━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2025/06/29(第1106号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.「私−思考」こそ容疑者(「静寂」7)
2.編集後記
──────────────────
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■1.「私−思考」こそ容疑者(「静寂」7)
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さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
前回はロバート・アダムスの邦訳本
『ハートの静寂』の前半にある
「8章 慈悲深い自己問いかけ」から
その最初の出だしの部分をご紹介したのでした。
──────────────────
自分は肉体である、
マインドである、エゴであると信じながら、
あとどれほど人生を生きるのか考えてみてください。
……
あなたは今、こういったすべての物事は、
本当のあなたではない「私−思考」、
個人的自己に所属しているものだ、
とわかり始めています。
あなたは完全な自由で、個人的自己とは絶対的に
何の関係もありません。
あなたはただ自分に問いかけなければなりません。
この個人的自己とは何か?
それはどこから来たのか?
それはどうやって起こったのか?
どうやってそれは私をしっかりと掴み、
自分は人間である、と私に信じさせたのか?
どうやってそれは、私が生まれ、それゆえ私は
死ななければならない、と私に信じさせるのか?
この個人的自己とは何か?
それはどこから来たのか?
『ハートの静寂』(p124-125)
──────────────────
(-||-)
ロバート・アダムスのこのような言葉は、
はからずもニサルガダッタ・マハラジの
つぎのような言葉が思い出させました。
──────────────────
私は偉大な伝統的聖典の
どれも読んだことがないし、
私が知っている唯一の言語は
母国語のマラティー語だけだ。
私が追求してきたこと、
唯一の問いかけ、
絶え間なく追求してきた問いかけは
──狩猟者が自分の獲物を追求するように次のことだ──
私は、「私は在る」と知っている。
そして、私は一個の肉体をもっている。
どうしてこのことが、
私の知らないうちに、
私の同意もなく起こりえたのだろうか?
そして、
「私は在る」というこの知識とは何なのか?
これが私の生涯をかけた追求であり、
私は自分が到達した答えに完全に満足している。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p105)
──────────────────
このたったひとつの問いかけを
生涯をかけて絶え間なく追求してきたというのです。
そのような揺らぐことのない探求を前にしては、
宇宙は自らの源泉を
明かさざるをえなかったことでしょう。
ラメッシ・バルセカールによるこの再現本のなかで
ニサルガダッタ・マハラジは、
20年間をヴェーダーンタ哲学の研究に費やし
挫折して、深く意気消沈している
あるヨーロッパ人訪問者に対する説明の最後に、
その全状況を次のように要約します。
──────────────────
もう一度全部をまとめてみよう。
1 原初の状態では、
どんな知識も条件付けも、
属性も形態もアイデンティティもなく、
「私は在る」が行き渡っている。
2 それから、
(そうすることがその性質である
という以外の)
どんな明らかな理由もなく、
非個人的意識である
「私は在る」という思考ないし観念が生じ、
その上に世界が生きた夢として現れる。
3 意識はそれ自身を顕現するために、
形態、肉体を必要とし、
それと自分自身を一体化し、
それゆえ、
「私」の想像的対象化とともに
「束縛」という観念を開始する。
人がこの自己一体化という立場から、
考え、行動するとき、
純粋な主体(無限の潜在可能性)を
一つの対象物、
限定された現実へと変えるという
原罪を犯す。
ということができるだろう。
4 どんな対象物もそれ自身の
独立した実存をもっていず、
それゆえ、
対象物は生きた夢から
自分自身を目覚めさせることはできない。
それにもかかわらず、
その冗談とは、
幻想的個人(一個の対象物)が、
何か他の対象物を
「絶対」ないし現実として
求めることである。
5 もしこのことが明確になれば、
人は向きを反転し、
意識が起こる前
自分は元々何であったのか
(そしてずっと何であったのか)を
