━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2025/9/28(第1119号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.エゴが認識している(「静寂」18)
2.編集後記
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■1.エゴが認識している(「静寂」18)
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さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
週に一度土曜日が巡ってくれば
こうして超絶的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタの
言葉に触れる習慣が身についています。
これは私の夢の中で20年かけて身につけた習慣です。
単なるマインドの習慣にすぎないとも言えますが、
マインドが自らの無力と自らの不存在を
察知するプロセスが進んでいるとすれば、
今となってはこの習慣こそが命綱です。
われわれは毎晩、就眠後の熟睡の中では
どんな不幸もどんな心配も無いことを
誰に教えられなくても自分の体験で知っています。
でも毎朝目覚めてからの一日の中には
ややもすると不幸や悩みや心配を体験するわけです。
ロバート・アダムスは
熟睡中の状態は真我覚醒に一番近い状態だといいます。
ただし熟睡中はわれわれは無意識です。
つまり、
自分が存在していることに気づいていない。
熟睡とはいわば無意識の真我覚醒であるわけです。
しかし就眠後の熟睡状態や夢見状態を経て
毎朝目覚めた後は意識の焦点(「私」)は
たちまちそれまで安らいでいた霊的ハートから移動して
鼻先を通り過ぎて頭に移動してしまいます。
そうなると「私」はマインドの掌の中で
思うがままの思考に踊らされてしまう。
つまり、自分の存在に気づく状態を通り過ぎて
思考が投影するイメージに取り込まれてしまう。
あたかも投影される文脈や状況が実在するかのような
見かけの外界の信念体系にハマってしまうわけです。
そしてさまざまな人生の問題を抱えさせられます。
なにしろ見かけの存在と一体化するかぎり、
見かけ上自分はそこに存在するように見えますから。
そして見かけのなかに自分が存在すると想像するかぎり、
われわれは問題をもつわけです。
ロバート・アダムスは
生まれたあらゆる人間は問題をかかえる
と保証しています。
自分が生まれたと信じるかぎり必ず問題をもつ、と。
実際はわれわれは生まれていないし、
生まれていない以上、死ぬこともない。
誕生も死もなければ、問題もありえないわけです。
しかし
いくらロバート・アダムスに保証されても、
自分で体験しないことには
それは単なるロバート・アダムスの見解にとどまり、
けっしてわれわれの現実にはならない。
では、それを実際に自分の現実にするには
いったいどうすればいいのか?
ロバート・アダムスは
【あなたはこれを自分の真我の中で
経験しなければなりません。
それが、
あなたが目覚めることができる唯一の方法です】
と言います。
それにはどうしたらいいのか?
熟睡は無意識の真我覚醒(=至福)です。
解放は意識的真我覚醒(=至福)です。
熟睡のなかでは
われわれはただ無の中で何も意識していない。
自分が存在していることを知らないわけです。
解放とは
われわれが目覚めて意識しているときの状態です。
ただし目覚めてはいても、
人生に巻き込まれている状態ではありません。
特に何を意識しているわけでもなく、
ただ意識しているだけです。
つまり、
ただ自分の存在に気づいているだけの状態です。
ロバート・アダムスは
この状態が解放だと言います。
ということで、
今週もロバート・アダムスの邦訳本
『ハートの静寂』からの一節をご紹介したいと思います。
「11章 放棄」の中に
「*「私」の跡」
という一節があります。
今回はここの内容の一部をご紹介します。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
──────────────────
解放は、
あなたが目覚めて、
意識しているときです。
あなたは特に何を意識しているわけでもなく、
ただ意識しています。
それが解放です。
ですから、
あなたが自分の外側に何かを見て、
それに巻き込まれるとき、
自分に気づいてください。
それは自分から来ていることを理解し、
質問してください。
「それは誰に来ているのか?」と。
あなたがそれです。
皆さんの多くがハイキングへ行ったり、
山へ登ったり、
自然の一部になることが好きだということを、
私は知っています。
そのことは問題ではないですが、
でもこれらの物事が
自分の外側にあるとは信じないでください。
これらの物事はあなた自身です。
