 苦痛、歓喜、二元性も。


pariの今回だけの人生を考えても、

これだけの舞い上がりと、落ち込み、

これだけの挫折と、恥ずかしさがありました。(*-_-*)


> あなたは今、こういったすべての物事は、
> 本当のあなたではない「私−思考」、
> 個人的自己に所属しているものだ、
> とわかり始めています。


真我の無限に深い抱擁のなかで、

自らの実在を疑わない

「私−思考」の“自惚れ”が許されてきたわけです。

それが聖なる催眠と呼ばれるリーラなのでしょう。

個人的自己とは単なる思考の一種、

「私−思考」とも呼べる思考の一種にすぎないと

心から納得されるまで……。

そしてついには思考が絶滅するに至るまで

その道は展開されるはずです。


> あなたは完全な自由で、個人的自己とは絶対的に
> 何の関係もありません。


この「自己問いかけ」が始まる前も、

この「自己問いかけ」のプロセスの中でも

実際に存在している<気づき>は

そのような一瞬の「見かけ」を構成する

「私−思考」の形とは絶対的に何の関係もないのです。

この「自己問いかけ」が役割を終えたら……、

そこには「なにもない」だけが存在しているのでしょう。


> あなたはただ自分に問いかけなければなりません。
> 
> この個人的自己とは何か? 
> 
> それはどこから来たのか? 
> 
> それはどうやって起こったのか? 


だから、

実際に現れに気づいている自分は、

この個人的自己とは何か? を、

実際に気づいている自分に無断で

それがどこから来たのか? を、

それがどうやって起こったのか? を

自分に問いかけなければならないのです。


> どうやってそれは私をしっかりと掴み、
> 自分は人間である、と私に信じさせたのか? 
> 
> どうやってそれは、私が生まれ、それゆえ私は
> 死ななければならない、と私に信じさせるのか? 
> 
> この個人的自己とは何か? 
> 
> それはどこから来たのか? 


どうやってその個人的自己が

実際に気づいているこの自分をしっかりと掴み、

自分が人間であるかのように

私に信じさせたのか? を

私は自分に問いかけなければならない。

どうやってそれは、

私が生まれたかのように私に信じさせたのか、

だから生まれた私は死ななければならない、と

私に信じ込ませたのか? 

どうやってそんなことが起こったのか?

この個人的自己とはいったい何なのか? 

それはどこから来たのか? と

私は自分に問いかけなければなりません。


> あなたが個人的自己、「私−思考」を追跡すると、
> 
> 個人的自己はけっして存在したことがなかった、
> とわかり始めます。 
> 
> それはけっして生まれませんでした。
> 
> それは絶対的な何もなさです。
> 
> そして、あなたは輝くばかりに幸福になり、
> 愛に満ち、平和に満ちます


そうやって私がその個人的自己を追跡すると、

その個人的自己というのが

どうやら単なる一種の思考にすぎないこと、

「私−思考」とでも呼ぶしかない

ただの思考の一種にすぎないことが了解され始める。

それはいまの一瞬に浮かんだつかの間の想念にすぎず、

個人的自己などという実体はどこにも存在していない、

そんなものはけっして生まれていない、

そんなものは絶対的にどこにもいない、と。

それがはっきりわかると、

心配の底が抜けてしまうのでしょう。

たしかに、

習慣的に想念としての心配はまだ浮上するけれど

それはただ習慣の惰性が残っているだけで、

その心配を支える

どんな根拠もないことがわかっている状態がくる。

心配はただ心配という想念として

いまの中に一瞬浮上してくるだけという。

実際は、

心配する「誰」が存在しているわけでもない。

それはただの「私−思考」の影。

存在しない「私−思考」の惰性にすぎない、と。

現れるのは気づいている私ではない。

私は現れに気づいているだけ。

存在しているのは気づき。

「私は在る」

現れているのはつかの間の見かけにすぎない、と。

ただし、

そんなうがった理解を

マインドにこれ見よがしに語らせるのではなく、

ただ、誰にこれが起こっているのかと、

ただ問いかけつづける……。

思考が起こってくるかぎり……。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………

▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


  ………○…………○…………○………

キンドル本の『地球世界はかなり特殊』

手にとっていただけました?(^^;)

アマゾンに入って

【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。

読み物として面白ければと思っています。

  ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

自己問いかけ。

感覚されるものはすべて幻影です。

不安は感覚されるもの。

太陽神経叢あたりのある感覚は

単なる感覚であり、つかの間の幻想です。

実在とは、常に変わらずに

いま、ここに、存在するもの。

気づきだけが、

私だけが存在している。

ありがたいことです。

(-||-)

今日も遅くなりました。

おやすみなさい。

(-||-)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2025 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