発見するために戻る。
6 この段階で、
人は肉体でもなければ意識でさえなく、
意識が到着する前の
命名のしようがない完全なる潜在可能性
(意識の中では、
その状態がどんな名前をもつにしろ、
それは観念にすぎぎない)
であるという目覚めがやってくる。
7 これで、円は完全になる。
探求者が求められているものである。
マハラジは最後に言います──
結論を言えば、
「私」としては、
私たちは非現象であることを
深く理解しなさい。
現在の現象性の状態(その種は意識である)は
一時的なものであり、
原初の変化しない非現象の状態の上にある
病気か月食のようなものである。
人ができることはただ、
自分に与えられた寿命を
生きることだけである。
そして寿命の最後に、
現象という月食が終わり、
非現象がその純粋なユニシティの状態で
自分自身の気づきにまったく気づかずに
再び行き渡る。
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p140-141)
──────────────────
(-||-)
要するに、実在するものに関するかぎり、
【私たちは非現象である】
ということです。
したがってわれわれが気にしている
【現象性の状態】に関して言えるのは、
それが
【一時的なものであり、
原初の変化しない非現象の状態の上にある
病気か月食のようなものである。】
ということです。
ご存知のように、
ニサルガダッタ・マハラジは
このことを軽く、明るく、喜ばし気に語る
そういうタイプのグルではありません。
そしてわれわれが関心をもっている状況とは
上述の要約の中で言えば
【5 もしこのことが明確になれば、
人は向きを反転し、
意識が起こる前
自分は元々何であったのか
(そしてずっと何であったのか)を
発見するために戻る。】
というこのフェーズでしょう。
前回われわれが取り上げた
ロバート・アダムスの『ハートの静寂』の
「8章 慈悲深い自己問いかけ 」こそが
まさに、この
【人は向きを反転し、
意識が起こる前自分は元々何であったのか
(そしてずっと何であったのか)を
発見するために戻る。】
場面そのものを微に入り細を穿って
詳細に説明しているテキストであるわけです。
(相変わらず長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
*「私」を源泉まで追跡してください
こういった物事を理解しようとして、
私が話すことについて熟考し始めると、
自分のマインドからあらゆるものを取り除く方法、
自分のマインドを空っぽにする方法を
あなたは探します。
あなたは問いかけ始めます。
誰にこういった思考が来るのか?
人間であるという感情は誰に来るのか?
この世界は誰にやって来るのか?
誰にエゴがやって来るのか?
そして、
あなたは自分自身に微笑み、
静かになります。
まもなくあなたはあらゆるものが、
あなたにやって来るのだということを理解します。
それはあなたにやって来るのです。
私はこういう物事を考える。
私はこれやあれを信じる。
私は傷つく。
私はこんなふうに、
あんなふうに感じる。
新しい洞察があなたにやって来ます。
「私−思考」です。
あなたは「私−思考」こそ、
容疑者だとわかり始めます。
あなたは朝、
ベッドから起きる瞬間から、
その「私」といっしょに始め、
眠りに落ちるまで、
それは終わることがありません。
ですから、
あなたが平和でいられる唯一のときは、
熟睡しているときです。
あなたが熟睡しているとき、
その「私」はハート、
源泉に戻ります。
熟睡しているとき何も進行していません。
何も起こっていません。
そのとき、
あなたは無意識に真我覚醒しています。
『ハートの静寂』(p126)
──────────────────
自分の不幸がどこから起こってくるか?
何が原因で不幸が起こるのか?
に注意を向け始めると、
それが思考ゆえに起こっていることを
われわれは理解しはじめます。
そしてついにわれわれは
自分のマインドからあらゆるものを取り除く方法
自分のマインドを空っぽにする方法を
求める段階に到達するわけです。
しかしこの段階に到達するころには、
われわれは
マインドを空っぽにする方法を
マインドに求めることはできないことを
理解しはじめています。
それではマインドに泥棒と警察の二つの役割を
割り当てているようなものですから。
では、どうすればいいのか?
それがラマナ・マハルシが教えてくださった
アートマ・ヴィチャーラ、
「自己探求」、「自己問いかけ」
と呼ばれる方法です。
【誰にこういった思考が来るのか?
人間であるという感情は誰に来るのか?
この世界は誰にやって来るのか?