あなたがそれです。
「これは誰に来ているのか?」と質問するとき、
あなたは再び理解します。
「それは私に来ている、
私がそれを認識している」
と理解します。
それからあなたは、
あなたが「私」(エゴ)ではないことを
思い出します。
「私」(エゴ)がそれを認識します。
でも現実には、
あなたはその認識者ではありません。
あなたはその観照者ではありません。
「私」(エゴ)がそれを認識します。
「私」(エゴ)がその観照者です。
これは非常に重要なポイントです。
『ハートの静寂』(p240-241)
──────────────────
> 解放は、
> あなたが目覚めて、
> 意識しているときです。
> あなたは特に何を意識しているわけでもなく、
> ただ意識しています。
> それが解放です。
目覚めていて意識している。
しかし
知覚される何らかの対象物を意識しているのではなく、
ただ意識しているだけ。
自分が存在していることを知っているだけです。
ロバート・アダムスは
それが「解放」だと言います。
> ですから、
> あなたが自分の外側に何かを見て、
> それに巻き込まれるとき、
> 自分に気づいてください。
> それは自分から来ていることを理解し、
> 質問してください。
> 「それは誰に来ているのか?」と。
> あなたがそれです。
自分の外側に何かが見えていると、
われわれはすぐに
思考が編み出す見かけに対する解釈や文脈を信じて
その“外界の状況”に対処する誘惑に駆られます。
そうやって“外界の状況”に巻き込まれそうなとき
ロバート・アダムスは
自分(の存在)に気づいてください、と言います。
つまり、
実際に【存在しているのは自分】であること、
外側の見かけは、
その実際に存在している自分から流れ出した
ものであることを思い出してほしい、と。
この見かけは誰に来ているのか?
この見かけは
それを投影した「私」に来ている。
この見かけは「私」(の信念)が投影したもの。
この見かけは
それを投影した「私」(の信念)を映し出している。
> 皆さんの多くがハイキングへ行ったり、
> 山へ登ったり、
> 自然の一部になることが好きだということを、
> 私は知っています。
> そのことは問題ではないですが、
> でもこれらの物事が
> 自分の外側にあるとは信じないでください。
> これらの物事はあなた自身です。
> あなたがそれです。
いろいろ自然を楽しむのはかまわない。
しかし、
それらの知覚の対象物が
実際に自分の外側に客観物として
存在しているとは信じないでください、
とロバート・アダムスは言います。
ミナミAアシュタールなら、
それはわれわれの思考が投影したホログラムにすぎない
と表現することでしょう。
われわれは自分が信じる信念を
外界の対象物として投影しているだけです。
われわれは自分の信念を見ているだけ。
> 「これは誰に来ているのか?」と質問するとき、
> あなたは再び理解します。
> 「それは私に来ている、
> 私がそれを認識している」
> と理解します。
見かけの対象物を見て
「これは誰に来ているのか?」と質問すると
われわれは
「それは私に来ている」、
「私がそれを認識している」、
「それを認識しているのは私だ」と理解します。
> それからあなたは、
> あなたが「私」(エゴ)ではないことを
> 思い出します。
そして
「それを認識しているのは私だ」と理解した瞬間、
われわれは自分がその「私」ではないこと、
つまり「エゴ」ではないことを思い出すわけです。
> 「私」(エゴ)がそれを認識します。
> でも現実には、
> あなたはその認識者ではありません。
> あなたはその観照者ではありません。
> 「私」(エゴ)がそれを認識します。
> 「私」(エゴ)がその観照者です。
> これは非常に重要なポイントです。
今見えているその見かけの対象物は、
「私」(エゴ)が認識しているものです。
でも、
自分はその「私」(エゴ)ではない、
その認識者ではないことを思い出すわけです。
今見えている見かけの対象物は
「私」(エゴ)が認識しているものです。
見かけの対象物を認識しているのは「エゴ」です。
見かけを観照しているのは「エゴ」です。
いまモニター上のこのメルマガを見ているのは
あなたではなく
あなたが一体化している「エゴ」です。
──────────────────
私はあなたにそれを理解してほしいと思います。
なぜなら、
それはあなたの全人生を変える
可能性があるからです。
あなたが世界で何を見ても、
「私」(エゴ)がそれを認識している
と理解してください。
でも、
「私」(エゴ)を真我だと見なさないでください。
あなたは自分自身に気づいて、
「私」(エゴ)が認識しています、
と言わなければなりません。
これは、
あなたがそれを認識している
という意味ではありません。
それを認識しているのは「私」(エゴ)です。
あなたが自分自身を
その「私」(エゴ)から分離するとき、
すべては何でしょうか?
意識です。
あなたが「私」(エゴ)だと信じるとき、
あなたの人間性が活動します。
あなたが、
「私」(エゴ)は世界であることを
認識するやいなや、
あなたは自分自身を
「私」(エゴ)から分離しました。
すると、
意識が活動し、
あなたは目覚めます。
言い換えるなら、
あなたが
あなたの「私」(エゴ)から分離できるとき、
あなたは目覚め、
解放されるのです。
このゲームを毎日おこなってください。
あなたは何を見ても、
それが自分の肉体であれ、
マインドであれ、
他の人々であれ、
誰かがあなたの気に入らないことをするとき、
あなたがおこないうる最悪のことは、
反応することです。
なぜかわかりますか?
なぜなら反応するとき、
あなたは自分の人間性を肯定し、
あなたのエゴが強化されるからです。
しかし、
あなたがもはや反応せずにいると、
エゴはどんどん弱くなります。
「私」とエゴは同じものです。
皆さんの多くは、
人生のひどい出来事、
人間の人間に対する非人道的行為、
テレビで目にするすべての卑劣な物事を見るとき、
それらから自分自身を切り離したくなります。
でも、
よい物事も同じなのです。
あなたはよい物事でもなければ、
悪い物事でもありません。
あなたはどんな物事でもありません。
悪いものをよいものと
取り替えようとはしないでください。
自分自身とゲームをしてください。
あなたが美しい夕日のことを考えるときいつでも、
自分自身に気づいてください。
自分自身に、
「これは誰のところへ来ているのか?
それは私のところへ来ている。
私がそれを認識している」
と尋ねてください。
あなたが「私とは何か?」を尋ねる前に、
覚えておくべきことは、
あなたはその「私」ではない、
ということです。
認識する「私」はあなたではない、
ということです。
『ハートの静寂』(p241-243)
──────────────────
> 私はあなたにそれを理解してほしいと思います。
> なぜなら、
> それはあなたの全人生を変える
> 可能性があるからです。
> あなたが世界で何を見ても、
> 「私」(エゴ)がそれを認識している
> と理解してください。
このことを理解することは
われわれの全人生を変える可能性がある
とロバート・アダムスは言います。
われわれがこの世界で何を見ようとも
「私」(エゴ)がそれを認識している
と理解していればいいわけです。
それだけでわれわれは
問題を抱えて不幸になる間違った想像から
免れることができる。
> でも、
> 「私」(エゴ)を真我だと見なさないでください。
> あなたは自分自身に気づいて、
> 「私」(エゴ)が認識しています、
> と言わなければなりません。
> これは、
> あなたがそれを認識している
> という意味ではありません。
> それを認識しているのは「私」(エゴ)です。
なぜなら、
「私」(エゴ)は真我ではないわけですから。
われわれ(つまり真我)は
自分自身に気づいている実在するパワーです。
われわれは「私は在る」です。
われわれは唯一実在する常在のパワー
「私は『私は在る』である」です。
そして見かけの外界を認識しているのは
「私」(エゴ)です。
「私−思考」です。
われわれは自分自身に気づいている真我です。
一方、
見かけの外界を認識しているのは「私」(エゴ)です。
> あなたが自分自身を
> その「私」(エゴ)から分離するとき、
> すべては何でしょうか?
> 意識です。
自分自身に気づいている実在のパワーが
自分を「私」(エゴ)から分離したとすれば、
全体は何になるでしょうか?