誰にエゴがやって来るのか?】
と、ただ問いかけるということです。
もちろん、この問いかけは、
誰にこういった思考が来るのかについて
思考を巡らそうという試みではありません。
そういう思考が大好きな
「言葉遊び」の「たらい回し」を
これまで散々やってきたからこそ、
いまついに自分のマインドを空っぽにする方法を
本気で求める段階に至っているわけですから。
だからこそロバート・アダムスも
> そして、
> あなたは自分自身に微笑み、
> 静かになります。
と書いているわけです。
われわれはついに
何が問題の源泉だったのかについて
他の誰に頼る必要もない確信に近づきます。
> まもなくあなたはあらゆるものが、
> あなたにやって来るのだということを理解します。
われわれが知覚する物事、思考、感情……、
すべては自分にやってきているのです。
われわれは他の誰かに来ているものなど
知らないし、知ることもできない。
しつこく条件づけられでもしないかぎり
実際は興味もない。
われわれを落ち着かなくさせ、
問題を感じさせ、心配させるものはすべて
自分にやってきているのです。
そんなこと改めて言うまでもないわけですが。(^_-)
> それはあなたにやって来るのです。
> 私はこういう物事を考える。
> 私はこれやあれを信じる。
> 私は傷つく。
> 私はこんなふうに、
> あんなふうに感じる。
われわれが気にしているのはすべて
自分のことです。(*^_^*)
> 新しい洞察があなたにやって来ます。
> 「私−思考」です。
この“自分”という思い、
「私−思考」こそがすべて問題の発信者でした。
──────────────────
あなたは「私−思考」こそ、
容疑者だとわかり始めます。
あなたは朝、
ベッドから起きる瞬間から、
その「私」といっしょに始め、
眠りに落ちるまで、
それは終わることがありません。
ですから、
あなたが平和でいられる唯一のときは、
熟睡しているときです。
あなたが熟睡しているとき、
その「私」はハート、
源泉に戻ります。
熟睡しているとき何も進行していません。
何も起こっていません。
そのとき、
あなたは無意識に真我覚醒しています。
だから、
あなたは朝起きると、
自分自身に言うのです。
「私はよく眠った」。
あなたはその「私」について話しています。
「私はよく眠った」。
あなたが本当に言っている意味は、
その「私」は
あなたの人生の邪魔をしなかったということです。
しかし、
あなたが考え始めると、
「仕事に遅れている。
私はバスをつかまえなくては。
私は頭痛がする。
私は朝食を食べなくてはならない」と、
こんな感じで、
えんえんとこの「私」が続き、
それは止まることがありません。
一日中、
「私」、
「私」、
「私」、
「私」です。
このことを考えてみてください。
私はあなたに真実を話していませんか?
あなたは常に、
「私はこれ」、
「私はあれ」について考えています。
『ハートの静寂』(p126-127)
──────────────────
【あなたは「私−思考」こそ、
容疑者だとわかり始めます。】
朝起きてから夜眠りに落ちるまで、
われわれがずっと悩まされ続けていたのは
この「自分」という思いのせいでした。
この「私−思考」こそが
すべての悩みの犯人だったのです。
だからこそ
われわれが平和でいられたのは
熟睡しているときだけだったわけです。
われわれが熟睡しているとき、
その「私(=私−思考)」は源泉に戻ります。
熟睡しているとき何も進行していなかった。
何も起こっていないのです。
そのとき、われわれは
いわば無意識に真我覚醒していたのです。
ところが翌朝目が覚めると、
われわれはたちまちこの世のさまざまな
状況のなかで悩むことを始めなければならない。
このごろでは
その状態が子どもたちにまで浸透して
つらさのあまり自殺する子どもさえいるわけです。
ではこの「私(=私−思考)」を
どうすれば静かにさせることができるのか?
次回からそのあたりの具体的方法に
入っていきたいと思います。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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「すべては自分にきている」
これこそが
今現在のわれわれが
まったくいかなる疑いの余地もなく
直感的に理解できる内容です。
ロバート・アダムスの語りの中では
この「自分」(あるいは「私」)が、
入れ子構造になっているのです。
要するに、
「自分」が本当にわかりたい、か
それとも
「自分」はまだそれは望んでいない、か
の違いが露わになるだけです。
あなたの頭はすでに虎の口の中に
あるわけですから、
後は好きなだけ転生を繰り返せばいい
ということのようですね。
実際は、気づきだけが、
私だけが存在しているのです。
ありがたいことです。
(-||-)
今日も遅くなりました。
おやすみなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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