その全体を表す概念が「意識」です。
自分自身に気づいているパワー
それだけを指し示すなら「純粋意識」でしょうか。
対象物を含む二元性の世界だけを指し示すなら
「意識内容」とでも言いましょうか。
> あなたが「私」(エゴ)だと信じるとき、
> あなたの人間性が活動します。
われわれが自分を「私」(エゴ)だと信じたら、
われわれは人間になります。
そして知覚対象が織りなす外界の中で
さまざまな問題を抱えることになるわけです。
> あなたが、
> 「私」(エゴ)は世界であることを
> 認識するやいなや、
> あなたは自分自身を
> 「私」(エゴ)から分離しました。
> すると、
> 意識が活動し、
> あなたは目覚めます。
そういう構造がはっきり理解されて
「私」(エゴ)こそが世界なのだと分かったら、
自分は「私」(エゴ)から分離されます。
自分は「私」(エゴ)という想像上の軛から開放されて、
意識として活動できるようになり
われわれは目覚めるわけです。
> 言い換えるなら、
> あなたが
> あなたの「私」(エゴ)から分離できるとき、
> あなたは目覚め、
> 解放されるのです。
> このゲームを毎日おこなってください。
われわれが自分を
「私」(エゴ)から分離できたら、
われわれは真我覚醒して解放されるわけです。
ロバート・アダムスは
このゲームを毎日おこなってくださいと言います。
> あなたは何を見ても、
> それが自分の肉体であれ、
> マインドであれ、
> 他の人々であれ、
> 誰かがあなたの気に入らないことをするとき、
> あなたがおこないうる最悪のことは、
> 反応することです。
> なぜかわかりますか?
> なぜなら反応するとき、
> あなたは自分の人間性を肯定し、
> あなたのエゴが強化されるからです。
このゲームをおこなうとは、
毎日何を見ても
外界の状況に心理的に反応しないことだと
ロバート・アダムスは言います。
自分の思うに任せない状況が起こったとき、
われわれがおこないうる最悪のことは、
それに心理的に反応することだ、と。
なぜなら、
見かけの対象物に心理的に反応するとき
われわれは自分の人間性を肯定し、
自分のエゴを強化することになるからです。
> しかし、
> あなたがもはや反応せずにいると、
> エゴはどんどん弱くなります。
ところが、
われわれが反応せずにいると、
エゴはどんどん弱くなる、というのです。
これはもう、
試してみるしかないですね。(*^_^*)
> 「私」とエゴは同じものです。
> 皆さんの多くは、
> 人生のひどい出来事、
> 人間の人間に対する非人道的行為、
> テレビで目にするすべての卑劣な物事を見るとき、
> それらから自分自身を切り離したくなります。
> でも、
> よい物事も同じなのです。
> あなたはよい物事でもなければ、
> 悪い物事でもありません。
> あなたはどんな物事でもありません。
> 悪いものをよいものと
> 取り替えようとはしないでください。
> 自分自身とゲームをしてください。
安易にテレビを見て心を動かされたりするのは
とても高くつく娯楽のようです。
というか、
テレビを見ようとすること自体が
映画を見に行くのと同じことですものね。
自分を忘れて一種「気を失う」ためにすることです。
われを忘れて「気を失う」ことは高くつきます。
これほど中毒性が高いゲームは
他に考えられないかもしれません。
実際はわれわれは良い物事でもなければ、
悪い物事でもないわけですから。
われわれはただ存在しているだけです。
しかし、
自分が存在していることを知っている
唯一実在する真のパワーでもあります。
その唯一実在する真のパワーを
他のものと取り替えようとするのは
あまりにももったいない。
これまで道に迷ってきたのは仕方がないけれど
これからは
自分自身とゲームをするにかぎるかもしれません。
少なくともロバート・アダムスはそう言っています。
> あなたが美しい夕日のことを考えるときいつでも、
> 自分自身に気づいてください。
> 自分自身に、
> 「これは誰のところへ来ているのか?
> それは私のところへ来ている。
> 私がそれを認識している」
> と尋ねてください。
> あなたが「私とは何か?」を尋ねる前に、
> 覚えておくべきことは、
> あなたはその「私」ではない、
> ということです。
> 認識する「私」はあなたではない、
> ということです。
どんな見かけを見ようとも、
自分自身に気づいていること。
自分に、
「これは誰のところへ来ているのか?」
と尋ねる。
「それは私のところへ来ている。
私がそれを認識している」
この見かけを見ているのはエゴだ。
自分ではない。
わたしは何ものでもない。
わたしはすべてに浸透している普遍的エネルギー。
すべてはわたしという源から流れ出している。
しかし、
わたしはどこにもいない。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
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キンドル本の『地球世界はかなり特殊』
手にとっていただけました?(^^;)
アマゾンに入って
【地球世界はかなり特殊】と検索してくださいね。
読み物として面白ければと思っています。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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(-||-)
今日は晩くなりました。
お休みなさい。
(-||-)
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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